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リポグラム短編集〜『あい』を失った女〜  作者: 石河 翠


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去り行く『へいせい』に哀惜を

若松ユウ様に捧ぐ


条件:「へ」「い」「せ」「べ」「ぜ」を使用してはならない

「ヤバっ、え、マジっすか。つまり俺(おれ)たち、五月(ごがつ)からはおっさんってことっすか?」


 町役場(まちやくば)のフロアには、何(なん)とも能天気(のうてんき)な声(こえ)が響(ひび)く。わたしは無駄話(むだばなし)に興(きょう)じる彼(かれ)を尻目(しりめ)に、上司(じょうし)とともに資料(しりょう)を揃(そろ)えることに集中(しゅうちゅう)した。こうしておけば腹(はら)の底(そこ)でどんな毒(どく)を吐(は)こうとも見(み)た目(め)だけは完璧(かんぺき)なOL(オーエル)の出来上(できあ)がりだ。


 あんたがおっさんなら、さしずめわたしはおばあさんってところかしらね。そんな風(ふう)にちくりとやりたくなるのをぐっとこらえる。だってわたしはお局様(つぼねさま)だもの。わざわざ自分(じぶん)から何か行動(こうどう)して、ドS(エス)だの、年下(としした)をなぶって喜(よろこ)ぶ女王様(じょおうさま)だのからかわれる羽目(はめ)になるのはごめんこうむる。


 それに誰(だれ)からも好(す)かれる大型犬(おおがたけん)もどきな彼(かれ)に関(かか)わると面倒(めんどう)なことになる。あんな役所勤(やくしょづと)めらしからぬ言葉(ことば)でさえ、上司(じょうし)からのお叱(しか)りも利用者(りようしゃ)からのクレームも受(う)けずにのうのうと過(す)ごす彼(かれ)。それがまた無性(むしょう)に腹(はら)が立(た)つのだ。


 歳(とし)だって本当(ほんとう)はほとんど同(おな)じ。それなのにこんなにも彼(かれ)との距離(きょり)を感(かん)じてしまうのはわたしの僻(ひが)みなのかしら。それとも、元号(げんごう)マジックとやらの効果(こうか)がこんなところにもあるのかも。


「じゃあよろしく頼(たの)むよ。この借(か)りは必(かなら)ず返(かえ)すから!」


 上司(じょうし)の言葉(ことば)に、慌(あわ)てて思考(しこう)を戻(もど)す。フルムーン旅行(りょこう)にでかけるつもりだったのに、休出(きゅうしゅつ)なんてしたらさすがに離婚(りこん)の危機(きき)だと青(あお)ざめる上司(じょうし)を見(み)つけたのは数時間前(すうじかんまえ)。その代(か)わりとしてわたしは自(みずか)ら名乗(なの)りを挙(あ)げた。本当(ほんとう)に助(たす)かったと頭(あたま)を下(さ)げる上司(じょうし)の姿(すがた)に、私(わたし)は肩(かた)をすくめほんのり苦笑(くしょう)する。


 実(じつ)のところ、連休(れんきゅう)をもらえたところで、寝正月(ねしょうがつ)ならぬ寝黄金週間(ねおうごんしゅうかん)になるだけだ。家族(かぞく)持(も)ちの上司(じょうし)にこそ休(やす)みが必要(ひつよう)だろう。ここ数日(すうじつ)でさらにすすけた上司(じょうし)の頭部(とうぶ)が妙(みょう)にわたしの目(め)にしみる。


 それにしても元号(げんごう)の初日(しょにち)が、まさかこうなるとは。カレンダーを確認(かくにん)しつつげんなりする。仏滅(ぶつめつ)か友引(ともびき)ならば良(よ)かったのになんて思(おも)うのは、不謹慎(ふきんしん)だろうか。思(おも)ったよりも六曜(りくよう)に左右(さゆう)されるわたしの仕事(しごと)。なんだかんだで縁起(えんぎ)をかつぐ日本人(にほんじん)の律儀(りちぎ)さに笑(え)みが漏(も)れる。


「そうそう、ひとりだとアレだろうし助(すけ)っ人(と)を呼(よ)んでるから」


 何(なん)とも気(き)が利(き)く上司(じょうし)は、ともに休出(きゅうしゅつ)してくれる人間(にんげん)まで見(み)つけてきてくれたようだ。感謝(かんしゃ)の言葉(ことば)を贈(おく)ろうとして、思(おも)わずからだが固(かた)まる。


 ちょっとちょっと、正直(しょうじき)これはナシでしょ。にっこりと笑(わら)う彼(かれ)を目(め)の前(まえ)にして、わたしは密かに頭(あたま)を抱(かか)えた。


 さも嬉(うれ)しそうにわたしの周(まわ)りにまとわりつく彼(かれ)。ちくちくとした無言(むごん)の圧力(あつりょく)が四方八方(しほうはっぽう)から突(つ)き刺(さ)さる。わたしだって、好(す)きでこのひとと休出(きゅうしゅつ)になってるわけじゃあなくってよ。むしろ、結構(けっこう)な頻度(ひんど)で用事(ようじ)をずらしてたりもするのに。こちらの気持(きも)ちなど気(き)がつくはずもなく、彼(かれ)はのんびりとわたしに話(はな)しかける。


「新元号(しんげんごう)初日(しょにち)に結婚(けっこん)とかマジヤバっすよね」


 窓口(まどぐち)の様子(ようす)を確(たし)かめてから、そっとうなずく。彼(かれ)の考(かんが)えもわかるが、さすがに大(おお)っぴらに話(はな)すのはアウトだ。それに、もともとお祭(まつ)り好(ず)きの日本人(にほんじん)なのだ。届(とど)け出(で)は記念日(きねんび)にと考(かんが)えるのもわかる。クリスマスや新年(しんねん)だって混雑(こんざつ)するのだ。元号(げんごう)が改(あらた)まるとなれば、相当数(そうとうすう)の申(もう)し込(こ)みが予想(よそう)される。思わず頭痛(ずつう)を感(かん)じ、わたしはかぶりをふった。


 早(はや)めに頭痛薬(ずつうやく)を飲(の)んでおこうか。少(すこ)しだけ悩(なや)んだわたしの前(まえ)に、常備薬(じょうびやく)と紙(かみ)コップにつがれたお水(みず)がおかれた。


「しんどくなる前(まえ)に飲(の)んどきましょーよ」


 当(あ)たり前(まえ)のように笑(わら)ってケアしてくれる彼(かれ)。頬(ほほ)が赤(あか)くなったのを隠(かく)すように、正面(しょうめん)のパソコン画面(がめん)をチェックする。すると、彼(かれ)が何気(なにげ)なくメモ用紙(ようし)を手渡(てわた)して来(き)た。


「でも、俺的(おれてき)にはこっちのほうがオススメなんすよね」


 どこか見慣(みな)れた数字(すうじ)は、わたしの誕生日(たんじょうび)。元号(げんごう)が改(あらた)まった日(ひ)から、数日後(すうじつご)の日付(ひづけ)だ。


「奥(おく)さんの誕生日(たんじょうび)に届(とど)け出(で)とか超基本(ちょうきほん)っしょ」


 思(おも)わず水(みず)を噴(ふ)き出(だ)したわたしにタオルを渡(わた)しながら、彼(かれ)はにこにこと言葉(ことば)を続(つづ)ける。こちらの様子(ようす)を伺(うかが)う上司(じょうし)は、何(なに)やらにやけ顔(かお)だ。かたまるわたしを置(お)き去(ざ)りにして、外堀(そとぼり)は埋(う)められてゆく。結婚(けっこん)までのカウントダウンは、気(き)がつけばすでに終(お)わりぎわだったようだ。

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