風の止む場所
深い疲労と、胃の腑に落ちた奇妙な果実の熱。その二つに泥のように意識を引っ張られ、高瀬は背中を丸めてゆっくりと目を閉じた。異常な世界での張り詰めた緊張の糸が、ほんの一瞬だけ緩み、暗い眠りの底へと落ちていく。
小屋の中に、微かに規則的な寝息が混じり始めた頃。
壁際で横になっていた龍崎が、音もなく身を起こした。全員が完全に寝静まったことを鋭い視線で確認すると、彼は足音一つ立てずに小屋を抜け出した。
外は、吹き荒れる不快な風が砂塵を巻き上げていた。
龍崎は顔を顰め、目に入る砂埃を手で払いながら、あのコンクリートの廃墟へと向かって重い足を動かし続けた。彼と佐藤が、世界の理を解き明かすための「知識の源」として守り続けてきた、あの盲目の老人がいる場所へ。
やがて、風の向こうに無機質なコンクリートの壁が見えてきた。
龍崎は逸る気持ちを抑えながら、崩れかけた入り口を潜る。だが、その薄暗い空間に足を踏み入れた瞬間、彼の足はコンクリートに縫い付けられたように止まった。
「……先生」
床に転がっていたのは、物言わぬ佐伯の姿だった。
その胸元には、鋭利な刃物で正確に一突きされた痕跡が残っていた。無駄な外傷も抵抗の跡もなく、ただ一撃で確実に命を刈り取られた冷酷な事実だけがそこにあった。
誰が何をしたのか、龍崎には明白だった。あの、木製の器を平然と持ち歩いていた男。
その時。
背後の暗がりで、カツリ、と微かな靴音が鳴った。
龍崎が弾かれたように振り返ると、そこには薄闇に溶け込むように立つ榊の姿があった。
「あぁ、貴方でしたか。彼に水を運んでいたのは」
榊は、まるで世間話でもするような穏やかさで口元を緩ませた。
「そんな目で僕を見ないでください。佐伯さんの死は、事故です」
その顔に張り付いた歪な笑みを見た瞬間、龍崎の全身の毛穴が粟立ち、内側から爆発的な怒りがせり上がってきた。ワナワナと震える両拳を固く握り込み、喉の奥から絞り出すように唸る。
「……お前、自分が何をしたのか、わかってるのか?」
だが、榊はその殺気に満ちた問いに答えることなく、ゆっくりと反転して出口のドアへと歩き出した。
「龍崎さん、少し付いてきてください。貴方とは、もう少し話す必要がありそうです」
背を向けた榊の後ろ姿を、龍崎は落ちていた鉄パイプを拾い上げ、引き摺りながら追った。
外に出ると、あれほど吹き荒れていた砂埃の風が、嘘のようにピタリと止んでいた。ひどく不気味な静寂の中、鉄パイプが砂利を擦るジャリ、ジャリという音だけが響く。
「龍崎さん。戻って皆と話しましょう。説明しますよ、何があったのか」
榊は前を歩いたまま、振り返りもせずに言った。
その余裕な態度が、ついに龍崎の理性のタガを外した。
「ふざけるな……! 俺たちは先生と一緒に、この世界から戻る道を探してたんだ! 先生の知識が必要だったんだよ!」
「戻る道?」
榊は歩みを止めず、背後の龍崎に聞こえるよう、わざと大きな声で尋ねるように言った。
「なんの事です? ピラミッドといい、番人といい……」
「ピラミッドには、インドの古代文字やアラビア文字で構成された壁画があった……!」
龍崎は、榊の冷淡な尋問に引きずり出されるように、怒鳴り散らした。
「先生と佐藤の共同研究で、あと少しで出口が分かりそうだったんだ……! 先生の頭脳がなければ、俺たちは――」
気がつけば、二人は小高い丘の近くまで来ていた。この丘を越えれば、皆が眠る小屋と青白いオアシスがある。
「あと少しってところで、貴様ァッ!!」
怒りに身を任せた龍崎は、鉄パイプを両手で握り締め、背中を見せたままの榊へと無防備に躍りかかった。大上段から振り下ろされる、必殺の一撃。
だが。
「貴方、見た目ほど喧嘩は強くないんですね。モーションが大きすぎます」
榊の体は、コマ送りのように滑らかに半回転していた。
振り下ろされる鉄パイプの軌道を僅かな身のこなしで躱した瞬間、榊の右手に握られたサバイバルナイフが、大振りになって隙だらけの龍崎の胸元へと吸い込まれた。
ドスッ。
肉を断ち、骨の隙間を縫って、刃が正確に心臓を貫く鈍い音。
「……あ、が」
龍崎の目が見開き、口から声にならない呼気が漏れる。
榊は高級スーツの袖口に血の一滴も跳ねさせないよう、冷酷なまでの正確さでナイフを引き抜き、そして再び、二度、三度と、崩れ落ちる龍崎の急所を無駄な動き一つなく執拗に突き刺した。
鉄パイプが力なく砂に落ちる。
自らの血溜まりの中に倒れ伏し、痙攣する龍崎を見下ろしながら、榊は血の滴るナイフの刃先を眺め、ひどく楽しそうにニヤリと笑った。
「人を殺すってのは、こうやるんですよ龍崎さん。聞いてます?」
ピクリとも動かなくなった死体をつまらなそうに足で小突くと、榊の口から乾いた声が漏れた。
「あぁ……もう死んでるか」




