チャプター9
〜翌朝 自宅前〜
「おはようございま〜す」
その人物はドアの前に立ち、挨拶をしながら小さくノックした。とてもいい天気、朝日に照らされながら主が出てくるのを待つ。
じっとしていると、じわじわと体温が上がって行く。季節を問わず、体温が低いままでは活動もままならないが、冬は特に活動が低下するので、日焼けは嫌だが直射日光自体はとてもありがたい。
「ん、こんな朝から誰だ?」
五分ほどあってドアが開き、主が中から現れた。仕事に行くからか、すでに身なりは整っている。それなりに早い時間に尋ねたつもりだったのだが、これには驚かされた。
「なんだ、エルちゃんか。こんな朝早くどうしたんだ?」
「おじさん、おはよう。ほら、おばさんが出てっちゃって、不自由してるんじゃないかと思って、ちょっと様子を見に。うちにも来られなくなっちゃっただろうし、これ、差し入れです。よかったら食べてくださいね」
そう言って手渡したのは大きな包み。見るからに重そうなそれを、エルリッヒは軽々と手にしていた。
それがなんであれ、おじさんにはありがたい。頂き物自体がありがたいというのもあるが、何よりも娘のように大切に面倒を見て来たエルリッヒが、自分を気遣ってくれた事が嬉しかった。
「お、おう、ありがとうな」
素っ気なくお礼を言ってみたものの、内心では涙が出そうになるのを必死にこらえている。実の娘ですら、独立してからはこんなに気を遣ってくれた事はないのだ。
「それじゃ、私は用事があるからこれで。あ、そうだ。おばさんとは上手くやってるから、心配しないでくださいね」
「ああ、そうらしいな。他の奴から聴いてるよ。まあ、なんだ。心配なんざしてねーから、いつまででも帰ってこなくていいって伝えといてくれ」
これまたぶっきらぼうに言い放つと、大事そうに包みを持って家の中へ戻ってしまう。その言葉がどこまで本心かはわからない。本当に浮気をしているのかも。とりあえず、こうして話をしている分には、おばさんの言っていた「香水のいい香り」は嗅ぎ取れない。
おばさんの「女の勘」が「怪しい」と睨んだ今回の件だが、エルリッヒの「女の勘」は、「無実だ」と踏んだ。
「さて、私とおばさん、どっちの女の勘が正しいのかな」
その答えはまだ、出そうにはなかった。
〜1時間後 職人通り〜
浮気調査初日。この日まず向かったのは、フォルクローレのアトリエだった。昨日依頼した浮気調査グッズが果たしてできそうかどうか、そもそも役立ちそうなアイテムが存在するのかどうか、それを確認しに来たのだ。
「フォルちゃーん、いる〜?」
軽快にドアをノックしながら、呼びかける。昨日の今日という事を考えれば、少しくらいは生活を改めて欲しいのだが、生活習慣はそう簡単には変わらない。期待半分、諦め半分での訪問である。が、しかし、得られたのは意外な結果だった。
『その声、エルちゃん? ちょっと待ってね。今開けるから』
なんと、中からフォルクローレの返事が返って来た。煙突からは煙が上がっていない。これはどういう事なのか。
「はーい、お待たせー。さ、入って入って。どぞー」
「う、うん、ありがとう。お邪魔するね」
意外な結果に驚きを隠せないまま、明るい笑顔での招きに応じる。そして、アトリエに足を踏み入れたエルリッヒが見た物は、これまた意外な物だった。
「なっ!」
なんと、アトリエ内が見事に片付いていた。
「き、綺麗。私ここまで綺麗なこのアトリエを見るの、初めてだよ」
「ちょ、ちょっと、それは失礼じゃない? いくらものぐさなあたしだって、生きてるホウキが生きてる間は綺麗にしてるよー。ま、今回は全部人力、あたしの力で片付けたんだけどね。これなら、ゆっくり座れるでしょ? 今お茶出すから、ちょっと待っててね」
そう言って、キッチンに消えて行くフォルクローレ。いくら少し過剰な行動で忠告をしたとは言え、一体何があったのか。いやさ、何がそこまで変えさせたのか。あの時軽く抱きついた行動に、そこまでの力があったのか。
「ねぇ〜、どういう風の吹き回しなの〜?」
お湯を沸かす背中に向け、問いかける。そういえば、今日はこの大釜が煮えていない。仕事を休んで片付けに専念した、という事だろうか。
「んー、昨日の事が少し骨身に沁みてねー。友達に心配かけたり迷惑かけたりするのって、やっぱよくないし、部屋が散らかってたり、不眠不休でやってたりすると、調合も失敗しやすくなるからねー。たまには心を入れ替えないと」
返って来た答えは、至極真っ当な物だった。人としてあって当たり前の一面を見て、ほっとする。だらしないだけがフォルクローレではなかったのだから。
「そーいえばさ」
「ん、何?」
お茶の用意をしながら、今度はフォルクローレが問いかけて来た。体の動きに合わせて揺れる金髪が美しい。
「昨日抱きつかれた時に思ったんだけどさー、昨日のエルちゃんて、獣の匂いがしたよねぇ。あれ、なんで?」
「あー、お肉扱うからじゃない? 朝から市場で仕入れて、そのままお店で仕込みしてたから」
なんと鋭い娘だろうか。エルリッヒが人間ではないからこその、竜としての獣の匂いを嗅ぎ取ったとでも言うのか。咄嗟にごまかす言葉が出て来た事には、自分でも驚きを禁じ得なかったが、肉を扱うからと言って、人より肉を食べる機会が多いからと言って、少なくとも人間が感じ取れるほどの匂いの差が出るとは思えない。やはり、”本当は人間ではない”からこその匂いがするのだろう。今まで気付かれなかったのは、単に周りの人間がそこまで敏感でなかったからか。
「私も、香水使った方がいいかな」
「んー、難しいよねー。食べ物屋だと、あんまり香水強くても悪いでしょ? 匂い消しくらいならどうにかなるとは思うけど、他の人が気付かないんだったら、あたしが敏感ってだけの話だしねー」
香水なんて、普段は気にした事もなかった。よそに出かける時、旅に出る時、それにお城や貴族の屋敷に上がる時には使って来たが、それは滅多にない事で、いくつか持っている香水は、普段は部屋に飾ってある。
瓶が可愛いので、部屋のアクセサリーとしてもちょうどいいのだ。
「あ、それに、あたしあの時お腹減ってたっぽいんだよね。だから、そのせいもあるのかも。はい、お待たせー」
「ん、ありがと。お腹が減ってたのが本当だったとしても、気をつけなきゃだよね」
これは、乙女としての矜持の問題なのだ。まさか、こんな事を言われるとは思っても見なかったが、遠慮なく物を言ってくれる方が、むしろありがたい。
「無理はしない方がいいと思うけどね。昔、自分の匂いを気にして香水付けまくって、すごい事になってる貴婦人がいたから」
「ちょっとフォルちゃん、そういう経験してて私に言うかなぁ。今、すごく気にしたんだけど。っとと、そんな事は大事な事だけど、あれだよあれ、目的は別なんだよ。昨日頼んだ件、何か目星は付きそう?」
ようやく本題に入った。思えば、早く話をしてさっさと浮気調査に行く予定だったのに、なんでこんな事になってしまったやら。だが、これも我が身の迂闊が招いた事。300年間誰にも指摘されなかった事を、今ここで気付かされたのだから、そこに何かを言おうという事はない。
「んー、一応ね。参考書を色々調べてようやく出て来た感じだから、まだ作った事なくて、保証もないからなんとも言えないけど。出来上がったらお店に届けに行くよ。それでいい?」
「もちろん。どんなアイテムなのか、気になるなぁ。気になるなぁ。っとと、こうしちゃいられない。今日から浮気調査開始なんだよ。それじゃーね。紅茶、美味しかったよ」
色々な収穫があった。その事を胸に、アトリエを出ようとする。
「あ、待って」
「ん、何?」
立ち上がりドアに向かっていたエルリッヒを、向かい合って座っていたフォルクローレが呼び止めた。
「あたしからの忘れ物、だよっ!」
おもむろに立ち上がると、駆け寄って来た。そして、
「っ!!」
「はい。昨日のお返し!」
しっかと抱きついた。
「な、何してんの!」
思わず真っ赤になって問いかける。昨日の自分がした事とそう変わらないと言うのに、この動揺は一体何事か。いやさ、昨日のフォルクローレはこの動揺を味わったのか。
「何って、昨日のお返し。むしろ仕返し?」
「そうじゃなくて〜。なんでいきなり抱きついたの? お返しにしたって!」
やる方としても、多少のドキドキはあったが、それはむしろ予想外で大胆な行動を行う事に対するドキドキであり、今の感覚とは違う。よもや心臓が早鐘のようになろうとは。
「あはは、ごめんごめん。お返しだの仕返しだのは冗談。本当はさ、あたしの一言で傷つけちゃったかなーって、少し反省してたんだよ。だから、こうしてもう一度確認してみようと思って」
「へ?」
それはつまり、先ほどの言葉を受けての事らしい。もう一度至近距離で匂いを確認すれば、前言撤回できるかもしれない。エルリッヒを安心させられるかもしれない。そう考えての事だった。
抱きついたままの体勢で、大げさに深呼吸する。
「ちょ、ちょっと」
気持ちはありがたいし、理由が分かっているからそう強くも言えないのだが、やはりこのシチュエーションは変だ。変な場面なのだ。
「ん〜、柔らかい! じゃなくて、今日は気にならない。昨日が思い過ごしだったのかは分からないけど、大丈夫じゃないかな。ごめんね、変な事言って」
「い、いいよいいよ。私も少し女の子としての自覚が足りなかったんだろうし。これからは気をつけなきゃって事を気付かせてくれただけ感謝してるんだから」
抱きしめられた腕をほどきながらフォルクローレの体を離し、笑顔を作る。自分の言葉に、一点の曇りも混めないように。
「でも、こういうの、ドキドキするね。私の方こそ、昨日は驚かせちゃってごめんね。じゃ、今度こそ行くね。アイテム、楽しみにしてるから」
「ん、分かった。エルちゃんも、昨日の事は気にしなくていいから。浮気調査、頑張ってね」
こうして、少し複雑な気持ちを抱えたまま、フォルクローレのアトリエを後にするエルリッヒだった。
〜つづく〜