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京橋の伝と本所の銕(てつ)  作者: 泥亀草也
第二章 伝蔵とよね
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第十七話 千両落籍



 誰もが動かないと信じていた山が動いた。

 天明五年夏。吉原。

 大文字屋の暖簾から、灯籠とうろうびんに水浅葱(あさぎ)色の定型紋付の単衣ひとえ花魁おいらんそでが現れると、野次馬から万雷の拍手喝采が飛び交った。

 勘定組頭の土山宗次郎がついに落籍したのだ。

 落籍に費やした落籍総額は千二百とも千五百両とも言われ、瓦版が風評をばら撒いた。


「なんだか胸焼けがしてきた」


 伝蔵は吉原に残した耕書堂の奥に引っこむと、台座に置かれた土瓶から茶碗に麦茶をそそいだ。


「最後まで見てやらなくていいのか、土山様も誇らしげだぜ」


 蔦屋重三郎がとなりに腰かけてきて、伝蔵が注いだ茶碗を掴んで飲みほした。


「もういいよ。たっぷり見た。って、おい」

「なあ、気にならねぇか。誰が袖を落籍した千両の出所」

「興味ないよ。吉原で大金がからむ噂は大概、聞いた方が損をする」


「戯作者にあるまじき無煩悩だな。大森様の教えか?」

「親父(伝左衛門)だよ。家主の前は質屋だって言ったろ」

「ふうん。質屋は質草の顔だけでなく客の顔も値踏みしろ、だったか」


「そういうこと。てか、面白そうなとこだけ憶えてるんだな」

「ふん。土山様はどうやら、米相場を利用したらしい。噂だがな」

「あのさ。結局、重三(じゅうざ)がしゃべりたいんじゃないか」


 茶碗に麦茶を注いで、伝蔵はあおった。


「問題なのは土山様がどれだけの米をどこから調達して相場を操ったかだ」

「どこから? さっぱりだな」伝蔵は目線を逃がした。

「もうあらすじに目鼻がついたって言ってる顔だぞ。さすが人気戯作者・山東京伝だ」


 面白そうな話には鼻が利く、儲け話は耳で聞く。伝蔵は観念した。


「親から聞いた話だ。元商人なだけあって、上方の商売もまだ耳に入ってくるらしい」

「上方? どんな商売のネタだ?」


 伝蔵は茶碗から麦茶で唇を湿らせると、


一昨年(おととし)(天明三年)の師走に、御公儀(おかみ)は上方から西の譜代大名に対して、備蓄している城詰米を大坂に集めて江戸に送るように指示を飛ばしたらしい」


「一昨年といやぁ浅間山噴火がらみか。てことは、西は凶作にならなかったのか」


「うん。年明け(天明四年)に御公儀は、米穀売買勝手令というお触れを出したそうだ」


 米穀売買勝手令。それまで法律は、決められた業者(問屋や米()き屋)のみが米の流通と販売を行うことができるとされていた。このおきてを緊急措置として凍結し、江戸に持ち込む米は問屋を通さず自由に販売してよい、とするものだった。


 問屋を通さない米販売を認める法令は画期的なものであり、上方から江戸への米流通量を増やして、確実な米の確保と、一時的に高止まりする米価を引き下げることを目的とした時限立法の意味が強かった。


 ところが、この法令が上方の米流通関係者の反感を買った。


 米流通の活性化という点では成功し、上方からの米搬出が活発となったが、今度は上方が米不足となり価格が急騰した。米問屋株仲間からの請願を受け、大坂町奉行所は上方から外へ出す米を〝厳しく〟制限する措置をとった。


 しかしこの大坂米不足による価格急騰は、上方商人たちの自作自演だった。

 天明四年二月。大坂堂島米会所の米仲買商十九名が米の買い占めにより逮捕された。

 同年四月、彼らが保有して、押収された米は約二十万石にものぼった。そのうち三分の一にあたる六万五千石が江戸、大坂、京で高騰する米価に対して手当てされることになった。


「なるほど。大坂堂島といやぁ、米相場の総本山か」


 大坂で行われる米相場取引には正米(現物米)取引と帳合米取引があり、帳合いとは帳簿だけで数を合わせる取引、いわゆる先物取引のことだった。


「土山様が、帳合米取引に手を出したと?」


「さあね。でも平秩へづつさんは土山様の差配で、蝦夷地まで調査に行ったんだろ? 田沼様の側でそれだけの権限を持ち、米穀売買勝手令で上方の米相場が不自然な急騰をみせたことも江戸の米価格がいっとき沈静することも、あらかじめ知ることができた勘定組頭なら御公儀米を帳面上で〝運用〟できたと思わないか?」


「六万五千石をか?」

「まさか、江戸に流れてきたのはそのうちの半分だって聞いたかな。三万五千石?」


「それが一度、公儀の米蔵に入る前に到着を数日遅らせて、また堂島の米相場にくぐらせた。ってのか」


「かも知れないと思っただけだ。大坂町奉行所の不手際と上方商人の悪辣あくらつな囲い米騒動を江戸で最初に知ることができたのは勘定奉行所で、勘定組頭にならそれができたんだろう。それだけ」


「それだけ? そこまで話して終わるなよ。はっきり最後まで言えよ」


 伝蔵は麦茶を淹れ直した茶碗を口に運んで、すっきりした香ばしさに鼻息する。


「人ってのはさ──」

 伝蔵は、格子の隙間から歓声と拍手を浴びながら吉原大門を出る二つの黒塗りの輿こしを見送る。

「一度甘い汁の味をしめたら、また舐めたくなるもんだろう?」


 重三郎は腰から革の煙草入れを出して、吉原大門の方を見ながら一服つけた。


「なあ、伝蔵。お前、赤良先生(大田南畝)のこと知っているか?」

「赤良先生? 知ってるって何を?」

「松葉屋の三保崎だよ」

「ああ、和歌がうまくて先生がご執心(しゅうしん)なのは知ってる……まさか先生も落籍を?」

 

「そのまさかだとよ。土山様から事あるごとにけてもらってた金をコツコツ貯め込んでたらしい。囲う家まで、もう買ってあるんだと。浅草馬車道あたりだとよ」


「重三。金はあるところにはあるもんだって言わせたいわけ?」

「さあな。さあて、おれは真っ当に仕事すっかな」


 重三郎は台座から立ちあがって、大きく伸びをした。



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