チャプター5
〜十日後・昼食時〜
「いらっしゃ〜い!」
「おばちゃ〜ん! こっち、会計ね〜!」
「あいよ〜!」
竜の紅玉亭は相変わらずのにぎわいを見せていた。
「それにしても、すっかりなじんじゃったなぁ。始めからいるみたいじゃない?」
「あははっ、嬉しい事言ってくれるねぇ。あたしもさ、エルちゃんがこの街で右も左も分からない頃からお世話してるだろ? だから、娘みたいに思ってる所があるんだよ。もちろん、本当の娘もいるけどね。はい、じゃあ代金は丁度だね。また来ておくれ!」
十日間が過ぎ、おばさんは、ここの店員としてあまりにもしっくりとなじんでいた。エルリッヒとしてもお店の事は放っておけないため、二人の問題を解決するための具体的な行動に出られないでいるのだ。
もちろん、おばさんとの二人暮らしが楽しい、という事もあるのだが、一方で、おじさんが今何をしているのか、ここに来られなくなって、日々の食事をどうしているのかなど、心配事もあった。
王都にはたくさんの食堂があるが、この店をひいきにしてくれていたために、いざいないとなると、とても寂しい。
「ありがとうございましたーっ!!」
店が忙しくて、そういう事を考える時間もなかなか取れないのが現実なのだが。
「そろそろなのかな」
十日と言う節目、そろそろ二人の問題を解決するために動かなければならないのかもしれないと、そう思っていた、
〜その夜〜
「おつかれ〜」
「おつかれ〜」
こうして、遅い夕食であるまかないを食べながらグラスを交わすのが、二人の日課になっていた。
もちろん、エルリッヒはミネラルウォーター、おばさんはワインである。飲み物も、毎回変わらない。
やはり、一日の営業を終えたこの時間が、一番ゆっくりできる。お昼の後は夜の仕込みを考えなければならないし、朝は朝で開店準備が色々ある。夜の時間というと、時折イレギュラーなメニューのために仕込みを行うくらいなので、数少ないのんびりできる時間なのだ。
「おばさんも、すっかり慣れましたね」
「おかげさまでね。こっちこそ、もう十日もお世話になってるんだねぇ。早いもんだよ。ホント、どうして恩返ししたらいいのか、分からないくらいさ」
それを聞いて、一瞬エルリッヒの瞳が光った。
「じゃあ……」
ここで切り出す話題と言えば、一つである。浮気の真相調査の件である。おばさんがまだそれに気付いていないのをいい事に、早口でまくしたてた。
「おじさんが本当に浮気してるかどうか、調べてもいいですか? とりあえず、明日いきなりお休みにしますなんて言ったらみんな困っちゃうから、明日告知して、明後日調査のためにお休みにしましょう。おばさんは同行するのが嫌なら、ここで待っててくれても構いません。もちろん、うちの中で何しててもいいので、お店を開けてくれてもいいですし、掃除しててくれてもいいですし、のんびりしててくれても構いませんし。とにかく、事の真相をはっきりさせないと、わたしとしてはおじさんの事を悪く言えないから、おばさんには悪いとも思うけど、気の済むまで調べさせてください。これが恩返しで、大丈夫ですね?」
これだけの事を短い時間に言われ、おばさんは少々混乱していた。もちろん、それが狙いである。
「あ、ああ、任せるよ」
文言まで一致していたわけではないが、概ね期待した通りの回答を得る事が出来た。これで一歩前進である。
「それじゃ、明日はお客さんに伝えないといけませんね」
少しだけ嬉しそうに、そして好奇心を必死に押し隠したようなはにかみで、明日の段取りを呟いていた。こういう事は楽しくて仕方ないのである。
「とりあえず、明日は普段通りお店開くから、今日はいつも通りに休みましょう。わくわくしますね!」
「エルちゃん……それ、本当にあたしのためなのかい?」
一瞬、本心を見透かされたような気がした。いや、好奇心半分おせっかい半分なのだ。二人に仲直りしてほしいのだ。
たとえ浮気の話が本当だったとしても、思い過ごしだったとしても。
「ま、まさかぁ! おばさんたちは私にとってこの街での両親みたいなものですよ? そんな、好奇心だなんて、あるわけないじゃないですか〜!」
言ってる事は本心なのに、どこかごまかしているように聴こえるのはどうしてだろう。いや、好奇心も混じっているから仕方ないのか。とにもかくにも、この件を解決すればそんな事は水に流れてしまう。
そうだ。早く明後日を迎えてしまえば、それで済む事なのだ!
「それじゃ、ご飯も食べた事だし、私また寝床作って来ますね!」
いそいそと二階へと向かう。その後ろ姿を見送りながら、おばさんは穏やかな笑みを浮かべた。
「ホント、ありがたい事だよ。あたしも、娘みたいに思ってるよ」
〜翌日〜
この日は朝から大忙しだった。明後日を休業日にして浮気調査に当たろうと計画していたのだが、おばさんが「あたしがお店を預かるよ!」と名乗り出てくれたのである。当然、売り上げの事を考えればとてもありがたいのだが、何しろ一人で切り盛りすると言うのだから、これは大変である。
主婦としては大ベテランで、この十日間で多くの事を共に経験し、大体の事は任せられる。しかし、それは全て二人で一緒にやっての事である。一人でどこまで任せられるかと言う事になると、話は別だ。
そして何より、たまにはゆっくりとした朝を迎えたい、という思いがあったので、二日分の仕入れをしてしまおうと考えたのだ。
「エルちゃん、いいのかい? なんなら仕入れだって一人で大丈夫だよ? 少なくとも、ここの連中とは子供の頃からの付き合いなんだし」
「それはそうなんですけど、いくらお店を空けると言っても、いくらおばさんが切り盛りしてくれるって知ってても、全く私の影がないんじゃ、みんなも寂しいじゃないですか。今日のうちに出来る事はしておきたいんですよ」
台車を引きながらそう語る姿は、まさに独り立ちした娘のそれのようで、嬉しくもあり寂しくもあるおばさんだった。だが、そういう考えなら同意しないわけにはいかず、手伝わない道理はなかった。
「そうだよね。たまにはゆっくり寝たいっていうのもそうだし、エルちゃんの味を求めて来てる連中を満足させないといけないっていうのもそうだし、おばさんも手伝うからね! 今が冬でよかったね!」
「本当に。夏ならこうは行きませんから」
食料庫には、保存の利く物しか置いていない。だから、一日でも無駄が出てしまうと、その素材はダメになってしまう事になる。これが冬ともなれば、話は別なのだ。夏の何倍も長持ちする。それを狙っての、今朝の仕入れだった。
「その代わり大変になるから、台車を押すのもお願いしますね」
「当然だよ!」
そうして、二人は本当の親子のように朝のコッペパン通りを練り歩いた。
「よっこいしょ」
「いやー、買ったねー!」
二人は仕入れた食材を運び込んで行く。二人掛かりで二日分。普段買わないような量を買ったので、とても大変だった。
エルリッヒ自身はなんでもないが、おばさんにとっては重労働だろう。それにあわせて重たい振りをするのも大変だった。
もちろん、重量の事だけではなく、単にたくさんあるだけでも十分に大変なのだ。
「それじゃ、いつもように仕込みを……っとと、おばさん、仕込みが終わったら、ちょっと任せちゃっていいですか? 出かける用事を思い出したんですよ。お昼の込み合う時間までには戻って来ますから」
「いいも悪いもないよ、それはエルちゃんが決める事だろう? 行っといで。仕込みさえ終わっていれば、ここはあたし一人でも大丈夫さ」
おばさんの言葉には、なんの不安も感じなかった。なんと心強いのだろうか。エルリッヒは笑顔で返事をする事が出来た。
「はい、ありがとうございます!」
「ん! いい笑顔だ! みんな、その笑顔を見に来るんだね」
笑顔は伝染する。誰が言った言葉かは忘れたが、確かにその時、ここはその言葉の通りになっていた。
〜つづく〜