プラットホームの断絶
吹き荒れる砂煙の中を、どれだけ歩き続けただろうか。
永遠に続くかと思われた荒野の果てに、かつて二人がこの悪夢へと足を踏み入れた場所――薄暗い地下鉄のホームのような「断絶のプラットホーム」が、蜃気楼のように浮かび上がった。
「……着いたぞ、高瀬。ここから帰るんだ」
「はい……!」
緒方と高瀬が安堵の息を漏らし、ホームの淵へ足を踏み入れようとした、その瞬間だった。
――ガンッ!!
背後から、鈍く重い打撃音が響いた。
緒方の視界が唐突に暗転し、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「緒方さ――」
叫ぼうとした高瀬の腹部に、容赦のない蹴りが叩き込まれた。
「がはっ……!」
高瀬はうつ伏せに転がり、肺から空気を吐き出して激しく咳き込んだ。薄れゆく意識のなかで緒方を見やると、その後ろに、ゆっくりと近づいてくる黒い影があった。
「お疲れ様でした。ここまで案内してくれて、感謝しますよ」
榊だった。
腹部からは佐藤の血の匂いを漂わせながら、その顔にはいつもの冷ややかな笑みが張り付いている。
榊はおもむろに高瀬の荷物をあさり、道中のオアシスで手に入れていた「果実の皮」を取り出した。強靭な繊維を持つその皮を使い、手慣れた動作で気絶した緒方の手足を縛り上げ、続いて高瀬の両手を背後に拘束する。
「な、何を……」
「ついてきてください。どうやら、私が元の世界に戻るには、『罪なき者』である貴方の力が必要みたいですから」
榊はノートの内容を盗み見ていたのだ。システムエラーである高瀬たちに現れる光に便乗し、共に現世へ逃れようという算段だった。
その時。
――ウゥゥゥゥゥン……!!
空間を揺るがすような、鼓膜を劈くけたたましいサイレンがプラットホームに鳴り響いた。
暗闇の奥から、圧倒的な質量を持った「紅い光の巨人」が姿を現す。巨人は標的を見定めたように、地響きを立てて猛烈な勢いでこちらへ突進してきた。
あれは帰還の光だ。殺されない。そう頭では分かっていても、眼前に迫る巨大な異形と放たれる圧倒的な死の気配に、高瀬の身体は本能的な恐怖で震え上がった。
「さあ、案内してもらいましょうか」
巨人が目前に迫った瞬間、榊は高瀬の襟首を掴み、あろうことか巨人の鼻先へと放り投げた。
「え……っ!?」
無様に転がる高瀬の背中を、榊はまるで跳び箱のように蹴りつけ、その反動を利用して、巨人の胸に空いた「紅い光の穴」へと高く跳躍した。高瀬を囮にし、自分だけが確実に光へ飛び込むための非道な計算だった。
だが、誤算があった。
拘束に使ったあの果実の皮には、特有の「ぬめり」が残っていたのだ。
榊に踏みつけられた衝撃と皮の滑りが重なり、高瀬の両手を縛っていた拘束が、するりと抜け落ちた。
自由になった両手。
高瀬の脳裏に、激しいフラッシュバックが走る。
真っ先に浮かび上がったのは――かつて理不尽に奪われた、最愛の妻の死だった。
大切な者を失うという、身を引き裂かれるような喪失と絶望。
その消えない傷痕に重なるように、佐藤の最期、立花の無惨な死、そして今、慕っていた緒方が血を流して倒れる姿が脳裏を駆け巡る。
これ以上、俺の前で命を弄ぶな。これ以上、俺から大切なものを奪わせない。
高瀬は意を決し、懐に忍ばせていたあのサバイバルナイフを抜き放つと、咄嗟の判断で宙を舞う榊へと跳びかかった。
「――っ!!」
空中で無防備になっていた榊の腹部に、高瀬の渾身の一突きが深々と突き刺さった。
「がぁぁぁぁぁッ!!?」
神殿で佐藤を刺した時とは比べ物にならない、本物の苦痛に満ちた榊の絶叫がプラットホームに木霊する。二人はもつれ合うようにして、冷たいコンクリートの床へと落下した。
「お前だけは……お前だけは、絶対に行かせないッ!!」
高瀬は倒れ伏す榊の上に馬乗りになると、狂ったように刃を振り下ろした。
二度、三度、四度。
肉を裂き、血が飛沫を上げる。人を殺めているという感覚すら麻痺し、ただ己の中に渦巻く悲しみと憎悪のままに、高瀬は刃を突き立て続けた。
「……や、やめろォォォーーッ!!」
意識を取り戻した緒方が目にしたのは、その凄惨な光景だった。
血まみれになって刃を振るう高瀬。
それは、この世界における唯一の希望であった「罪なき者」が、己の手でその手を血に染め、「大罪」を背負ってしまった決定的な瞬間だった。
――ギギュィィィン……。
高瀬の背後で、無機質で冷酷な機械音が鳴動した。
振り返らなくともわかった。つい先ほどまで「帰還への扉」だった紅い光が、明確な「殺意」へと変貌したことを。巨人の手が、人を包み込むような形から、鋭利な処刑の刃へと変形していく音が聞こえた。
高瀬はナイフを持った血まみれの手を止め、静かに悟った。
(ああ……罪を犯した以上、もうダメだ)
高瀬は振り返り、縛られたまま這いずって止めようとする緒方を見つめた。
その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも絶望でもなく、どこか居たたまれないような、優しくも悲しい笑みだった。
「……お元気で。あと……すみません」
ズプッ、という鈍い音が響いた。
高瀬の背中から胸を貫通して、巨人の紅い刃が突き出していた。
高瀬の口からごぼりと血が溢れ、その身体は糸が切れたようにゆっくりと膝から崩れ落ち、プラットホームの床に倒れ伏した。そのまま二度と、動くことはなかった。
「高瀬ェェェェェェッ!!!」
緒方の悲痛な絶叫が響き渡る。
巨人はノソノソとした動きで、事切れた高瀬の亡骸ではなく、ただ一人残された「罪なき者」である緒方の元へと近寄った。巨人の両手が緒方を包み込むように持ち上げると、胸の紅い光の穴が大きく開き、緒方の身体は抗う間もなくその光の中へと吸い込まれていった。
そして、暗転。
騒がしい喧騒と、聞き慣れた電車の発車メロディ。
都内某所の地下鉄ホームの片隅で、一人の男が倒れているのを駅員が発見した。
男は警視庁の刑事、緒方だった。外傷は一切なく、まるで長い悪夢から覚めたように、虚ろな目で宙を見つめていた。
緒方が生還したというニュースは、行方不明事件の解決として小さく報じられた。
しかし、同じ日に行方不明になっていたただのサラリーマン、高瀬の行方が知れることは、二度となかった。
数日後。
緒方は、誰の訪問も受け入れず閉じこもっていた自宅の居間で、静かに息を引き取っていた。
首を吊った彼の足元には、警察手帳と、震える字でただ一言だけ記された遺書が落ちていた。
『すまない』
彼が誰に対して謝罪を遺したのか。その真実を知る者は、こちら側の世界には誰もいない。
~完~
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