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些細なこと

作者: 狐目 ねつき
掲載日:2020/08/26

 先月、彼女と別れたんだ。

 こうして文章にしてしまえば、たったそれだけの話である。まあ、恋愛の終わりなんて大抵その程度のものなのかもしれない。

 始まりには理由が要る。

 好きになった理由だとか、告白したきっかけだとか、付き合うことになった経緯だとか、人はやたらと恋の発端に物語を求めたがるくせに、終わりについては存外、雑だ。

 終わったから終わった。

 壊れたから壊れた。

 別れたから別れた。

 そんな同語反復みたいな説明で、案外どうにかなってしまう。

 僕らの場合もそうだった。

 誰かが誰かを裏切ったわけじゃない。

 浮気もない。

 借金もない。

 暴力もない。

 第三者が聞いて、分かりやすく片方を悪者にできるような事件は何ひとつ起きなかった。事件がなかったことが事件だった。

 強いて言うなら。

 少し言い過ぎて、言わなさ過ぎて。

 くらいだろうか。まあ、それくらい。ただ、それくらいのことが積み重なって僕らは別れたんだ。

 些細なこと、と言ってしまえば些細だ。ただ、些細なことが何も壊せないのなら、砂粒で時計は止まらないし、小さな穴から船は沈まない。大事なものほど、案外くだらない理由で駄目になる。くだらない理由で駄目になる程度には、大事だったらしい。

 なんとも、救いのない話である。

 彼女と付き合っていた数年間は、まだ二十代も半ばに差し掛かったばかりの僕の人生を振り返れば紛れもなく、疑いようもなく一番楽しい時間だった。

 初めての恋人。

 言葉にしてしまえば、その肩書きもまた随分と薄っぺらい。けれど僕にとっては初めて手を繋いだ相手で、初めて自分以外の人間の誕生日を掛け値なしに祝えた相手で、初めて平凡な一日というものが一緒にいる人間次第で記念日になり得ることを教えてくれた相手だった。

 別に、毎日が映画のようだったわけじゃない。むしろ映画にしたら途中で観客が帰るような日ばかりだっただろう。

 ただ、予定もあてもなく街を歩いたり、安いファミレスでディナーを食べたり、次の日には忘れてしまうような話題を朝まで続けたり。劇的かつ刺激的とは到底言い難い、そんな日常をだらだらと続けるのみ。

 それだけで充分だった。充分だったのにな――と。足りなくなってから気付いた。

 人間というのは、自分が持っているものを数えられる能力が低い。足りないものや失くしたものなら、いくらでも数えられるくせに。

 積み上げるのには何年も必要だった反面、壊すのには映画一本分の時間すら要らなかった。数年かけて築いた関係を、小一時間の話し合いで終わりにできる。終わってみれば実に軽くて、浅くて、下らない営みだとすら思えてくる。

 別れ際、僕らは随分と大人びた話をした。

 まだ若い。

 人生は長い。

 これから先、もっと素敵な出会いだってある。

 僕より彼女を幸せにできる男がいるかもしれない。

 彼女より僕と上手く付き合える女性だって、世界のどこかにはいるかもしれない。

 そうだね。

 そうだよね。

 これでよかったんだよ。

 互いにそんな言葉を確認し合った。確認し合った、というより言い聞かせ合った。

 言葉というのは便利だ。

 悲しい別れを『新しい出発』と呼べる。失敗を『経験』と言い換えられる。逃げることだって『前へ進む』と表現できる。都合よく名称を変更したところで中身は変わらないのに、人間はラベルさえ貼り替えれば、それなりに咀嚼しやすくなるらしい。

 だから、僕らもそうした。

 お互いに連絡先を消去した。

 メッセージの履歴を削除した。

 SNSでの繋がりも断ち切った。

 二人の写真もすべて消していった。

『互いの巣立ちの跡を濁さないように』

 それが最後に二人で決めた条件だった。

 なんとも詩的で。なんとも気取っていて。僕ららしくない結末だろうか。

 数年間一緒にいた人間を、自分の日常から排除する作業は驚くほど簡単だった。

 削除しますか。はい。

 本当によろしいですか。はい。

 機械のほうが僕よりもよっぽど未練がましい。二回も確認してくれた。それでも僕は、二回とも肯定した。

 はい。はい。さようなら――と。

 そうして、一ヶ月。

 僕らは一切の連絡を取らなかった。

 メッセージを送らない。電話もしない。SNSを覗かない。共通の知人に近況を尋ねたりもしない。

 少なくとも僕は、きちんと約束を守っている最中だった。そして日常は、何事もなかったように続いた。

 ともあれ。寂しくはなかった。

 少しも。

 微塵も。

 わずかにも。

 全くもって。

 これっぽっちも。

 寂しくなんて――なかった。

 ◇

 そんなある日のこと。

 仕事は休みだった。

 予定はない。約束もない。行きたい場所も特にない。

 休日という名を与えられた空白をどう処理すればいいのか分からず、僕は朝から狭いシングルベッドへ転がっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、やけに健康的で腹立たしい。

 僕は朝からスマートフォンを眺めていた。

 ネットニュース。SNS。ソーシャルゲーム。デイリーミッション。

 指だけが忙しい。脳は暇で、暇だから指を動かす。指を動かしているから、自分は暇ではないということにできる。現代人というのは、なかなかに高度な暇潰しを発明したものだ。

 そんなふうに午前を浪費――いや、浪費というほど有意義なことすらせず腐らせていたとき。

 ふと、思い出した。

「そうだ――」

 親への仕送り。今月分を、まだ振り込んでいない。

 数日遅れていた。これはまずい。

 母へ一言謝っておこうと思い、通話アプリを開く。

 電話帳から探すより履歴のほうが早い。

 そう考え、親指で画面を滑らせた。

 会社。

 友人。

 宅配業者。

 スパム電話。

 会社。

 会社。

 会社。

 僕の通話履歴は、恐ろしく色気がなかった。

 けど。

「……あ」

 履歴の末端まで辿り着いたところで、親指が、視線が、呼吸が、不意に止まってしまった。

 液晶に映っているのは名前ではない。

 十一桁の数字だった。

 電話帳から削除されているから、端末はもうその番号が誰なのかを知らない。

 スマートフォンは忘れていた。でも僕は覚えていた。だから分かった。分かってしまった。彼女の番号だ。

 見覚えがある、なんて程度じゃない。

 何度もかけた。何度も待った。

 何度もそこから着信があった。

 以前は、画面に彼女の名前が表示されるだけで嬉しかった。

 いまは名前すら出ない。

 十一桁。ただの十一桁だ。

 けどその十一桁の数列に、視線が釘付けになる。

 連絡先は消した。メッセージも消した。

 写真も消した。SNSの繋がりだって断った。

 彼女という人間は、この端末から完全に削除したつもりだった。

 まだ、いた。

 こんなところに。

 名前を失くして。顔を失くして。プロフィールを失くして。僕の端末にとっては、もはや誰だか分からない十一桁へと成り下がって。

 名前がなくても分かる。写真がなくても思い出せる。登録を消しても、記憶までは削除されていない。スマートフォンには削除ボタンがあるのに、人間には無いらしい。笑えてくるし、悲しくなるほどに不便な設計だ。

 そのとき。僕は気付いてしまった

 もし今、母に電話をかけたら、履歴が一件増える。

 そうなると、母の名前が一番上に来る。

 そうすると、既存の履歴は一段ずつ下へずれる。

 そうなれば、最後尾に残っている彼女の番号は押し出される。

 消える。たったそれだけ。

 記録がひとつ、画面からなくなるだけ。

 彼女の番号そのものが消滅するわけじゃない。

 世界から彼女が消えるわけでもない。

 もちろん、そんなことは分かっていた。

 分かっていたからこそ、怖かった。

 ――これが消えたら。

 本当に。今度こそ。

 彼女は僕の中から()()()()()

 そう思った。

 馬鹿だ。馬鹿げている。

 履歴なんてただのデータだ。

 数字だ。

 記録だ。

 過去だ。

 でも過去というものは、全部ただの記録なのかもしれない。思い出だって、脳に残った履歴のようなものだ。

 なら、たった十一桁を大事にしたって。

 それほどおかしなことじゃない――なんて。

 そんな理屈まで作り始めたところで、もう駄目だった。

 思い出してしまった、全てを。

 いや、思い出したという表現は正しくない。

 隠れていたものが、隠れているのをやめた。

 彼女の笑った顔。

 不機嫌な声。

 僕の服を勝手に着ていた姿。

 髪を乾かしながら何かを喋っていた横顔。

 夜道で繋いだ手。

 くだらないことで喧嘩した夜。

 気まずいまま寝た翌朝。

 どちらからともなく謝って、結局笑ったこと。

 二人で食べたもの。

 二人で歩いた場所。

 二人で交わした言葉。

 そのほとんどの内容を、もう覚えていないけど。

 覚えていない会話をしたことだけは、覚えている。

 それが妙に悲しかった。

 視界が滲んだ。

 十一桁が滲んだ。

 数字が数字ではなくなった。

 涙が頬を伝う。

 そこでようやく、僕は認めた。

 遅すぎる自白だった。

 後悔していなかったんじゃない。

 後悔していることを認めなかっただけ。

 寂しくなかったわけじゃない。

 寂しさに名前をつけなかっただけ。

 忘れたわけじゃない。

 忘れたいと思っていただけ。

 前を向いていたわけでもない。

 後ろを見ないように首を固定していただけ。

 頭の中ではいくらでも嘘をつけたし、理屈だって通せた。未来の僕へ向けて、いくらでも格好のいい言葉を残せた。

 でも、心だけは。

 僕の心だけは、僕の嘘に騙されてくれなかった。

 困ったものだ。

 自分のくせに。

 本当に言うことを聞かない。


 小一時間ほど泣いただろうか。

 二十代半ばの男が、休日の朝から。

 狭いシングルベッドの上で。

 十一桁の数字を眺めながら。

 泣いた。

 情けない。

 みっともない。

 格好悪い。

 だけどまあ、好きな人を失ってまで格好をつけ続けるほうが、よっぽど格好悪いのかもしれない。

 泣き疲れて。目元を袖で拭って、鼻を啜って。

 僕はもう一度、画面を見た。

 十一桁。

 まだ、そこにある。

 まだ、彼女へ繋がっている。

 繋がりを全部断ち切ったつもりだったのに。

 最後の一本だけ。

 切り忘れていた。

 いや。

 切れなかったのかもしれない。

 無意識に意識へと残していたのかもしれない。

 僕は、その番号を押した。

 発信。

 コール音が鳴る。

 心臓はその二倍速で鳴っている。

 呼び出しているのが電話なのか、心臓なのか分からないくらいだった。

 出なかったら。

 拒否されたら。

 番号を変えられていたら。

 新しい恋人がいたら。

 いくらでも怖い未来は考えられた。未来というのは本来まだ存在しないくせに、人間を怖がらせる能力だけは一人前だ。

 それでも、切ろうとはしなかった。

 切ってしまえば、今度こそ切れてしまう気がしたから。

 そして。

 僕が一ヶ月かけて遠ざけた声は、たった数回のコールで呆気ないほど簡単に戻ってきた。

『……もしもし?』

 彼女だった。

 たった一ヶ月。

 たかが一ヶ月。

 されど一ヶ月。

 聞き慣れていたはずの声が、どうしようもなく懐かしい。言いたいことは山ほどあった。

 ごめん。会いたかった。寂しかった。まだ好きだ。やり直したい。

 たぶん、どれを言っても間違いではないはずだ。

 だから僕は、その全部を言わなかった。

『えっと……ごめん、履歴残ってたからかけちゃった』

 我ながら、なんとも情けない第一声である。

 数秒の沈黙。電話の向こうで、息を吸う音。

 それから。

『……私もだよ』

 彼女の優しい声。

 少し笑っていた。

 少し泣いていた。

 たぶん、僕と同じように。

『ちょうどかけようか悩んでたとこ』

 なんだ、そうだったのか。

 僕だけじゃなかった。

 僕だけが、前へ進めていなかったわけじゃない。

 僕だけが、消し切れなかったわけでもない。

 一ヶ月間。

 別々の場所で。別々の生活をしながら。

 僕らは二人して、同じものを消せずにいた。

 電話帳から消せても。

 SNSから消せても。

 写真を消去しても。

 僕らは互いを、完全には消せなかった。

 それを運命と呼ぶのは、少し大袈裟だろう。

 奇跡と呼ぶには、あまりにも地味だ。

 だから、消し忘れ。

 それくらいが、ちょうどいい。

 僕らは互いに通話履歴を消し忘れた。

 ついでに。

 好きだった気持ちまで消し忘れていた。

 いや。

 違うか。

 好きだった、じゃない。

 過去形にするのは、まだ早かったらしい。

 電話の向こうで、彼女が鼻を啜る。

 僕も笑った。

 泣きながら。

 きっと彼女も似たような顔をしていた。

 別れ話では、あれだけ言葉を尽くした。

 人生だとか。

 未来だとか。

 お互いの幸せだとか。

 随分と立派なことを言った。

 だけど。

 やり直すときには。

 そんな言葉はひとつも必要なかった。

『じゃ、やり直そっか』

読んでいただき、感謝です。

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― 新着の感想 ―
いいですね。 履歴に残る、忘れようのない番号を見て、「まだ、ここにいたんだ」と気づく。履歴が「残ってたんだ」じゃなくて「いたんだ」。 繊細な言葉遣いで、主人公の彼女に対する思いの質が伝わってくる一…
まず最初に……!!ほんっっとーによかったです!甘酸っぱさや切なさが溢れる作品でした。途中心がキュッと締め付けられ、なぜ…どうして…と思いながら読み進め、あとの展開も最高に好きです。もしかすると、振込を…
[良い点] すごく好きな感じです。 その選択をしてくれてありがとうです。 吹っ切りたい。でも未練が勝った。 その未練が未来を築く。 お見事です。 [一言] Twitterからお邪魔しました!
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