44話 イップスって、何?
それは、バッティング練習の最中だった。
ギィン、という詰まった金属音の後、ドスッ、という鈍い音がする。
「ンギャアアア!」
一瞬の静寂の後、遅れてやって来た痛みに右京は悲鳴をあげた。
「大丈夫なん!? 怪獣みたいな声出しとったけど」
バッティングマシンで打撃練習をしていた右京が、自打球を足に当てて悶えていた。
「痛いネ! オーマイゴッド!」
「日本語が最初に出てくるってことは、大丈夫やと思うけど……」
どうやらプロテクターのあるところに当たったらしく、ユニフォームの裾を上げてみたが、ほんのり赤くなっているだけだった。
「なんや、アイリちゃんは大げさやねえ」
「アツコ酷いネ! か弱いミーが怪我をしそうになったというのに!」
「か弱い? 誰がや?」
その直後、右京の自打球と同じような音が、隣のバッティングケースからも聞こえた。
「うぐっ……」
友希が片膝を着き、バットを支えに項垂れている。
コントロールは良いはずの投山だったが、球数が増して足場が悪くなっていたのか、友希の背中にデッドボールを当てた。
「友希、大丈夫か?」
「大丈夫、だけど……」
キャッチャーをしていた熊捕が立ち上がって友希の様子を窺う。
痛みはないが、変なツボにでも入ったのか全身の力が入らない。
「まさか、アンタも自らの事を『か弱い』なんて言うんじゃないでしょうね?」
ネットの後ろで右京と友希の両方の打撃を見ていた真中が声をかける。
「あま、ね、ちゃん……」
力が入らないため、声もか細く、涙腺もゆるくなっている。
そんな友希の顔を見た真中は、少し頬を赤らめて顔を背けた。
「なっ……。じ、自分が悪かったわ。向こうで休んでなさいよ」
「うん、分かった……」
友希は真中にバッターボックスを明け渡し、バットを杖代わりにしてベンチに向かう。
「……あれ、大丈夫かしら」
「まあ、痛みはないと言うとったが」
ベンチでは、先程自打球を当てた右京が友希を迎え入れる。
「ユキ、怪我はないデスカ?」
「大丈夫です、ちょっと力が入らなくなっただけですから」
声は少しだけ戻ってきたが、まだ本調子には遠い。
そんな友希を見て、右京はデットボールの当たった背中をさすった。
「どうデスカ~。シャチョウさん」
「アイリ先輩、手つきがいやらしいです」
ボールが直撃していなくとも、真夏の炎天下に晒されているのだ。
友希と右京はタオルで汗を拭き、スポーツドリンクをごくごくと喉を鳴らして飲む。
2人がそんな小休止をしている中、打席に立っていた真中が声を荒げた。
「ちょっと桜! これじゃあ練習にならないじゃない!」
監督は職員会議でいなかったが、部員全員がそちらを向いた。
マウンド上に立ち尽くしている投山に、キャッチャーの熊捕と打席に立っていた真中が近づいていく。
「一体どうしたんじゃ。さっきからインコースの球を全く投げれてないが」
「わ、分からないぞ……」
真中が、ふと投山の手先を見た。
左手の指先が、痙攣しているかのように震えている。
「まさかアンタ、イップスになったの……?」
「イップス、ってなんじゃ?」
やがて、友希たちも含めて部員全員がマウンドに集まる。
その中で、イップスの事を知っているのは野球経験者の3人だけだった。
「イップスっていうのは、思い通りのプレーが出来なくなることだよ。原因は精神的なものから色々あるって聞くけど」
「友希にデッドボールを当てたことが原因かしら」
「……インコースに投げようとすると、手先の感覚がなくなるのだ」
友希、真中、小鳥遊は唇を噛んだ。
イップスが原因で選手生命が終わる人もいる。
とても楽観視できる状況じゃない。
「私があのボールを避けられてれば……」
「今はそんなの問題じゃないわ。紅葉、もう1回キャッチャーの位置に行って」
真中に言われるがまま、熊捕は元の位置に戻る。
「桜ちゃん、バッターがいない状況で、言ったコースに投げてみて」
友希がスマホでフォームを撮影しながら、桜は小鳥遊の指示通りに投げる。
右バッターにとって、外角・内角と、いつも通りに投げ切れている。
フォームも、何ら変化がない。
「いつも通りみたいだけどぉ、イップスってわけでもないのかなぁ?」
「……いや、問題はこれからです。雨音ちゃん、バッターボックスに入って」
外角にはいつも通りの、キレのいいボールが行く。
しかし、熊捕が真中の胸元近く。インコースに構えた直後だった。
ガシャン!
熊捕の遥か上を通り過ぎ、バックネットにボールが当たる。
投山自身も、信じられないように左手を見た。
「な、何者かに操られているようなのだ!」
「言い得て妙、だね……。イップスは、そんな感じだから」
「と、とにかく、監督に伝えないと!」
「うん、それまでは、桜ちゃんは投げない方が良いかもね」
友希のスマートフォンには、足の上げ幅、ステップの位置、テイクバック、その他諸々、すべてがバラバラになった投山の投球フォームが映し出されている。
いい加減に対処していい問題ではない、と誰もが感じた。
日が傾きかけた午後5時を過ぎて、職員会議を終えた監督が戻ってくる。
事情を話すと、1年生5人がブルペンに集められた。
「……サタンちゃん、大丈夫かなぁ」
「心配ですけれど、わたくしたちは桜さんを信じて、練習して待つしかありませんわ」
「そうだけどさぁ」
2年生が心配そうに見つめる中、投山は先ほどと同じように投球練習をする。
しかし、時間を空けたところで、イップスの様な症状は改善してはいなかった。
「この中でー、イップスの経験がある人はいますかー?」
監督の問いに、真中が手を挙げる。
思えば、投山がイップスなのではないかと1番初めに疑ったのも真中だった。
「治ってないと言えば治ってないですけどね。加減して投げることが出来ないので。昔と比べれば改善してるけど」
小学校の頃、真中が本気で投げると、それを捕れる人がほとんどいなかったからだった。
加減して投げるとあらぬ方向にボールが飛んでいくので、誰ともキャッチボールが出来ない。
遂には、本気で投げてもコントロールが悪くなっていった。
中学に入って、本気で投げても相手が簡単に捕ってくれるようになったので、外野をやっている限りは問題にはならなくなった。
「それで雨音ちゃん、距離が短いキャッチボールでもあんなに球が速いんだね」
「そうよ。手先の感覚で投げようとするとコントロールがずれるから、一連の動作で投げるしかないの。イップスの1歩手前、って感じかしら」
「……見た感じ、投山さんもイップス1歩手前という感じですねー」
バッターが立っていなければちゃんと投げられるのだから、感覚が全て狂っているわけではない。
今なら、メンタルさえ元に戻ればなんら問題はなくなる。
ただし。
「1歩間違えば、本当に深刻なイップスになってしまうのですー」
コースも、バッターが立っているか否かも関係なく。
ボールが投げられなくなってしまう。
「とりあえず、今日は投球以外の練習をして下さいー。明日になれば何か変わるかもしれませんのでー。今日は気晴らしに、花火をやりますからねー」
気晴らし。
もちろん、それで元に戻る可能性もある。
だけど、それで戻らなければ……。
友希も、真中も、小鳥遊も、もちろん監督も、聞いたことはある。
一生治らないこともあると。
治るとしても、イップスの克服にはある程度の時間が必要だと。
もう、大会まであと1ヶ月という所まで来ている。
しかも、投山の武器であるクロスファイヤーが投げきれないとなると、途端に投球の幅が狭くなる。
言ってみれば、4枚のカードでポーカーをするようなものだ。
当然、ストレートやフラッシュの役など成立しない。
それほど、インコースのストレートは生命線だ。
練習を終え、お風呂・ご飯の後に花火大会が催された。
その合間の時間を縫って、友希はスマホでイップスの克服方法について調べる。
しかし、それはどれもこれも、時間やお金のかかるものばかりだった。
当然、リスクを最小限に留めて治すには、時間をかけるしかない。
「あの時、避けられていれば……。いや、大げさに倒れなければ……」
「友希ちゃん、大丈夫だよ、きっと」
「み、みずき、聞いていたの!?」
「まあね」
傍にいた小鳥遊のことさえ気づかなかった。
当の投山は、じーっと左手を見つめている。
「……ねえ、みずき。人の選手生命を賭けちゃ、駄目だよね」
唐突に、だが、小鳥遊にはその意図が分かった。
廃校を無くすためには、投山のイップスをすぐさま治すしかない。
例え、イップスが悪化するリスクを負ってでも荒療治で。
「それは……僕には答えられないよ」
そして学校の屋上を秘密裏に開放して、去年の余りものと言っていた花火で遊ぶ。
「ここで打ち上げ花火をしたら、流石にばれるんとちゃいますか?」
「大丈夫ですよー。職員室には誰もいませんしー、ばれてもそんなに問題ではないのですー」
一抹の不安を抱えながらも、それを払拭するように花火を持って駆け回る。
線香花火が売れ残り、最後はみんなでその小さな光を見つめていた。
「桜ちゃん、今日は避けれなくてごめんね」
「友希が謝ることではないのだ! 我が、我がいけないのだ……」
「でも凄いよ、厳しいインコースに結構投げてたのに、今日のでああなったってことは、死球が今まで無かったってことでしょ」
「確かに、掠った程度なら今まであったが、クリーンヒットしてしまったのは今日が初なのだ」
「足場が悪かっただけだし、桜ちゃんのコントロールなら大丈夫! 明日にはきっと治ってるよ!」
「それだと良いが……」
投山の持っていた線香花火の火が消える。
まだ、長さは十分に残っていたのに。
「万が一治ってなくても、私にとっておきの秘策があるから、安心して!」
治そうと意識すれば意識するほど悪化する。それは友希が現に体験していることだ。
だから、治ってなくても大丈夫と声をかけることで、良化するかもしれない。
友希はそれに賭けた。
もちろん、とっておきの秘策なんてない。
あるのは一か八かの荒療治だけだ。
翌日。
投山のイップスは治ってはいなかった。
「……桜ちゃん。私たちと一緒に、心中してくれる?」
荒療治しかない。リスクは大きいが、監督も承諾した。
そして投山も、覚悟を決めて頷いた。




