50話 小さなきっかけ
「やったネ! ミーのおかげで2-0ネ!」
「アイリちゃん、皆のおかげやで?」
とはいいつつも、ノーアウトで2塁打を放ち、生還した右京の功績は大きい。
5回裏も無失点で切り抜け、相模南は格上相手に、完全に優位に立っていた。
しかし、6回の裏。
相手は3順目に入っていく。
「あのアンダースローの子の球種はストレートの他にカットボール、シュート、チェンジアップ。球数を抑えるために初球はカットボールで内野ゴロを打たせたがる傾向が強い。逆に追い込まれればストレートかチェンジアップだな。シュートは負担が強いのかあまり投げていない。これを念頭に、打ち崩してこい」
「「はい!」」
……まだシンカーは見せていない。
相手投手も同じで、まだ手の内を全て見せているわけではない。
全力ではあるが、制限もある。
これは仕方のないことだ。だが当然それが、命取りになる。
主将大和の二塁打を皮切りに、6回裏に3点、7回裏に1点を追加し、スコアは逆転する。
「―――っ!」
キャッチャーの熊捕は唇を強く噛みしめた。
ネットで覚えた配球の定石、そして天性の勘。それだけでは足りないことに、勘付いたのだ。
圧倒的に試合数が少なすぎる。
勘付いただけでも十分過ぎるが、これから秋の大会に向けて補えるかと言われれば、心もとなかった。
「……」
8回の表、9回の表と。熊捕は打席に立ったとき以外、相手のキャッチャーと配球だけを見続けた。
体と心をシンクロさせる。
自分ならこう、ではなく、このキャッチャーならこう。
同局面で、全く違うコース・球種を選ぶキャッチャーが2人いても、どちらかが正解・間違いというわけではない。
それぞれに意図があり、結果論でしか語られない。
成りきる。相手のキャッチャーに。
例えそれが稚拙なリードだとしても、引き出しが1個増えるだけならリスクなどない。
しかも今回は、百戦錬磨のキャッチャーだ。
画面越しでは伝わらない意図が、熊捕の頭に入っていく。
……そして、9回の表。二死満塁で友希に打席が回ってくる。
ドクン、ドクンと。
友希の鼓動がいつも以上に激しくなっていく。
それは熱戦による興奮ではない。
逆境に立たされた者が味わう恐怖によるものだった。
「……ふー」
1つだけ、深く呼吸を吐く。
怖い。それは以前と変わらない。
だけど。
以前、夜のグラウンドで小鳥遊と真中と3人で話したことを思い出す。
この恐怖を乗り越えてこそ、自分の目指す世界が広がっている。
だがもちろん、気持ちを少し切り替えただけでは変わらなかった。
球速が先の打席と全く違うように感じる。変化球のキレが、段違いに上がっているように見える。
昔の友希なら、ヒットを打つのを諦めて、カットで四球でも狙っていただろう。
でも、もう違う。
強打しかない。
2点差の二死満塁、逆転打を打つことしか考えなかった。
当然、ホームランなんて簡単に出るものではない。
まだ体全体が硬く、本調子の友希と雲泥の差があることは、監督の目にも明らかだった。
しかし、動画で見た中学の頃の友希とは決定的に違っていた。
体の震えは収まり、怯えた表情でもない。
「たとえ素人であろうと、バットを持っていれば皆スラッガーですからねー。ヒットを打つ気概さえあれば、の話ですけどー」
ガキィ、と鈍い音がする。
ボールの上を叩き、平凡なゴロが転がっていく。
だが、それは何かに導かれたかのように、3遊間の間を抜いていった。
3塁コーチャーをしていた二宮が思い切り腕を回すと、小鳥遊は迷うことなく本塁に突っ込んでいく。
当然、二死で足の速い小鳥遊はセーフとなる。
「「やっっったあああ!」」
ベンチはお祭り騒ぎになった。
土壇場での同点。格上相手に、今なおチャンス。
公式戦かと見間違うほどに、試合は熱を帯びていく。
塁上の友希はこの小さなきっかけを、胸に刻み込んだ。




