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神話はもう黄昏を過ぎて  作者: 黒崎江治
第三部 拡大する渦
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旧都攻防戦 -3-


 クロウドとカラスがヨーザムのもとで身体を休めているころ。そこからあまり遠くない、市街の端にある崩れかけた空き家に、ナナとビオラは身を隠していた。

 昨晩に獄を脱出したあと、偶然見つけたこの場所で休むことにしたナナたちは、短い睡眠を挟み、現在は屋外の物音に耳をそばだてながら、今後どのように行動すべきかを考えていた。

 クロウドたちと合流し、共にオロクを出られれば上々だが、彼らがどこにいるかの手掛かりは、現状まったくといっていいほどなかった。クロウドたちにとってもそれは同様だろう。かといって、むやみに互いを探し回って再び捕えられれば、良くて獄に逆戻り、悪ければそのまま首を刎ねられる。そもそも、クロウドたちがまだオロクにいるかどうかも定かではないのだ。

 ならば、一旦オロクを脱出し、身の安全を図るのが次善の策となる。消極的な方法であることは否めないが、アウレリアの泥蜥蜴亭に戻り、二人の帰りを待つ、というものだ。

 だが、それとて容易ではない。

 第一に、オロクをどうやって脱出するか、という問題がある。

 市街の周囲は高い防壁に囲まれている。夜明け後にこっそりと様子を窺った限りでは、どの地点にも、かなりの人数が歩哨として配置されていた。四方にある門も同様であり、どうやら内外からの出入りは、かなり厳重に制限されているようだった。物資の搬出入や避難民に紛れるという手もあるが、正体が露見して再び捕縛される危険性は相応に高い。

 別の選択肢として、防壁が崩れかけていたり、穴が空いていたりする場所を突破する、というものがある。オロクの防壁は実際に使用されなくなってから時間が経っており、いくつかの箇所では劣化が進んでいるのだ。しかしオロクが封鎖されている現状、そのような場所では、修繕のためにむしろ他より人手が集まっている、ということも考えられた。

 さらに言えば、オロクを脱出して終わり、というわけにはいかない。運よく馬を入手できたとしても、アウレリアまでは四日の行程である。徒歩ならば、当然倍以上の日数がかかる。また、オロクが反乱軍の手に落ち、王国と敵対しているのであれば、アウレリアへの街道は、いつ戦場となってもおかしくない危険地帯である。

 では、どうするべきか。ナナとビオラは、手間と危険を考慮しながら、さらに二つほど案をひねり出した。

 一つは、なんとか防壁の外へ出たのち、南方への離脱を図る、というものである。

 オロクから伸びる南の街道を馬で二日半進むと、コッパムという港町がある。そこから帆船に乗れば、さらに二日でアウレリアの港へとたどり着くことができる。危険の大きそうな東方の経路を避けて迂回する計画だ。

 問題点は、オロク南方の町や村に、どの程度反乱軍の勢力が伸びているかが分からない、ということである。事実、二日前にナナとビオラが捕えられたのも、オロクから南方に行ったところにある町なのだ。

二つ目の案は、ある程度の危険を冒してでも、旅の時間を省略しよう、というものである。オロクへと来たときと同じ方法。〈門〉を使うのだ。

 月齢から考えて、あと三日後までは〈門〉が使用できるはずである。それまでに知識の搭オロク支部に侵入し、〈門〉でアウレリアまで帰還すればよい。

 ナナとビオラが脱獄したことは、当然バラックの知る所になっているはずで、多少の警戒はされているだろう。だが、支部は軍事拠点などではないため、厳重に守られている、ということは考えづらかった。

「けど、泥棒が入りにくい造りにはなってるわよ、もちろん」

 ビオラは、支部の構造上侵入が難しい、という問題点を挙げる。ナナもあまり詳細に観察したわけではないが、確かに出入りできるのは精々、正面扉か裏口の二か所ぐらいで、人が通れるほどの大きな窓はなかった。

 あれこれ考えながら虚空を見つめていると、わずかに差し込む日光に照らされた塵が、くるりと妙な動きをした。ナナは手元に転がっていた煉瓦の小片を拾い、気配を感じた方向にひょいと投げる。

「おっと」

 投擲と同時にそちらに目線を向けると、見覚えのある銀髪の男が、薄暗い部屋の隅に佇んでいた。

「そろそろ来るころだと思った」

 驚いて誰何しようとするビオラを制して、ナナはアウレリウスに声を掛けた。

「覚えて戴けていたようで恐悦だね」

 相変わらず、飄々としてつかみどころのない人物である。

「今度も何か、訳知り顔で助言をしにきたのか。それとも意味深な謎かけか」

「つれないな」

 ナナの冷淡な態度をさして気にした様子もなく、アウレリウスは部屋の中央に来て腰を下ろした。

「で、誰なの?」

 ビオラは、胡散臭げにアウレリウスを観察し続けている。クロウドとナナは二度ほどアウレリウスを目にしたことがあるが、その出会いややりとりを、ビオラに話したことはなかった。

「アウレリウスと呼んでくれて構わない。〈獣の術師〉ビオラ」

 なぜこの男は王と同じ名を名乗っているのか。なぜこの男が自分の名を知っているのか。狂人とは言わぬまでも、信頼に足る人物なのか。そういった疑問や混乱の色が浮かんだ目で、ビオラはナナを見る。だがいかんせんナナにも答えようがなく、目線に対しては肩を竦めるしかなかった。

「『またゆっくり話でも』、という言葉を、わざわざ今果たしに来たわけか」

 前回、クロウドとナナがアウレリウスと話したのは、ひと月前だった。思えばその時既に、渦がどうこう言っていたか、とナナは思い出す。その発言は、巨石教会が主導する反乱を予期した上のものにも思える。全てを見透かしたような態度も、以前と同じ。お前には関係ない、とつまみだしてもいいのだが、いいかげんこの男がどのような存在なのか、ナナ自身も質したい気持ちになっていた。

「回りくどいやりとりしない。お前は誰で、なぜ私たちに付きまとうのか。それをまず教えてくれ」

 油断すればまた煙に巻かれるような気がしたので、ナナは強い口調で言い放った。アウレリウスは微笑みを絶やすことなく、その言葉と目線を受け止める。

「私は、君たちが〈原理〉と呼ぶもののあらわれ(、、、、)に他ならない」

 誰にでも解りやすいように言うならば、「私は神だ」ということだ。初対面の人物に言われれば狂人と判断するほかないが、幾度かアウレリウスと言葉を交わし、また彼を魔術的な鋭敏さで観察してきたナナにとっては、どこか納得のいく言葉でもあった。

「名づけるならば、そう。『英雄』というところかな」

「だから、アウレリウスと」

 巨人族を打倒して人間の時代を到来させた古代の英雄。彼以降、多くの英雄が生まれ、戦場を駆け、ある者はこの世界に確固たる地位を築き、ある者は流星や火花の如く消えていった。

 英雄は常に変化と共にある。突出した英雄が変化を作り、また時勢の変化が英雄を求める。

〈原理〉が現象のおおもと(、、、、)であるという考えに則れば、『英雄』たるアウレリウスの出現は、新たな英雄か、それによって引き起こされる変化の予兆とみることができる。古代の英雄アウレリウスが、女神の加護を受けて軍を起こしたという伝承と同じく、目の前にいる『英雄』も、新たに生まれる英雄を唆すために現れ出たのかもしれなかった。もちろん、それを確かめる術はない。

「それで、その『英雄』がなぜここにいる。クロウドの方が似合いだと思うが」

 ナナはそう問うてみるものの、そもそも〈原理〉の化身が、人と同じように了解可能な行動を取るとは限らない。だからといって、まったく理屈を欠いた動きをするとも思えない。だが少なくとも『英雄』ならば、英雄に関係のある場所なり人物のそばなりに現れてもおかしくはない。

「大した理由はないよ。ただ、少し心配なだけだ」

 穏やかな表情でそう言うと、アウレリウスはおもむろにナナの首元を指差した。思わず手を遣り、掌の上に乗せた首飾りの瑠璃に目をやると、それは僅かな冷感と、朧な光を放っていた。

「それは遠い昔、私がある人に贈ったものなんだ。ここのところ慌ただしく動くものだから、所在が気になるのさ」

 私、とは実在した英雄アウレリウスの事だろうか。自分は〈原理〉だと言う一方で、亡霊のような物言いもする。やはり常人が理解しがたい領域にある存在のように思え、ナナは少々混乱した。

「師匠か」

「もちろん、もっと前だ」

 ナナはこの首飾りが、もともとは師であったエージャが持っていたものだと知っていた。しかし彼女が、首飾りを誰から贈られたのかまでは知らなかった。親か、それともエージャ自身の師か。アウレリウスが贈った相手から代々受け継がれ、今自分の手に首飾りがあるということに想いを馳せると、確かに、なにがしかの縁があると言えなくもない。

「ねえ、心配してくれるのは嬉しいんだけど」

 会話から疎外されたように感じていたらしいビオラが、あぐらをかいたまま不満げに声を上げる。

「具体的に何か手伝ってくれるの? それとも励ましてくれるだけ?」

 アウレリウスに対するその態度に、始めて見る事象への懐疑はあれど、畏怖のようなものはなかった。

 そもそも、魔術師たちにとって、〈原理〉は、必ずしも崇拝や信奉の対象ではない。そうする者もいるが、ビオラのように、世界の成り立ちや、諸現象を説明するための概念として理解する者の方が多い。もちろんどちらの立場を取る人間も、目の前に〈原理〉が人の姿で現れるというような事態は、まず想定してはいないだろうが。

「そのあたりはやんごとない事情があってね。あまりおおっぴらに力を貸すことはできないんだ」

 アウレリウスは少々困ったように眉根を寄せ、直接的な介入はゆらぎを増幅させすぎる、という旨の弁解をする。要するに立場上、助言が精々だ、ということらしい。

 その代り、と前置いて、アウレリウスはナナたちが忍び込もうとしていた建物に言及した。普段は使われていない秘密の出入口を教えよう、というのである。

「そんなのあったっけ?」

 何度も出入りしているビオラも、その存在を知らない出入口らしい。

「古代ノルトゥスの時代から、幾多の戦乱に巻き込まれてきた街の建物だ。大工も心得たものさ」

 建物の裏手、巧妙に偽装された出入口から地下を経由し、内部に侵入できるらしい。うまくいけば、誰にも遭遇することなく支部の中に入れそうだ。だがアウレリウス自身は場所を教えるだけで、同行はしないと明言した。あくまで直接力を貸すことはしないらしい。

「いいさ。最後は自分たちの力でやる」

 ナナがそう言うと、アウレリウスは満足そうに微笑んだ。

「その意志を持ち続けることができれば、渦に流されずに立つことができるだろう」

 膝に手をついて立ち上がり、壁に向かって歩いていく。

「さらば」

 そのまま壁をすり抜けるように、見えなくなってしまった。ナナはそれを無言で見送りながら、彼が最後に発した言葉の意味を考えていた。



 ナナとビオラがクロウドたちと分断されてから、三度目の夜が訪れていた。

前日、夜陰に紛れて獄から脱出したナナとビオラだが、今宵は同様の密やかさを持って、目的となる建物へと侵入しようとしていた。

 時刻は誰もが寝静まる深夜であるが、ランタンや篝火を照明にして歩哨に立っている兵が、街のそこかしこで警戒を続けている。彼らの目に留まらないよう、ナナとビオラは、裏道から裏道へと、慎重に進まなければならなかった。そして隠れていた空家を出発してからたっぷり半刻を掛けて、知識の搭オロク支部、その裏手にある粗末な小屋の前まで来ることができた。アウレリウス曰く、この小屋に支部内部への抜け道があるらしい。

 周囲に敵影なし。ナナは小屋の扉にくっつくようにして内部の気配を窺い、人がいないことを確認してから、おもむろにそれを開いた。馬が二頭か三頭入るぐらいの小さな空間は、見たところ何も置かれていない。二人は自分たちの身体を小屋の中に滑り込ませ、音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉じた。

 ナナとビオラは目線を交わし、暗闇の中手探りで周囲を探索する。すると一部の床が、取り外しのできる板になっていることが分かった。しばらく使用された形跡はなかったが、今でも素手で動かすことができそうだった。二人で協力し、横にずらすようにして板を除けると、床下よりもさらに低い場所を通る地下道へと続く階段が現れた。冷たく、黴臭い空気がわずかに漏れ出してきている。

 足場に気を付けながら下った先は、木材で補強された、案外しっかりとした通路である。ナナとビオラ程度の背丈であれば、かがむ必要がなさそうなほどの高さもあった。

 通路は確かに、支部の方向に延びている。壁に手を付き、一歩一歩確かめながら、二人は濃い闇の沈滞する抜け道を進んで行った。


 それほど間を置かず、ナナとビオラは支部の中にある一室に立っていた。先ほどまで歩いていた通路は、ここの地下まで伸びていたらしい。この場所はおそらく今は使われていない部屋と見え、雑多な物資がいくつか置かれているほかには何もない。

 ビオラ曰く、普段であれば、夜間の支部にはほとんど人がいない。もともと、多くの人間が滞在するような建物ではないのだ。だが、現在の状況で確実なことは言えなかった。最大限警戒するに越したことはないだろう。部屋から出て、ひっそりと静まり返った廊下を進んでいく。

 支部は四階建てだ。〈門〉は最上階の部屋にある。屋内にさえ入ってしまえば、階段を上って一息に行けるはずだった。

 始めは神経を張り詰めるようにして周囲に気を配っていたが、道中障害に出会うこともなく、二階、三階へと到達することができた。

 案外、朝飯前ではないか。アウレリウスの霊験あらたかな助言のおかげか、と気が緩みかける。

 そして最上階。窓から差し込む月光で照らされた廊下には、一人の守衛もいない。〈門〉がある部屋の前までするすると進む。這いつくばって顔を床につけ、扉の下から光が漏れていないか、と確認するも、そのような様子はない。無人であろう。だが、さすがに鍵は掛かっているようだ。

 昨晩に獄を破ったのとほとんど同じ手順で、扉を破壊する。ビオラは疲労を防ぐため、用を済ませたシャビスカをすぐ還してしまう。

 部屋の中では、〈門〉がうすぼんやりとした光を放っている。近づいて何事かを確認したビオラが、苛ついたように小さく唸った。

「どうした?」

「アウレリアと繋がってない」

「なんとかできないか?」

「できなくはないけど、時間が掛かる。多分――」

 言いかけたビオラだが、何か察知したらしく、いきなり体当たりでナナを突き飛ばした。思わず声を上げて二、三歩後ろによろめき、尻もちをついたナナの視界に入ったのは、空気を焦がしながら、今二人が居た場所を通過した、明るい色の火焔だった。

それが飛んできた方向に目をやると、身体の周囲にいくつもの炎の輪を纏ったバラックが、闇を背に佇んでいた。

「こう何枚も扉を壊されると困るんだがね」

「〈シャビスカ〉!」

 即応したのはビオラである。呼びかけと同時、闇が凝縮して巨躯が現れた。主の意をすぐさま汲み取り、空間を跳躍するが如き勢いで敵へと疾走する。

「なめるな」

 シャビスカの圧力にも関わらず、バラックは踏みとどまって手をかざす。白熱した両腕から、太い柱のような炎が勢いよく噴出する。

 ごう、という音と共に、圧倒的な熱が空間に満ちた。闇と光が衝突し、互いを呑みこみ合い、爆ぜた。シャビスカの一部が炎に食い破られ、突進の勢いが殺される。

 第一撃は失敗に終わった。この男、権力にあぐらをかいただけの弱敵ではない。あんな攻撃を人が生身で受ければ、焦げた骸さえ残るかどうか。

 シャビスカを退けたバラックが、ビオラに狙いを付けた。ほんの短い詠唱が終わるや否や、いくつもの灼輪が、弧を描いてビオラに殺到した。

 命中すれば致命傷は免れなかったろう。しかし、辛うじてシャビスカが滑り込み、攻撃に背を向ける形でビオラを庇う。

 損傷ダメージは甚大である。もはや存在を維持することができなくなったシャビスカは、揺らめきながらその姿を霧消させてしまった。

 しかしその時、ビオラもまたバラックの視界から消えている。意図を察しているナナは、あえて彼女の動きを目で追う事はせず、バラックの隙を狙い続ける。

 一拍のち、シャビスカに投げ上げられていたビオラが、バラックの頭上から強襲する。額のあたりに痛打を浴びせるが、昏倒には至らない。そのまま掴み合いに発展した。

 肉薄した距離での攻防ならば、炎に巻かれる心配はない。しかしビオラは、格闘戦の玄人ではなかった。魔術での消耗もあり、体格と膂力の差で、ほどなく逆に組み伏せられてしまう。

「思い上がるな、小娘が」

 バラックがビオラの首を絞めながら、吐き捨てるように言う。ビオラは既に力を使い果たし、窒息するまでもなく、ぐったりとしてしまっていた。

 熟練の魔術師が、文字通りの火力で若輩を圧倒する。傍から見れば、確かにそう映るかもしれない。だが、当事者としてつぶさに状況を見ているナナには、つけ入るべき隙があるのが分かっていた。

 バラックは必死である。戦いの熱気に浮かれすぎている。その証拠に、彼はナナの存在にほとんど注意を向けることができていなかった。クロウドやカラスのような闘争の巧者であれば、目前の敵だけに集中して、不意打ちを許すような愚を犯したりはしないだろう。

 だからナナは、その過ちを致命的なものにするべく、一度で相手を無力化できる機を狙っていた。しかし非力な自分が後ろから殴り掛かるだけでは、いささか不確実である。短刀でもあれば首を掻き切ることもできたろうが、生憎武器の類は調達できていなかった。

 ならば使うのは、己が最もたのむ力である。ビオラが縊り殺されないうちに、ナナはバラックの背後に忍び寄り、その後頭部を、呪文のこもった両手でがしりと掴んだ。

「お楽しみは終わりだ」

 重く、低く、耳元でささやくように、ナナはバラックに言葉を吹き込んだ。ある種類の幻術は、相手がこちらに注意を集中することでより効果を発揮する。

 バラックは当然、慌てて自分の頭に手を遣り、ナナを振り払おうとする。しかし、その行動を確かにするために働かせるべき知覚は、既に狂わされていた。

 強大な魔術師、歴戦の勇士。いかなる英傑、女傑であったとしても、頭がいかれて(、、、、)しまえば凡夫にも劣る。感じられなくなれば、考えられなくなれば、どんな人間もそれまで。ナナが今施しているのは、そういう種類の強力な術であった。

 何も見えない。何を触っているのかも解らない。呪文を紡ごうにも、舌の感覚さえ定かではない。自分が立っているのか、寝ているのか、漂っているのかさえ確かではない。

「まやかしだ!」

 自らを鼓舞し、幻術を打ち破ろうとするように、バラックは叫んだ。

「まやかしだとも」

ナナはバラックの頭を掴んだまま彼を見下ろし、冷たく無慈悲な声で告げた。

「下らぬ野望に目が眩んだお前には、似合いのまやかしだ」

 バラックの精神から、正気を丁寧に巻き取っていく。バラックの時間感覚は奇妙に伸び縮みし、頭の中だけで紡ぐ言葉さえも、土塊のように崩れていっているはずだった。闇の中、孤立した自我をさらに圧搾する。バラックは屠殺前の家畜が如き悲鳴を上げた。

「自分の愚かさを、闇の中で永劫に反省するがいい」

 ぶつり、と糸が切れるように叫び声が途絶え、バラックが意識を失って前のめりに倒れた。目を覚ましたあと、彼がまともでいられるかどうか、そもそも目を覚ますのかどうかは、運と精神力次第といったところだろう。

「ふう」

 さすがに疲れて、ナナもその場に座り込んだ。傍らでは、ビオラがげほげほとせき込みながら、倒れたバラックを自分の上から押しのけて、身体を起こしつつあった。矢面に立たせてしまってすまない、と謝りながら、ナナは彼女を助け起こした。

「やるじゃない」

「うむ」

 急場を凌いだはいいものの、まだ安心はできなかった。バラックがどのような方法でナナたちの侵入に気付いたのかは分からないが、他にも気付いた者がいないという保証はない。一刻も早くこの場所を離れるべきだった。だがビオラ曰く、ここからアウレリアへの〈門〉を再び開くために、どれだけ時間が掛かるかは分からない。もし作業の途中で敵が来れば、せっかくの侵入が水泡に帰してしまう。

「近くなら多分すぐに飛べるわ」

「近く?」

「街のすぐ外ぐらい」

 ううむ。とナナは唸る。せっかく〈門〉があるというのに、防壁の内側から外側に出るだけとは。だが、無理をして〈門〉が暴走してしまえば、くぐった先が岩の中だった、というような不愉快な事態にもなりかねない。これまでの労力に釣り合わない気がしたが、やむを得なかった。

 そして判断を急かすように、部屋の外が騒がしくなってきた。誰かが異変を察知したのだろう。あれだけ派手に暴れまわっていたのだから、当然と言えば当然である。

「命があるだけ、まだましか」

「こいつを殴れたから私は満足だけどね」

 ビオラはバラックを顎で指し示す。よく見れば、ビオラが殴ったバラックの額は皮が破れ、そこからじわりと血が滲みだしていた。

「あんな無茶をしてたら、いつか死ぬぞ」

「人はいつか死ぬの」

 その軽口に苦笑する元気もない。消耗したナナとビオラは、互いに支え合いながら立ち上がり、追手が来ないうちに脱出すべく、薄紫色にゆらぐ〈門〉をくぐった。


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