キスの経験
日直で居残った教室。綺麗な文字で学級日誌を綴る彩香を蒼汰はただ隣からみつめていた。
「なあ、キスしたことあるか?」
蒼汰の口から思わずといった様子で言葉がこぼれ落ちる。彩香はシャープペンシルを口の開いた赤いチェック柄のペンケースの脇にとんと置き、学級日誌から顔を上げた。
静寂の中、かすかに野球部のものらしい活気のある掛け声が聞こえてくる。
「いっ、いや、何でもない。……忘れて」
視線に耐えかねたのか次第に声が小さくなる。彩香は目を瞬かせて、少し悩むような素振りを見せた。そして口の端を上げると、あるよ、と一言答えた。
「はっ!? はあ? 誰と?」
途端に蒼汰は学級日誌を落としそうな程の勢いで椅子から立ち上がる。勢いよく詰め寄ってくる蒼汰を彩香は鬱陶しそうに払いのけ、教えるわけないじゃん、と口を尖らせた。
「マジかよ……。絶対したことないと思ってたのに」
「残念でした」
うなだれて座り込む蒼汰に、彩香は軽く舌を出す。
「なあ、いつ? いつのことだよ」
食い下がる彼を面白がるように、教えなーいと答える彩香。その答えに、蒼汰はさらにがくりと肩をおとした。
「あー。うわー。ショックだ……。だってお前、彼氏いたことないんじゃなかったのかよ」
「そうだよ。年齢イコール彼氏なし。意外でしょ?」
ふふんと笑った彩香は自ら言うだけあって、可愛らしい外見をしている。しかし、蒼汰はその言葉にみるみる顔色を変えた。
「てことはその男、付き合ってもいないくせにキスしてきたわけかよ」
「うーん。別に相手がしてきたなんて言ってないよ」
再び立ち上がって、大声を出す蒼汰に、綾香は決まり悪げに答えた。
「ってことはお前から? でもそこまでして付き合えないやつなんかやめたほうがいいって」
真剣な様子でみつめる蒼汰。その眼差しに負けたように、やっぱそうなのかな、とぽつりとつぶやく。
「絶対そうだ」
「そうかー」
しっかりと頷く蒼汰に対し、彩香の顔には自嘲じみた笑みが張り付いていた。
「俺、ちょっと自販機行ってくるわ」
「うん。いってら」
自動販売機で炭酸飲料を買って、取り出し口に手を差し入れると、蒼汰はそのままへたり込んだ。
「俺にしとけって言えなかった……」
一方、教室で日誌を置いた机についたままの彩香もまたうなだれていた。
「やっぱりフリじゃなかったか……」
吐くため息は、お互いの耳に届かない。しばらくすると、蒼汰が教室に戻り、二人はそそくさと日直の仕事を片付けた。その表情は堅く、仕草もどこかぎこちない。
学級日誌と教室の鍵を職員室に届けると、二人は並んで帰路についた。照りつけるアスファルトに反響するような蝉の声。隣同士を歩きながらも二人の口数は少ない。
別れ際、思い切ったように蒼汰が口を開いた。蒼汰の額に浮き出た汗が一筋頬を伝う。
「相手……、どんなやつだ?」
「こっちはファーストキスだったのに、忘れちゃえるようなやつ」
「ひっでえ」
眉根を寄せる蒼汰に、彩香は顔を歪めた。
「あんただよ。バカ」
「えっ、それって……」
小さな声に目を見開いた蒼汰を振り切るように、彩香が背を向ける。知らん、と一言だけ残して歩み去る彩香の耳は微かに赤かった。
「ちょっと! 待てって、おい!」
呆けた様子の蒼汰は我に返ったように、彩香の背中を追いかけた。
短編として完結にしようとしていた話でしたが、気が向いたら更新という形にしたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。