⑩新しい日常
――グランベルカ中央区
ミラ・ルージュは、アビリティワークスの扉の前で立ち止まり、前髪を左手でくるくると弄っていた。
「大丈夫……うん、自然に……そうよ、普通に渡すだけなんだから」
前に来た時よりも、今日はやけに緊張する。
胸元のポーチを軽く押さえる。
中には、小さな包み。
正社員として初めての給料で買った、ささやかなお礼だった。
深呼吸してから、扉を開く。
扉をくぐった瞬間、ふんわりと鼻につく甘い香りに違和感を感じた。
前に来た時はこんな香りはしなかったのに……でも、この香り、どこかで……
そう思い、部屋の中をぐるりと見渡す。
壁際の棚には書類が整然と並び、奥のデスクでは誰かが事務作業をしている。
「あ……」
ミラは、その背中に見覚えがあって、思わず声を漏らした。
銀藍色の髪をサイドテールに結んではいたが、前に娼館の前で声をかけてくれた女性だった。
振り向いたその顔を見て、ミラは一瞬、言葉を失う。
「……っ!」
あの時、アビリティワークスの名刺をくれた、赤いドレスの女性。
今は落ち着いた色合いの服に身を包み、机に向かって資料を整理している。
「あの……」
ミラの声に気づき、女性はゆっくりと顔を上げた。
一瞬きょとんとしたあと、すぐに表情が和らぐ。
「あ……あなたは……」
「ミラ、と言います……覚えて……ますか?」
「ええ。もちろん」
女性は小さく微笑んだ。
「フィリオーネよ。今は、ここで事務をしてるの」
「え……?」
ミラは思わず周囲を見回した。
「ここ、で……?」
「そう。あなた、エリオに会いに来たんでしょう?」
エリオの名を出され、少し顔を強張らせてしまう。
その表情のまま、ミラはこくりと頷いた。
「エリオさんのおかげで、仕事に就けて……初めてお給料もらって……あ、いや、バイト以外でってことで、それで、その……お礼を……」
自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、ミラは視線を落とす。
フィリオーネはその様子を見て、くすっと小さく笑った。
「ふふ、そんなに緊張しないで」
そのとき、奥の部屋から足音がして、聞き覚えのある声がした。
「フィリオーネ、午前中に渡した資料には目を通したか?」
「ええ。今、確認し終わったところよ」
エリオだった。
ミラは反射的に背筋を伸ばす。
「……ん?あなたは」
こちらに気づいたエリオが、視線を向ける。
「今日はどうされました?」
「えっと……その……これ」
ミラは慌ててポーチから包みを取り出し、両手で差し出す。
「初めてのお給料で……本当に助けてもらったから……」
エリオは一瞬だけ目を瞬かせ、それから困ったように頭を掻いた。
「……律儀だな」
小さい声で、そう言いながらミラの近くまで歩み寄る。
「ありがとうございます。ですが、お気持ちだけで結構ですよ」
優しく笑みを浮かべながら包みをそっと押し返す。
「まだ生活に余裕があるわけではないでしょう……私に使うよりも、ご自分のために使ってください」
それだけの短い言葉なのに、ミラの胸は少し熱くなった。
年上で、落ち着いていて、私のことまで気遣ってくれる。
ミラは、ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。
その様子を横で見ていたフィリオーネは、静かに二人を見比べる。
エリオは相変わらず淡々としている。
自分に向けられる感情にも、無自覚なまま。
やれやれ……
「ちょっと、エリオ……受け取ってあげなさい。女性に恥をかかせるものじゃないわ」
「な、そんなつもりは無かったんだが……」
「あなたへの感謝を込めて、大切なお金でお礼を買って来てくれたのよ?それを受け取らないなんて、ありえない」
二人の様子にミラはワタワタとしながら声を上げる。
「あ、あのっ、大丈夫ですから……」
エリオはミラの方へと向き直り、申し訳なさそうに声をかけた。
「ああ、いや、やっぱりいただいてもいいかな?」
「え!?は、はい!もちろん……ありがとうございますっ」
ミラは慌てながら、もう一度包みをエリオに渡す。
エリオはそれを両手で受け取ると、照れくさそうに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう」
その言葉に、ミラは耳まで赤く染まってしまった。
「あらあら、本当に初心なんだから」
「〜〜っ!そ、それより、フィリオーネさんはどうしてここに?事務の仕事をされているって言ってましたけど」
「ああ、それはね……話すと長くなってしまうのだけど、そうね……あなたと会ってから、私もいろいろ考えたの」
先日のビルとの一件を思い出しながら、調停委員のことには触れずに説明する――
「――それで……私にも、他にできることがあるんじゃないかと思って、ここに来たのよ」
魅了の力があっても、ここなら働ける。
そして……彼のそばなら、普通の人として居られる。
過去のことは心から完全に消えることはない……それでも、彼のもとで新しい一歩を踏み出せたのは事実。
「彼女もまだまだ新人ですがね……ミラ様は、今の仕事には慣れてきましたか?」
エリオの問いに、ミラははっとして顔を上げる。
「は、はい!まだ覚えることも多いですけど……でも、楽しいです」
「そうですか、それは良かった」
短く頷き、エリオはそれ以上何も言わずに奥の部屋へ戻っていく。
ミラはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……不思議な人ですね」
「ええ」
フィリオーネも同意する。
「でもね」
少し間を置いて、続けた。
「あの人は、この街で苦しんでる人のために本気で向き合っているわ」
ミラはその言葉を胸の中で反芻し、小さく頷いた。
『アビリティワークス』
ここは、この街で行き場をなくした者の拠り所と言うべき存在なのかもしれない。




