食料なし
雨の降る夜、カエリアンの家にはゾラとリオラがいた。イレサは蜂蜜入りのホットミルクを用意し、ゾラはリオラとカエリアンに物語を語っていた。
「……森の中で旅人たちが冷たい夜を過ごしているとき、噂では……欲に溺れた女が近づいてくることがあるそうよ。一夜の情事を求めてね」
カエリアンとリオラは身を乗り出して聞き入っていた。
ゾラが続ける。
「旅人がその誘いに乗ると……人間じゃないって気づくの。肌は淡いピンクで、赤い刺青のような模様があるんだから!」
リオラは思わず身を引き、カエリアンは心の中で思った。
(……それのどこが悪いんだ?)
ゾラがさらに続けた。
「しかも、頭には皮に覆われた角が生えていて、口には鋭い牙があるのよ!」
カエリアンがまた心の中でつぶやく。
(……まだ悪いところが見えないけど)
「満足したあとで……生きたまま相手を食べるの!」
「きゃあっ!」
リオラが悲鳴を上げ、カエリアンは思った。
(……ああ、そこが悪いところか)
リオンはずっと彼らの隣で床に座っており、カエリアンの肘を軽く突いて笑いながら言った。
「なんか、外で寝たくなってきたな。なあ、カエル?」
「えっ?」
リオラとゾラが目を細めてリオンを見つめる。ゾラが言った。
「もう一度言ってみろ、そうしたら一生外で寝ることになるぞ」
「じょ、冗談だってば!」
イレサが近づき、蜂蜜入りのホットミルクを配る。リオラが尋ねた。
「その化け物たちって……何なの!?」
イレサが答える。
「アンバリアン(Ambarian)って呼ばれているの。色欲の女神アンバー(Ambar)が創り出した存在で、男たちを……いろんな意味で……喰らうのよ」
「男たちを!? 」
リオラはカエリアンの腕を肘で小突き、言った。
「聞いたでしょ? 森には近づかないほうがいいわよ、わかった?」
「えっ? う、うん、もちろん」
リオラは頬をふくらませた。
「何かあったら困るもの。……でも、あんた女の子みたいだから、もしかしたら狙われないかもね」
そう言って笑う。
カエリアンは目を細め、心の中で思った。
(……それって良いことなのか? 悪いことなのか? まあいい。どうせ外に出るつもりもないし、心配する必要もないな)
***
夜の真ん中、カエリアンは目を開けた。木々の葉の隙間から月明かりが差し込み、彼はゆっくりと起き上がって腕を軽く伸ばす。空気は冷たく湿っており、耳に届くのは風とコオロギの鳴き声だけだった。
彼はまぶたをこすり、立ち上がる前に横を見やると、火花がカエリアンの荷物を枕にして深く眠っていた。起き上がると背中を払って衣の裾についた葉を落とす。金の縁が月光にかすかに光った。
カエリアンはゆっくりと茂みへ向かい、ズボンを少し下げて用を足す。その間、彼は考えていた。
(もう……旅を始めて二週間か。食料が尽きかけてる。本来なら一ヶ月はもつはずだったけど、それは一人分の計算だった。二人じゃ無理だな)
排尿を終えるとズボンを上げ、両手を合わせて小さな水の球を作る。それを流すようにして手を洗い、次に掌を向かい合わせて温風を巻き起こし、手を乾かした。
終えると、カエリアンは火花のところへ戻ったが、彼女は荷物の中をあさって残り少ない食料を探していた。
カエリアンは大きくため息をつき、目を回すようにしてから小石を一つ作り、それを火花に投げた。
火花は床に転がり、半分眠たげに反論する。
「ねえ……食べてたのに」
「見りゃわかるよ。残りの食料を食べてるんだな」
火花は地面に寝転がったまま仰向けになり、片目を開けて言った。
「へえ、そう?」
口から半分出た干し肉を取り出し、カエリアンに差し出す。
「食べる?」
「んー、いらない」
「損するよ?」
火花は再び干し肉を口に戻し、カエリアンが言った。
「これで食料は底だ。非常食を使うしかないな」
火花はすぐに立ち上がり、自分の尻尾を抱きしめた。
「絶対だめっ! あたしのしっぽは食べちゃダメだからねっ!!」
カエリアンは指を立てて静かにするよう示した。
「声を落とせ」
「なんで? 近くには何もいないでしょ」
「どうしてそう言い切れる?」
火花は片目をつむり、にやりと笑った。
「このあたしの狐の超感覚でわかるの!」
カエリアンは再び腰を下ろし、地面に横になろうとした。
「ふーん」
そのとき火花の腹が鳴った。彼女は言う。
「おなかすいた」
「……冗談だろ? 今まさに最後の食料を食べたじゃないか」
「まあまあ、怒らないで。明日はあたしが食べ物を見つけるから。あたし、いいハンターなんだから」
「それはぜひ見せてもらおう」
「見ることになるわよ」
火花はそう言ってカエリアンの隣に身を寄せた。
カエリアンは彼女の体が触れた部分にわずかな痛みを感じた。
「おい、少し離れてくれないか」
火花は慌てて身を引く。
「あっ、そうだった。アレルギーね、忘れてた」
***
朝日が昇るとすぐに、二人は荷物をまとめて最も近い小川へ向かった。岸辺に腰を下ろし、魚が通るのを待つ。しばらくすると、数匹の魚が流れに乗って下ってきた。
「見てカエル! 一番に捕まえるのはあたしよ!」
火花は跳び上がり、魚めがけて急降下した。頭が水に触れる直前に両手でそれを掴み、そのまま一回転して全身ずぶ濡れになった。
「やった……えへっ!」
だが魚は手の間をすり抜けて逃げてしまう。火花は再び飛び込むが、今度は頭から水に突っ込み、失敗した。
「ははは、よくやったな、火花」
カエリアンが笑う。火花は頬をふくらませ、水面からゆっくり顔を上げて口に入った水を吐き出した。
「もぉー……笑わないでよ。魚の方がずるいの、油でも塗ってたんだわ!」
「はいはい、名ハンターさん」
カエリアンは細い石の杭を作り出し、水面に向けて狙いを定めて放った。杭は水に当たると速度を失い、魚は他の群れと一緒に逃げてしまった。
「なっ……くそっ、次はもっと力を込める」
火花は笑いながら立ち上がった。
「ふふっ、あんたも上手くないじゃない」
「うるさい、自分の尻尾でも見てな」
「……え? なに?」
火花が身を震わせた次の瞬間、水面から跳ね上がり、自分の尻尾に魚がぶら下がっていた。
カエリアンは口元を緩めて言った。
「おやおや、結局最初に捕まえたのはお前か」
火花は眉を寄せて睨みつける。
「ぐぅぅ……黙って」
***
数分後、二人は魚を囲んで座っていた。カエリアンはそれを少し嫌そうに見つめている。
火花が尋ねる。
「それで? 何を待ってるの? おなかペコペコなんだけど!」
カエリアンは深く息をつき、答えた。
「待ってない。内臓を出す」
彼はゆっくりと魚を手に取った。それは十五センチほどの小魚で、石の平板の上に置くと、刃のように尖った石を魔法で創り出した。鱗を削ぎ始めると、わずかに血が滲み出す。カエリアンは思わず目をそらした。
数分後、鱗を取り終え、次は腹を割こうとした。だが、刃が魚の腹を裂いた瞬間、血が溢れ出す。カエリアンの鼓動が早くなり、吐き気が込み上げた。胃の中には何もないはずなのに、こみ上げるものがあった。
同時に脳裏に浮かぶ……床を流れる血、そして釘で貫かれたガラの死体。
「ちょっと、魚落としたわよ!」
火花の声で、カエリアンは我に返った。
「……ああ、ちょっと」
「ふふっ、まさかそんなに繊細だとは思わなかったわ。ま、あたしがやる」
火花は魚を取り、爪の先を刃のようにして腹を切り開き、内臓を取り出した。
そのとき、遺産の声がカエリアンの頭の中に響いた。
(ねえ、カエル。大丈夫?)
カエリアンは深呼吸し、胸に手を当てながら火花が魚を捌く。
(まあ……なんとか。でも、あの光景……初めて見た)
(あれは何年も前のこと。生き延びたいなら、忘れた方がいい)
(わかってる。ただ……)
(血を見るたびにパニックになってはいけない。理由は誰にもわからないが……それに支配されてはならない)
カエリアンは小さくうなずき、火の魔法で魚を焼いた。二人はそれを食べ終えると、再び旅路を進み始めた。
***
数分間森の中を歩いた後、二人は再び土の道でできた本道に戻った。火花がカエリアンの前を歩き、彼はヴラドミストの冷たい景色を眺めていた。
(俺の状況では、本道を通るのは安全とは言えない。でも森の中だと迷いやすいし、進むのも遅くなる。それに、そもそもどこへ行けばいいのかよくわかってない。「南へ進んで村を見つけたら、あとは人に聞け」って言われただけだし……。つまり、これでわかるのは二つだ。俺には旅を計画する力がほとんどなく、知り合いの誰も道案内が上手くないってことだ)
「服乾かしてくれてありがと、カエル!」
「あ、ああ、どういたしまして」
火花はくるりと振り向き、後ろ向きで歩きながら話す。
「ねえカエル、あんたを追ってるあの人たち、なんて名前だっけ?」
「眼の教団。どうして?」
「会ったらボコボコにしてやるんだから」
「どれほどの実力かもわからない。遭遇したら下がってろ」
「やだよ、あたしだって戦えるし、引っかいたり噛んだりもできるもん」
「転ぶぞ」
火花はにやりと笑う。
「そんなわけ……な〜いっ!」
彼女はつまずいて後ろに倒れ、カエリアンは横を通り過ぎて歩き続けた。
火花は大きく息を吸い込んで叫ぶ。
「未来が見えるのっ!?」
***
小さな湖にたどり着くと、二人はそこで休むことにした。
「わあぁ、この湖、魚がいっぱい! 夕飯の分を釣っちゃおっと」
火花が袖をまくりながら言った。
カエリアンは荷物を地面に置き、軽く笑って言う。
「はは、じゃあ尻尾を水に入れて、また釣ってみたらどうだ」
火花は頬をふくらませた。
「笑わないでよ! 見てなさい!」
火花は両手を上げ、少しずつナリスを放出していく。やがて巨大な球体が現れた。
カエリアンが見上げて尋ねる。
「えっと……何をするつもりだ?」
火花はにっこり笑って答えた。
「釣りっ!」
ナリスを二つの巨大な拳の形に変え、湖を思い切り叩きつけた。水と魚が一気に宙へ舞い上がり、雨のように降り注ぐ。カエリアンは自分の上にナリスの障壁を張って魚を防いだ。
火花は飛び跳ねながら叫ぶ。
「やったー! あたしって世界一の漁師だね! 見た? 全然苦労しなかった!」
その瞬間、魚の一匹が彼女の頭に落ちた。
「いたっ!」
カエリアンは眉をひそめた。
「見事だな、馬鹿。湖の魚を全部引きずり出したじゃないか」
「すごいでしょ?」
「こんなに食べきれないし、保存もできない。どうするつもりだ?」
「自分のこと言ってるんでしょ」
***
数分後、火花は湖のほとりでしゃがみ込み、ぶつぶつ文句を言いながら頭をさすっていた。魚が落ちてきたときの痛みと、カエリアンに殴られた痛みの両方である。もう片方の手でナリスで腕を作り、生き残った魚たちを一匹ずつ湖に戻していった。
夕食を終えると夜が訪れ、二人は地面の上に横になった。カエリアンは夜空を見上げ、火花はすでに深く眠っている。
カエリアンは考える。
(魚を捕まえるのはいつもできるわけじゃない。だから早めに村に着いたほうがいい……でも今はあまりお金がない。旅のために母さんがくれた数枚のラネスだけだ)
彼は体勢を整え、目を閉じた。
(もしボレアルの財産を自分のものにしていれば、今ごろお金の問題なんてなかったのに。けど残念ながら、ガラが殺されたその日、村の連中が家を荒らして中の物を全部奪っていった)
目を閉じたまま眉をひそめる。
(ボレアルなら、俺がそのお金を持って行くことを望んでいた気がする。けど……彼の死は俺のせいかもしれないし、違うかもしれない)
森の奥から小さな枝の折れる音が聞こえ、カエリアンはすぐに目を開けた。
(……今の音は!? ダイアウルフ? 熊? 精霊? それとも眼の教団?)
彼はゆっくりと体を起こし、森を見つめながら火花の肩を軽く叩いて起こした。
火花は寝ぼけた声で答える。
「……んん……何?」
カエリアンは小声で言う。
「起きろ、何か聞こえた」
彼はイレサとゾラから幼いころに聞いた話を思い出した。
(待てよ……今いるのは寒い森のそばだ。もしかして……アンバリアン?)
考えが逸れる。
(ご褒美か、それとも罰か……)
再び音が鳴った。先ほどよりも大きく。カエリアンの脳裏に、男を食らうと語られた伝承の一節がよぎる。
(罰、間違いなく罰だ!)
彼は即座に森へと手を向け、手の中に石の杭を作り出して構えた。影の中から何かが飛び出してきても応戦できるように。
しかし、音の主は方向を変えながら素早く動き回り、カエリアンには正確に狙いを定められない。
(くそっ……一体いくついるんだ?)
彼は内にある「炎」を感じ取り、小さな脈動のように広げて周囲数メートルを探る。森の中には無数の意志があるが、どれも微弱で、昆虫のものだと分かる。狙うべき存在には焦点を合わせられなかった。
その時、森から小さな影が飛び出した。
「わっ!」
カエリアンは反射的に杭を放つ。しかし外れた。実際にはただの小動物で、間一髪で避けられたのだ。カエリアンは胸に手を当て、鼓動の速さを感じながら深く息を吐く。
「ふぅ……よかった、ただのネズミか」
「うるさい、寝たいの」
火花が言った。
その時、遺産の声がカエリアンに響く。
(「探知」の腕をもっと磨け)
カエリアンは再び横になり、ため息をついて言う。
「はいはい、分かってるよ」




