チャプター3
〜夕方 キッチンにて〜
「ちょっとおばさん!」
ドタドタと激しい音がした後、エルリッヒが二階から駆け下りて来た。深紅の髪は乱れ、衣服にも乱れが見える。明らかに寝起きだった。
「おやエルちゃん、起きた?」
「起きた? じゃないよ、もー。なんで起こしてくれなかったんですか? 三時の鐘で起こしてってお願いしたのに〜」
日の傾きつつある厨房では、おばさんが一人で仕込みを行っており、鍋はぐつぐつと煮え、いい匂いも漂っている。勝手にキッチンを使われた事は全く気にならないが、起こしてくれなかった事だけはなんとしてでも追求しなくては。
「いやね、起こそうとはしたんだよ。起こそうとは。でもさ、あれだけ気持ち良さそうに寝てたら、起こしたら悪いって思ってね」
それで一人で夜の仕込みをしていたのか。ありがたい事だが、どう捉えたらいいのか分からない。感謝すべきか、怒るべきか。
「き、気持ちは嬉しいけど……明日からはこういう事になったら起こしてくださいね?」
「そうかい? あたしからするとエルちゃんは働き過ぎのようだから、少しくらい休んだって神様は怒らないと思うけどねぇ」
煮えたぎる鍋に刻んだ野菜や川魚を放り込みつつ、優しい瞳でエルリッヒを見つめる。王都の母、という位置づけは伊達ではないらしい。
「神様、か」
「そうだよ。普段どれだけ真面目に働いてるかは、神様がちゃーんと見ていてくださるんだ。だから、少しくらい休んだって、怒りはしないのさ」
ふと考えると、何となく人間の価値観や物言いを真似するうちに神にすがってみたり、信心があるのかないのかよく分からないような状態になっていたが、元々ドラゴン社会には宗教と言う概念すらない。ただ、日々を生きる弱肉強食な獣の世界に、人間と同レベルの知性が加わっているだけなのだ。
信じる物は己のみ。といっては言い過ぎかもしれないが、少なくとも、信じられるのは同じドラゴン族だけだった。
「そういうもんですかねー」
「そういうもんなのさ。世の中は。さてと、勝手に仕込みを始めちゃったけど、大丈夫だった? 朝の買い出しでいくらかは見ていたけどさ、おばさん自分流にやっちゃっただろ? 味が違ってたら悪いじゃないか。せっかくだから、ここからの調整はエルちゃんに変わってもらおうかね。あたしはお店の開店準備をしておくよ」
さすがに主婦のベテラン、手際がよい。エプロンも三角巾もそのままに、窓を開けて椅子などを並べて行く。そして、軽いぞうきん掛けが始った。
「箒で掃き掃除するわけにもいかないからね」
との事だが、その気遣いもまさに主婦ならではだ。
「それじゃ、こっちは遠慮なく味見をっと」
鍋の中はしっかりと出汁が出ていて、うっすら琥珀色に染まっていた。それをお玉で掬うと、小皿に移し、軽く味を見る。
「んんっ!! ややっ! やややっ!! これは美味しい! おばさん、いえ師匠!」
これは確かに自分の作る味ではない。他人が作った味だ。でも、掛け値なしにとても美味しい。これが主婦のベテランの生み出す味か。ともすると、料理を学びだしたのも自分の方が早いかもしれないのに、それでもやはり、この味には感服せざるを得ない。
「おばさ〜ん、今度料理教えて〜!」
「あっはっはっは! エルちゃんみたいな本職に褒められるなんて、光栄だねぇ。あたしの味付けでいいならいつでもいくらでも教えるよ! でも、ここに来る連中はエルちゃんの味付けを求めてくるんだから、あたしの味は、ちゃんと調節しておくんだよ?」
おばさんの言う事はその通りで、たとえ味比べで負けるとしても、ここに来る客はエルリッヒが作る味や料理を求めて来るのだ。その期待を裏切らないためにも、自分の味をこれからも追求し、提供し続けなければ。
もっとも、自分の料理も決して人前に出せないような水準のつもりはないのだが。
「えーと、ここから味を直すのか。これはこれで大変だな。変な味にならないよう気をつけなきゃ……」
慎重さと大胆さが問われる作業。しかしながら、しっかりと昼寝をしたために頭は冴え渡っている。お昼のピークタイムで疲れた舌もリセットされている。これならなんとかできそうだ。
俄然気合いが入る。腕まくりをすると、気合いを入れた。
「さーて! それじゃあちゃっちゃか始めますか!」
〜夕方〜
お昼時と並んで混雑する時間、いつものように店内は客でごった返していた。人の多さは相当な物だが、そこに飛び交う威勢のいい声は普段とはちょっと違っていた。
「エルちゃ〜ん! こっち、ベルク・カッツェの小さいボトル一本!」
「はーい! じゃ、おばさん三番テーブルにおねが〜い!」
「あいよー! はい、お待ちどう!」
いつもは一人で切り盛りしている所を、おばさんが手伝ってくれている。それだけでも百人力だというのに、まして昼寝までして普段より昼間の疲れが取れている。今日のエルリッヒはいつも以上に快活だった。
「ルイーゼ、すっかりここのウェイトレスだな。もうこのまま居着いたらどうだ?」
「何言ってんだよ! あたしの事は、あたしが決めるのさ」
気ままな風を吹かせているが、果たしてこのままずっとここにいるつもりなのだろうか。エルリッヒとしては、人手が増えて助かるし、賃金を払う必要もないし、なによりまだ転がり込んできたその日で、特別迷惑と言う感じはない。だが、今日の営業が終わり次第でも、少し深い話をしなければならないだろう。
本当は、昼食の時にでも切り出すつもりだったが、眠さに負けてできなかった。だから、今度こそは詳しい話を訊かなくては。
「おばさん? 決めるのはおばさんでも、私も一枚噛んでるんだからね。ここに転がり込んだ以上は、従ってもらうよ?」
「エルちゃんも言うね。でも、ガツンと言ってやらなきゃダメだぞ? 損したってしょうがないからな!」
「あんた! このあたしに向かってそんな口きいて、いいのかい? 子供の頃散々いじめっ子から助けてあげたじゃないか! あの時の恩、忘れたんじゃないだろうねぇ?」
全く、なんと楽しい空間なんだろう。課題は色々あるけれど、お店に人が増えれば、やはりそれはより楽しい空間へと変わって行く。
今日一日はとても長く感じるが、その事だけは、紛れもない、偽りのない気持ちだ。
穏やかな気持ちに包まれながら、その夜は賑やかに更けて行った。
〜つづく〜