キミの麻婆豆腐
潮風が頬を撫でる。
フェリーの甲板に立つ少年――清永航平は、手すりにもたれながら故郷の島を眺めていた。
黒いパーカーにジーンズ。大きなボストンバッグを肩に掛けたその姿は、どこにでもいる高校一年生の少年だ。けれど、その瞳だけは真っすぐに島を見据えていた。
小さな港。見慣れた商店街。そして、島にたった一軒だけの中華料理店。
脳裏に、父との会話が蘇る。
「東京へ行け。」
父・清永剛志は、航平の目をじっと見つめて言った。
「東京具留米学園高校で料理を一から学ぶんだ。」
航平は思わず鼻で笑った。
「勝手なことばっか言いやがって。今さらなんだよ?」
父は答えない。ただ黙って航平を見つめている。その態度が癪に障った。
「東京へは行ってやる」
航平は父を睨みつける。
「だけど、俺は絶対に店は継がないからな!」
父は最後まで何も言わなかったが、何かを見透かしたような目をして、少し笑っていた。その笑顔の意味を、航平はまだ知らない。
「……。」
航平は島へ背を向けた。
「今日から東京で、俺の薔薇色の高校生活が始まるんだ!」
料理も店も父親も全部忘れて、自由な青春を楽しむ。
この時の航平は、本気でそう信じていた。
「……マズい。」
上京して一か月後。狭いアパートの床に寝転がった航平は財布を開いた。
「家賃と光熱費払ったら、残り800円……。」
昨日の昼から何も食べていない。原因は単純だった。
「遊びすぎた……。」
東京に来てからというもの、学校はサボる。友達とゲーセン、カラオケ。そして外食。面接を受けてもバイトは全滅。
「このままじゃマジで詰むな……。」
ぐぅぅぅ……
腹の虫が情けなく鳴いた。
「……バイト探さなきゃな。」
無料の求人誌を片手に、航平は商店街へ向かう。
商店街から漂う、焼き鳥の匂い。パン屋の焼きたての香り。どれも今の航平には拷問だった。
「クソ…腹減ったな……。」
その時。
「ありがとうございましたー!」
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、そこには昔ながらの中華料理店があった。赤い暖簾には大きく、『泰龍軒』と書かれていた。
店先で客を見送っていた少女が、航平を見つけて声をかけてきた。
「あれ?清永くん?」
「……泰中?」
東京具留米学園高校のクラスメイト、泰中瑠衣だった。制服の上から赤いエプロンを着け、髪を後ろでひとつに結んでいる。
「びっくりしたー! こんなところで会うなんて!」
「ここ、泰中ん家?」
「うん!おじいちゃんのお店なの」
そう言って笑う瑠衣の笑顔に、一瞬目を奪われる。
その時。
ぐぅぅぅぅぅ……
二人の間で、航平の腹の虫が再び盛大に鳴き出す。
「……。」
「……。」
一瞬の沈黙の後、瑠衣が口を押さえる。
「ぷっ……。」肩が震え始める。
「ご、ごめん……っ!」
耐えきれず吹き出す瑠衣。
「あはははっ!」
「笑うなよ!」
「ごめんごめん!おかしくって!漫画みたいなタイミングなんだもん」
「ぐ……」
顔が熱い。気恥ずかしさで、瑠衣の顔から視線を逸らす。穴があったら入りたいとはこのことだと、航平は思った。ケラケラと笑っていた瑠衣が、ふっと表情を柔らげる。
「お昼、食べてないの?」
「まあ…昼というか…昨日から何も…」
「えっ!?」
瑠衣は目を丸くする。
「ホントに!?」
「バイト落ちまくって、金欠でさ。」
「ダメじゃん!」
ぐいっと航平の腕を引っ張る。
「ほら! 入って!」
「いやいやいや近い近い!それに俺、本当に金が……。」
残金は800円。
店先に置かれたボードに書かれたランチメニューに目をやる。
唐揚げ定食900円。
回鍋肉定食900円。
麻婆豆腐定食が800円。
一番安い麻婆豆腐定食でも、食べたら文字通りの一文無しだ。
「…遠慮しとくよ。」
航平は気まずそうに俯く。
「じゃあお願い!」
「え?」
「私の麻婆豆腐、食べてみて!」
「……は?」
「感想が聞きたいの!」
瑠衣はえへへ、と照れくさそうに笑った。
「だから今日は私のおごり!」
「いや、悪いって!」
「いいからいいから!」
そう言って得意げに人差し指を立てる。
「困ってるクラスメイトを放っておくなんて、料理人失格だから!」
まっすぐな笑顔だった。打算なんて何もない。ただ、お腹を空かせた同級生にご飯を食べてもらいたい。ただそれだけ。そんな風に見えた。
「じゃあお言葉に甘えて……。」
航平は少しだけ照れ臭そうに笑った。
「ありがとう…。」
その一言は、東京へ来てから一番素直な言葉だった。
「泰中って、変なヤツだな。」
「よく言われる!」
満面の笑みで返される。そのせいで、航平はまた笑ってしまった。
店に入ると、中華鍋の軽快な音と香ばしい香りが迎えてくれた。空腹が一気に暴れ出す。
「麻婆豆腐はね!」
瑠衣は胸を張る。
「私の一番得意な料理なんだ!」
航平の脳裏に、学校での料理実習が浮かんだ。
包丁を落とす瑠衣。フライパンを焦がす瑠衣。先生に怒られて泣きそうな瑠衣。
「……。」
瑠衣の優しさに触れて忘れていた、学校での瑠衣の姿が頭に浮かぶ。嫌な予感しかしない。
「あのー…泰中さん…?」
「ん?」
「大丈夫なんでしょうか…?」
「失礼だなぁ!」
ぷくっと頬を膨らませる。
「麻婆豆腐だけは、誰にも負けないんだから!」
「お待たせしました!」
湯気を立てる麻婆豆腐定食を瑠衣が運んでくる。
赤く艶やかな餡。立ち上る山椒の香り。熱々の湯気。見ただけで腹の虫が暴れ出す。
「いただきます。」
レンゲですくい、口に運ぶ。その瞬間、航平の動きが止まる。
「……。」
もう一口。さらにもう一口。熱い。ヒリヒリとした辛さと、花椒の香りで舌が痺れる。だが、止まらない。胸がざわつく。
(この味……。)
忘れるはずがない。幼い頃から食べ続けた味。どうしてもレンゲを持つ手を止めることができない。心臓が大きく脈打つ。
火の入れ方、油の温度、豆板醤を入れるタイミング、崩れることなく、それでいて餡と一体化された豆腐、しっかりと立った花椒。一口食べただけで分かってしまう。
いや、――身体が覚えてしまっている。幼い頃から何度も見てきた父の背中。何百、何千回と食べてきた味。どれを取っても間違いない。
(親父の味だ…。)
「どう?」
瑠衣が不安そうに覗き込む。
「おいしい……?」
航平は答えられなかった。不味かったわけではない。この味を知っていたからだ。
その時だった。ガラッ!っと店の扉が乱暴に開いた。
「よーじいさん。」
店内の空気が一変する。
「なんだよ。いらっしゃいませもねぇのか?この店は。」
強面の男がズカズカと土足で踏み込むように店へ入ってきた。
「……何の用じゃ。」
奥の厨房から、白髪の老人――泰中龍彦がゆっくり姿を現す。
「何の用って……そりゃないでしょう、泰中さん。」
男は肩をすくめる。
「もう話はついたはずだ。」
「勝手に話をつけられても困りますよ。約束通り、この店と土地の権利書を頂かないと。俺も社長に怒られちゃうからさ。」
「ふざけるな!」
龍彦の声が響く。
「何が約束じゃ。」
「約束は約束でしょう?」
「ワシが言ったのは、あいつがワシを超えた時の話じゃ!」
龍彦は拳を握る。
「あいつ?」
「向かいにできた美味斎の社長が、この店と土地を欲しがってるの。」
瑠衣が小さな声で航平に説明する。
「ここは立地もいいし……昔からある泰龍軒を潰せば、近所の客も取り込めるから。」
「そんな理由で……。」
航平は眉をひそめる。
「でも、約束って何なんだ?」
瑠衣は少し迷ってから答えた。
「昔、おじいちゃんには弟子がいたの。」
「弟子?」
瑠衣が龍彦を見つめる。
「昔はね、おじいちゃん、何人も弟子をとってたの。お弟子さんたちはみんな独立できるようになるまで面倒見てたんだって。」
龍彦は黙った。
「その中の一人に昔、おじいちゃんが言ったんだって。」
瑠衣は続ける。
「『ワシを超える料理人になったら、この店も土地も全部くれてやる』って。」
航平は呆れたように息を吐く。
「……またずいぶん豪快な約束だな。」
その時。
「いい加減にしてください。」
店の入り口から声がした。
振り返ると、そこに一人の少年が立っている。少年を見て、航平の顔が険しくなる。
「……あいつ。」
同じクラスの斎浦玲司だった。
東京具留米学園高校調理科一年。成績は常にトップ。調理実習でも誰よりも完璧にこなし、教師からも一目置かれている天才。そして――。
「美味斎の社長の息子。」
瑠衣が小さく呟く。
「泰中さん。父は、すでにあなたを超えました。」
店内が静まり返る。
「料理の腕も。」
一歩ずつ、龍彦に向かってくる。
「実績も。」
玲司は窓の外を見る。そこには、大きな看板を掲げた美味斎があった。
「美味斎を見れば分かるでしょう。」
「だまっとれ、小僧。」
龍彦が睨む。
「実績は知らん。じゃが――料理の腕は違う。」
龍彦の鋭い視線が玲司に向けられる。
「ワシを超えるどころか……弟子の中でも一番になっておらんわ。」
玲司の表情がわずかに変わる。
「……またそれですか。」
「あなたの一番弟子。」
玲司は冷たく笑う。
「そんな人、どこにもいないでしょう。今まで一度たりとも姿を見せに来ないじゃないですか。…それに。」
玲司は龍彦の腕を見る。
「あなたはもう、鍋を振れない。」
「……。」
龍彦は玲司をただ黙ってじっと見つめていた。
「鍋を振れないって…どういうことだよ?」
航平のその質問に、瑠衣は唇をギュッと噛んで俯く。
「2年前…厨房の手伝いをしてるときにヘマした私を庇って、おじいちゃん腕を怪我したの。それ以来、おじいちゃんは中華鍋を振ることができなくなって……」
苦しそうな瑠衣の表情を見て、航平も胸が締め付けられた。
「父は、あなたを超えた。」
そして少し間を置く。
「そして…」
玲司は言った。
「俺も、もうあなたを超えています。」
「なんじゃと……?」
龍彦の眉が跳ね上がる。
「俺も父を超えて美味斎を世界一の店にするために努力してきました。だからわかる。時代は変わったんです。」
「図に乗るな、小僧…!」
「なら、証明しましょうか?」
玲司は淡々と言った。
「料理勝負で。」
「……!」
「もっとも。」
玲司は龍彦を見つめる。
「あなたが鍋を振れるなら、ですが。」
やりとりを見ていて、航平はもう我慢ならなかった。この男の言葉。この態度。
不思議な感覚だった。瑠衣の作った麻婆豆腐の味。自分が嫌っているはずの父と同じ味。その味を馬鹿にされたような気がして、自分でも不思議なほど、気付くと口が動いてしまっていた。
「……気に入らないな。」
玲司が振り向く。
「おまえは……」
「おまえの態度。」
航平は玲司を見る。
「気に入らねぇ。」
玲司は眉をひそめる。
「これはこれは。クラスの落ちこぼれの清永くんじゃないか。部外者は黙って――」
「その勝負。」
航平は玲司の言葉を遮った。
「俺が受けてやるよ。」




