76話 野球の華
二宮は左足を引きずりながらも、精悍な顔持ちで打席に入った。
だが、怪我は精神力だけでどうにかなるような状態ではない。
元々長打が打てないうえに、怪我をしている今では外野の間を抜くことさえ不可能だ。
かと言って、普通の単打の当たりであれば、レフト前だろうが一塁でアウトになる。
コンコン、とホームベースの5角を叩く。
「ふぅー」
深呼吸をして、バットを構える。
四球しかない。
ただでさえコントロールが良い投手で、コントロールにのみ注力してくる状況で。
「何球かかるかは分からない。でも、それしか、ないんだよねぇ」
1球目、2球目ともに真ん中近くの緩いストレートで簡単に追い込まれ。
3球目は、速いストレート。
ピクッと二宮の手が反応したが、ギリギリで見送った。
「危ない、危ない」
カウントは1‐2。
4・5・6球目は緩いストレートだった。
それを全てファウルゾーンへ転がす。
(大丈夫だ、打つだけなら問題ない。……いや、いつ来るか分からない四球を狙うより、ヒットを狙ったほうがいいかなぁ?)
外野は前進している。
打つだけに限れば、怪我している分のマイナスは相手がストレート一本で緩い球しか使わないというプラスで相殺される。かつ外野前進なら、十分に抜ける可能性がある。
そんな誘惑に心が傾きながら7球目。
「……カーブ!?」
ストライクからボールへ逃げる落差のあるカーブ。
二宮は、寸でのところでバットを止める。
止めはしたが、スイングとして成立するかもしれない。
(……やっ、ちゃった。どっちだ……!?)
丁度、ホームベース頭上。
二宮は冷や汗をかきながら、バットを止めたまま顔を上げられなかった。
当然、キャッチャーは一塁塁審にスイングを確認する。
判定は。
審判の腕は、少しだけ間をおいて開かれた。
「あっ……ぶなー」
相模南のベンチは、審判の判定が出た瞬間に安堵のため息が漏れた。
(審判に、助けられちゃったねぇ)
審判は平等だ。
だがそれでも、人間だ。
もし二宮が怪我をしていなかったら、判定は違ってきたかもしれない。
どっちに取られても文句は言えない、微妙なスイング。
(だけどそれが許されるのも、フルカウントまでだよねぇ)
8球目、9球目、10球目。
カーブが投げられても、二宮は対応した。
球数を重ねるごとに、集中力が増していくのが分かる。
ファウルを狙って打つという技術は簡単なものではない。
フェアゾーンに打ってはいけない、フライを上げてもいけない。
緩い球が続くからと言って、プロでもないのに何球も続けてできるわけがない。
―――ゾーン。
スポーツ界では、極限に集中した状態をそう呼ぶ。
もはや、二宮にとって足の痛みはどうでもよくなっていた。
ストライクとボールを判断する。
ストライクならカットし、ボールなら見送る。
それだけの作業だ。
それだけの作業を、何回も、精密機械のように繰り返す。
その作業以外の情報は、全てシャットアウトする。
―――そして12球目。
「……ボール!」
少しだけ、歓声が上がった。
これで、フルカウント。
「……ようやく、ここまでこれたねぇ」
投手はストライクを投げ続ける。
打者はその球をカットし続ける。
それだけの作業に、どちらが先に音を上げるか。
段々と、グラウンドは静まり返っていった。
ちょっとした音が、張り詰めた糸を切ってしまうのではないかと危惧してしまう。
その勝負の終わりは、17球目。
汗で滑ったボールが、高く外れた。
「ボール、フォア!」
「「ぃよっしゃー!」」
相模南のベンチが、まるで得点した時のように湧き上がる。
そんな中、ネクストバッターの一ノ瀬だけが静かに立ち上がった。
二宮にしても、バットを置くと、振り向かずに一塁へと歩いていく。
まるでこの結果が、当然と言わんばかりに。
対する斡木クラブの内野陣はマウンドで集まった。
「申し訳ないッス、手が滑って……」
「仕方なくてよ。あの粘りは敵ながら賞賛ものよ。次のバッターにそんな技術はないはず、もしヒット性のあたりを打たれようが、二塁でアウトを取ればいいだけだもの」
「とにかく、アウトコースで勝負っスね」
内野陣が守備位置に戻り、一ノ瀬が打席に入る。
ネクストバッターの友希は、その姿をまじまじと見つめていた。
落ち着いている、というレベルではない。
……一ノ瀬は二宮に、チームの勝利を信じていると言った。
そして二宮に任せたと言った。
だが、一ノ瀬はもちろん二宮にホームランを期待していたわけではない。
そして、逆境の場面で後ろの友希に任せるのも酷だと理解している。
チームの勝利を信じている、ということは。
自分が打つことを、試合を決めることを信じるということだ。
……なぜホームラン打者になりたいと、一ノ瀬が年甲斐もなく主張したのか。
決まっている。
それが野球の華だから。
球場で見た看板直撃のホームランが脳裏にこびりついて離れないから。
……そして、一ノ瀬にはその資質があった。
―――初球。
球威はあまりない、アウトコース低めのストレート。
斡木クラブからしてみれば、四球を出さずに、かつ長打でなければ勝利なのだから、当然のコース配球。
一ノ瀬もそれを読んでいた。
強引に踏み込んで、アウトコースを真ん中にする。
キャッチャーにとってみれば、踏み込んだだけで見送るものだと思っていた。
一瞬の瞬きの後、ボールはバットで隠れた。
それほどに速いスイングで、ボールの中心の僅か下を叩き、低めの球をすくい上げる。
カキィィィィ―――……!
いつまでも、その音は響き続けるものなのかと、勘違いしてしまいそうな。
ベンチの皆が、身を乗り出してボールの行方を顔で追う。
―――一ノ瀬はバットを投げ捨てた後、固く拳を握りしめた。




