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 仕事終わりの電車はいつも以上に混んでいた。夏も間近。纏わりつくような湿り気がなんとも鬱陶しい日で、遥はようやく辿り着いたアパートの鍵を開ける。

「暑すぎ。今日は絶対キリッと冷えたやつを飲まないとやってられない」

 パンプスを脱いで、通勤用のバックをベッドに放り投げる。メイクを落とすこともなく、そのまま冷蔵庫の前に。

 ほんの数歩で何もかもが手に届く一人暮らしの部屋。手狭に思うこともあるけれど、疲れ切った日にはむしろそれが有り難い。

「た〜だいまっ。今晩はお前に癒されたいんだよ、いいこで待っててくれたかい?」

 最近発掘したクラフトビールを取り出すべく冷蔵庫を開けた瞬間、風が吹いて草の匂いがした。

 冷たい空気ではない。もっと自然でやわらかな風だ。

 眉を寄せて冷蔵庫の奥を覗き込む。陳列されたビール缶に、期間限定のサワー類。気分によって選べるようワインや日本酒も揃えてある。その下には作り置きしておいた晩酌用のおつまみが整然と保存容器に収まっていた。

 異変らしい異変は他にはない。いつもの、よく知っている冷蔵庫の中身。

 鶏ハムとマリネしたプチトマトを取り出し、ビールの栓をプシュッと開ける。口に含んだ瞬間、爽やかな苦味と共に、今日1日の疲れがじわっと溶けていくようだった。

「はぁ〜、これこれ。癒しってコンビニとか冷蔵庫の中に転がっているんだよね」

 ゆるく括っていた髪がはらりと落ち、結び直そうか迷ってそのままにした。

 テレビはないのでそのままスマホをスワイプして、今日一日確認できなかったニュースをざっと流し見て、SNSを何となく開く。友人の投稿に笑ったり、誰かのストーリーを羨ましく思ったり。

 今年で26歳。学生時代の友人の中には家庭を築いて、子供を育てている人もいる。自分は結婚の予定も恋人もいない。

 けれど不思議と焦りはなかった。皆がそれぞれの人生を歩いている。

 誰かと過ごす時間も好きだが、こうして一人で一息つけるこの夜もーー

「うん、今日のこれは当たり」

 グラスの中で琥珀色の液体が弾ける音。

 こんな時間もまた悪くない。

 ビールの泡と共に遥の夜は耽ていった。




 翌朝。スマホのアラームが鳴る前、まだ起きなくてもいいはずの時間帯にふと目を覚ました。悲しきかな、社会人の習性で、最近では寝過ごすということがほとんどない。

「ああ、起きちゃった。もうちょっと寝たかったのに」

 布団の中で小さくうめいて、上体を起こす。

 いつもの朝。いつもの動作。寝起きのぼんやりした頭のまま洗面所に向かい、顔を洗う。

「洗濯、今日やっちゃお」

 出勤前に日常の家事を済ませてしまおうと、洗濯機の蓋を開けた瞬間、手が止まった。

ーーもう、何か入っている。

 摘み上げたそれは、赤を基調とした、どこか異国の伝統衣装を思わせる衣服だった。タグもプリントもない。ファストファッションでは見かけない手織りのような質感。見慣れない図形が刺繍されている。

 このサイズ、子ども用?

「え、なにこれ」

 一人暮らしの部屋だ。最近、誰かを招いた覚えもない。こんな衣服が紛れ込む余地がない。

 持ち主のいない衣類。自分の生活に存在するはずのない、異物。

 いったい、どうして。

 ふと、昨夜のことが頭をよぎる。冷蔵庫を開けた時に吹いたあの不可解な風。部屋の中にあるはずのない、草原の匂い。思い返すほど、あの出来事が現実味を帯びてくる。

「まさかね…はは」

 出勤時間が間近に迫ってきたことに気が付いて、遥は慌てて朝食を摂り、メイクをする。気になるのは確かだけど遅刻するわけにもいかない。洗濯物を干し、姿見で身だしなみのチェックを終えるとバックを肩にかけ、靴を履く。玄関を出る前にふと振り返った。何も変わったところはない、はず。でも、テーブルの上には赤い上着がそこに異物として存在していた。遥は視線を一瞬だけそこに留めてから、何も言わずドアを閉めた。

 いつもの通勤路を歩く。外の空気は少し湿気を含んでいて夏の気配が混じっていた。日常が少しずつ、いつもの感覚を取り戻していく。

 でもーー

 先ほど、どこかで、誰かの視線を感じたような気がした。




 次の異変は音だった。

 夜、台所で皿を洗っていた時、しゃらん…しゃらん…と耳馴染みのない音がした。

 思わず手を止めて耳を澄ますが、音は消えてしまい、それ以上何も起こらなかった。窓の外からの音ではない。スマホでもないだろう。

 音の正体も場所もはっきりとわからないまま遥は再び水に手を戻した。

 その日、遥は喉の渇きを覚え、夜中にふと目を覚ました。カーテンの隙間から月光が差し込み、電気を点けなくても台所まで歩けそうだ。いつもの習慣で姿鏡をふと見てーーそこに自分ではない誰かいた。

 年の頃は十代前半。黒髪に黄金の瞳。異国風の顔立ち。肌は褐色がかっており、頬には赤い紋様が刻まれている。まるで古い印章のようなそれ。目深に被ったフードの奥から覗く瞳が、まっすぐ遥を見ていた。

 次の瞬間には鏡の表面がまるで水面のように揺らいだ。波紋のようにゆらりと映像が歪み、そして彼は消える。

 まるで最初から何も映ってなかったかのように。

 遥はゆっくりと瞬きひとつ。 

 ほんの一瞬だけ鏡面の奥で赤い何かがゆらりと揺れた気がした。




 鏡に映った男の子はそれっきり現れなかったが、遥の中で確かに何かが起こったという実感がじわじわと染み込んでいった。

 仕事帰り。コンビニで買った新作のビールをぶら下げながら、アパートのドアを開けた遥は、ほっと一息を吐いた。

「今日もお疲れ、私。今夜のご褒美タイム」

 部屋着に着替えて、髪をラフに結び直す。

「今週も何とか生き延びた」

 誰に言うでもない独り言と共にグラスを掲げる。作り置きのピクルスと簡単なチーズの盛り合わせ。

 今日はちょっぴり贅沢をしたい気分。だって週末だもの。

「まだビール残ってたっけ」

 お行儀が悪いけど、這うように冷蔵庫に向かう。

冷蔵庫の前に立ち、扉を開けた瞬間だった。

 ふわり、と風が吹いた。

 前にも感じた草の匂いが、より濃く漂ってくる。

 次の瞬間、冷蔵庫の奥から見知らぬ腕が伸びてきて、遥の腕を掴む。

「えっ……?」

 どさり。赤い布の塊がフローリングに落ちた。バランスを崩しそうになって、傾いだ視界の中、遥は目を見開く。

「痛ぁ。あーこれ、絶対出る場所間違ってる、クソ爺い共め」

 短く呻いた彼は、赤いフードのついた民族調の上着を羽織った、小柄な男の子だった。褐色の肌に黒髪。

 鏡の中で見たあの男の子だ。

 遥は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。

 少年は、ごろんと仰向けに寝転がったまま、金色の瞳をぱちりと開け、遥を見た。

「あ、いた。やっと会えた。なんだ、わりと普通の女の人だな」

「えっ?」

「あんたがこの戸口の管理者?」

「いや、これただの冷蔵庫!」




「えっ、ちょ、ちょっと待って!え、誰!?どこから……!」

「落ち着け。別に、危害を加えるつもりはない」

 遥は数歩あとずさった。

「オレの名前はルル。たぶん、あんたのとこに来たのは、ちょっとした手違いだ」

「手違い?ちょっと待って、あなたが出てきたところってうちの冷蔵庫なんだけど!」

「この箱のこと?あんたが管理してるの?」

「いやそれただの冷蔵庫!」

「冷やすための箱なんだろ?まさかそこに繋がるとは思わなかったけど……」

 ルルは肩を竦め、面倒ごとを説明するような口調で続けた。

「本当はこっちに来るはずじゃなかったんだよ。儀式も順調だったし、ちゃんと“接続の座標”も指定したのに。どこでズレたのか、まさかこんな場所とはね」

「儀式?接続って?」

 遥の思考はどんどん置いていかれる。が、ルルはどこか慣れた様子で、少しだけ考える仕草をしてから言った。

「うーん、わかりやすく言うと、あんたの部屋が、間違ってオレの世界と繋がったって感じ」

「間違って、って……!」

「まぁ、ありがちなんだけどね。こっちの世界、初めてだから、少し勝手がわからなくてさ。うん、でも居心地は悪くないよ。いい部屋だね」

 ルルは胡座をかくとにっと微笑んだ。赤を基調とした民族衣装がしゃらんと揺れる。




「……で。何か、食べてもいい?」

「はあ!?」

「いや、正直、腹ペコで。こっちの食物も試してみたいなって。さっき中に魚っぽいの見えたし」

 遥はしばらく口を開けたまま固まっていた。この少年、図太いというか、肝が据わっているというか。いや、好奇心が旺盛なだけなのかもしれない。

(まぁ、私も異世界に来たとしたら気になるかも。どんなお酒があるかとか)

 そんなわけでその晩は異世界の少年と晩酌をすることになった。少年は素面だが。

「んまっ。あんた、料理上手だなっ!」

「簡単なおつまみだけどねー。あとは文明の力」

 魚のマリネとチーズ。プチトマトにオリーブオイルを添えただけの簡単な料理だ。だが誰に振る舞うこともなかった料理の腕を少年に絶賛され、満更でもない気分になる。

「いや、本当はもっとちゃんとした場所に出る予定だったんだ。遺跡の、扉の向こう。そこに、繋がるはずだった」

「……でも、なぜかうちのアパートのキッチンに?」

「たぶん、ここの世界にあった何かと、何かが似てたんだと思う。素材とか……模様とか?」

 遥は思わず、冷蔵庫の中のクラフトビールを思い出す。

「……嘘みたい」

「オレもびっくりしたよ。最初に顔を出したとき、野菜とか魚とか見えたし。ここ冷やす場所なんだって気づくのにちょっとかかった」

「いや、出てきた瞬間のほうが衝撃だったよ、私は」

 ルルは「空間が塞がるのにしばらくかかるだろうな」と言った。

「あんたには悪いが、穴が塞がるまで〝警備〟させてもらう。これは一族秘伝の術式なんだ」

「それは構わないけど」

「本当か。助かる。こちらとあちらでは時間の流れが違うようだから、オレは不定期にこちらに来させてもらうが」

「仕方ないよね。まぁ、なんのお構いもできませんが…おつまみぐらいなら出してあげる」

「本当か!?」

 それからというもの、遥の冷蔵庫は、たまに異世界と繋がるようになった。





「……ところであなた、変な喋り方するけど、年の近い友達いなかったの?」

「……あ?」

 ルルは珍しく口をつぐんだ。顔をそむけて、ぽつりと呟く。

「……爺婆様ばかりの集落だったので。口調が……移っただけ。そんなに変か?」

「変っていうか、ぎこちないって感じかな」

「オレはこれでも12歳だ」

「12!?落ち着きすぎでしょ!?」

 ええー私は26歳だからちょうど一回り?と蒼ざめる遥を、少年は複雑そうな顔で見ていた。



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