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ひとまずの決着

 エルシリアの華奢な腕が伸び、細い指先がミズガルズの鼻先に触れる。滑らかな鱗を撫でられる度、白蛇は心地良さそうに目を細めた。月光に照らされる王女の横顔も微笑んでいた。二人の間には確かに幸福が溢れていた。ミズガルズの背に乗るフィーロスとノワールも空気をしっかりと読み、一言も発しようとはしない。その対応は正しかったのかもしれない。誰も口を挟んではいけない。蛇神と姫君の間にはそんな雰囲気が漂っていたから。


『……乗るか?』


「……もちろん」


 エルシリアが頷く。彼女が乗りやすいよう、ミズガルズは首を下げる。バルコニーの柵を乗り越えて、少女は颯爽と白蛇の背に跨った。落ちるのを防ぐため、彼女は青色の角をそっと掴み、凛とした顔を頭上の夜空へ向ける。そしてミズガルズが翼をはためかせ、長大な体躯を翻そうとした。だが、それを阻むかのように一人の男の声が上がった。苛立たしげに振り向いた白蛇の視線の先、そこにいたのはスタニスラフだった。


「か、彼女をどうするつもりなんですか!?」


 がたがたと震える青年を見下ろすミズガルズの瞳は鋭く、殺気が滲み出ていた。


『誰だ、お前は』


「僕はスタニスラフ。現皇帝アルトゥーロ十八世の息子の一人です。……彼女をどうするんですか?」


 生意気にもしっかりとこちらを見つめてくるスタニスラフの姿を、ミズガルズは冷めた目で見下ろしてやった。何を分かりきったことを言っているのだ、この男は。こうしてミズガルズが力を振るわなければならなくなったのは、お前たちのせいだと言うのに。


『お前は馬鹿か? お前たちの手から助けに来たに決まってるだろう。当たり前のことを聞くな』


「では……貴方はこの国を滅ぼすつもりで来たわけではないんですか?」


 スタニスラフの肌に嫌な汗がじわりと湧き始めた。普段は冷静な彼の頭も、この時ばかりは恐怖で支配されていた。目の前で殺気のこもった視線を向けてくる魔物がエルシリアに相当の好意を抱いているとしたら……彼女を半ば攫って拘束したディレンセン帝国は憎悪の対象になるだろう。実際、ラニアプルグの軍港と海軍基地は跡形も残らないほど破壊された。それだけでは済まないのではないか。スタニスラフの脳内で嫌な想像がどんどん膨らんでいった。


『それもいいな』


「!!」


 まるで、何でもないことのように蛇神は言い放った。何の迷いも無く、実にあっさりと。王子はじわじわと上り詰める恐怖に蝕まれ、足が動かなかった。


『……けど、そんなことをしても何の意味もない』


「え……?」


 父親を呼んで来い。白蛇がそう言った。スタニスラフはどうすればいいのか分からずに、困惑に包み込まれた。すぐに言われた通りにするべきだったのかもしれない。しかし、父親……つまり皇帝アルトゥーロ十八世がどういう目に遭わされるのかと考えると、容易には動けないのも当然だった。金縛りにあったかのようなスタニスラフに対し、低い唸り声が投げつけられた。もちろん、苛立つミズガルズのものだ。



「余に用があるらしいな、化物。聞いてやろう」



 厳かに響いたその声はミズガルズのものでも、まごつくスタニスラフのものでもない。現れた第三者は大勢の部下を引き連れていた。全員が迷彩柄の軍服に身を包み、銃器類で武装を施していた。軍人たちの目付きは一様に鋭かった。黄金に輝く王冠を頭に乗せた統率者が一歩前へ踏み出た。暗い青色の鋭い瞳、短く刈り込んだダークグレーの頭髪と端正な顔つきが印象的な男だった。かなり若く見えるのだが、その身体から漂う迫力は若輩者が得られるものではない。豪奢な装束を纏う、眼光鋭き壮年の男。命知らずにも丸腰の身一つで白蛇と向かい合う彼こそが。


「……余がアルトゥーロ十八世だ。貴様の望みは何だ? 言ってみろ」



 ◇◇◇◇◇



 対峙する機械帝国の皇帝を目の前にしたミズガルズは要求を突き付けた。侵略した土地や国家を解放し、軍隊を撤退させること。今現在、行っている戦闘行為を全て取り止め、全ての戦闘員を自国領内へと帰還させること。戦争よりも国内の貧富格差等の改善を優先させること。今後は行き過ぎた侵攻は控えること……。他にも条件を長々と述べて、ミズガルズはそれらを帝国に対し、叩きつけた。

 ミズガルズが話していた間、意外にもずっと黙って聞いていたアルトゥーロ十八世がようやく顔を上げた。その時、彼が見せた表情に、ミズガルズはおろか息子のスタニスラフや帝国人の部下たちまでもが驚いた。皇帝は愉快そうに笑っていたのだ。可笑しくて仕方がないとばかりに大笑いをしていた。それは普段の冷徹な彼の姿からはかけ離れていた。


「……は、はは、はははっ……いや、すまない。あまりに愚かしくてな、ついつい笑ってしまった。貴様、ふざけているのか? そんな要求を余が呑むと思うか? こちらに何の利益も無いではないか」


 見下すように言ってきた皇帝をミズガルズも同じように嘲笑ってみせた。何をほざいているのだろうか、この愚鈍な男は。要求を呑む、呑まないなど関係ない。最初から男に選択権など存在しないのだから。この要求は無理やりであろうが何であろうが、呑ませるものなのだ。どのような手段を使ってでも。


『利益ならあるさ。それともお前、まだ分からないのか?』


 眉間に皺を寄せるアルトゥーロ。そんな彼を見下ろしながら、ミズガルズは冷たく、だがはっきりと言った。


『全ての条件を呑んでこの先大人しくしているなら、お前らはまだ生きていられる。……どうだ?』


 余程衝撃的だったのだろう。皇帝を始め、全員が言葉を失い、唖然としている。だからもう一度、蛇神は繰り返した。


『……負けを受け入れて生きるか、もしくは死ぬか、だ。好きな方を選べ』


 そう言った瞬間、皇帝が身を翻す。彼と入れ替わって前に出てきたのは十人を超える軍人たちだった。黒光りする彼らの長銃の銃口がミズガルズへと向く。直後、激しい銃撃音がその場を支配した。薬莢が飛び散り、火薬の匂いが空気を彩った。そうしてどのくらいの時間が経っただろう。咄嗟に床に身を伏せていたスタニスラフが恐る恐る身体を起こした。そこで彼は驚異の光景を目にした。銃口から発射された無数の銃弾の全てが、白蛇に飛来することなく空中で停止している。愕然としていると、それらはぱらぱらと地に落ちた。そして、白蛇の恐ろしげな声がスタニスラフの耳に届いた。


『どうやら、口で言っても分からないらしいな。……なら、望み通り死ね』


 ミズガルズが己の両眼に強い魔力を込めた。非常に強い魔力であった。だが、その場でそれが分かったのはエルシリアと、同じくミズガルズの背にしがみつくフィーロス、ノワールだけだった。現に帝国側の人間たちは間抜けヅラを晒していた。しかし、直後にはその間抜けな顔が苦痛で歪むことになった。

 突如、響き渡った軍人たちの壮絶な悲鳴。人間のものとは思えぬ奇声を発する彼らの身体から白煙が立ち昇り始めた。異変は明確だった。軍人の足先や手先が自然に凍てつき始めているのだ。それも止まることなく進行し続けている。パキパキと音を立てながら軍人たちは純白の霜に包まれていった。彼らには震える暇もない。何も出来ず、あっという間に物言わぬ凍死体へと変わり果てていくしかなかった。

 皇帝は帰らぬ人となった部下たちを黙って見つめていた。当然ながら渋面だった。とは言え、腰が引けて泡を食っているスタニスラフとは異なり、醜態を晒さない点はさすが皇帝といったところだろう。ミズガルズもそこだけは感服した。


「……まったく恐ろしいものだな、忌々しい化物め。次は余の番か? ん?」


『言ったろう? 俺の要求を一つ残らず受け入れて大人しくするなら、お前は殺さないし、お前の国も滅ぼさない。受け入れないなら、話は別だ。お前は苦痛を味わいながら死ぬ。……さぁ、どうする?』


 アルトゥーロ十八世の歯軋りの音が鳴り響いた。彼は悔しげな表情をミズガルズに向けた。


「悔しいが、貴様にはどう足掻いても勝てそうにない……。ならば、受け入れるしかないだろうよ」


『その言葉、本当だろうな』


 低い声で念を押す。すると、アルトゥーロ十八世が真正面からミズガルズを見据えた。笑っているような睨んでいるような、そんな複雑な顔だ。やけに堂々としているのは、皇帝として自分を大きく見せたいからなのであろうか。


「あぁ、本当だ。誠に不本意ではあるがな。余とて、まだ命は惜しい。軍は全て引き上げてやる。その女も勝手に持って行け」


『生意気な……まぁ、良い。お前は賢明な判断をしたよ。再び会うことが無いと良いな? 次に会う時はお前を殺す時だからな……』


「抜かせ、化物」


 アルトゥーロ十八世は憤怒を込めて吐き捨てた。その裏側に「このままでは絶対に済まさない」というような思いが隠れている気がしてならなかった。けれど、ミズガルズは敢えて何も言わなかった。一時の敗者となった皇帝に背を向け、そうして夜空へ飛び去ろうとした時だった。


「あ、あのっ! エルシリア王女、待ってください。言っておきたいことがあるんです!」


 飛翔を遮ったのは、またしてもスタニスラフだった。呼ばれたエルシリア本人はたいそう驚き、ミズガルズは苛々を隠さないで、唸り声を響かせた。事態を見守っていた皇帝も息子の突然の行動に目を見開いて面食らっていた。


「……王女様、僕はもう貴女に会えないのでしょうか? 僕は……寂しい」


 憂いを帯びるスタニスラフ。エルシリアも嫌そうではなかった。困ったように、そして申し訳なさそうに眉を寄せていた。アルトゥーロ十八世は何を言えば良いのやら分からぬようで、固唾を飲んでいる。

 他方、ミズガルズはと言うと、それはそれは盛大に苛ついていた。溜め込んだ怒りが内側から爆発しそうな様子で唸り続けている。フィーロスはともかく、ノワールまで恐れて距離を置く始末だ。だが、鈍いスタニスラフはそんなことには気付かない。彼の瞳に映るのはエルシリアだけであるようだった。


「スタン王子、ごめんなさい。私はここにはいられないんです。もう行かないと」


 そう言ってエルシリアが微笑むと、スタニスラフは残念そうな顔をした。何か言おうとして言葉を探しているのか、唇が不自然に動いていた。


『……エルシリア、そろそろ良いか?』


「あれ、もしかして怒っているのか?」


『……いや、別に……』


 どう見ても不貞腐れている救世主の上で姫君がくすくすと笑う。彼女の艶やかな金髪が吹き上げる夜風に揺らされた。もう良いだろう。ここらが引き際だ。これ以上の暴力は意味を成さない。ミズガルズは巨躯を翻し、翼に力を込める。そうするとあっという間に城から距離が離れた。最後に僅かに首を曲げて振り返る。バルコニーにはまだ二人の人間が立っていた。王子は惚けた表情で空を見つめている。大方、エルシリアの美貌に惚れてしまったのだろう。ミズガルズがそうであったように。だが、彼にはどのみち叶わない恋だったと、そう諦めてもらうしかない。

 一方、皇帝アルトゥーロ十八世はただただ真っ直ぐと、ミズガルズのことを睨みつけていた。青の双眸に激情の炎が宿っているようだった。たかだか人間とは軽々しく片付けられないほど、鋭く恐ろしげな視線であった。あの男は近いうちに約束を反故にして、間違いなく何らかの行動を起こしてくるだろう。そう感じたが、ミズガルズは今は何も言わなかった。表面上だけなのかもしれないが、一応は要求を呑んだのだから。それゆえ、蛇神は皇帝の鋭い視線を静かに受け止め、無言のまま帝都ダルバレスクを後にした。



 ◇◇◇◇◇



 時刻は真夜中。バラキンの酒場もとうに店仕舞いをしている。ゾーヤと数人の店員たちは明日の営業のために準備をしている最中で、まだまだ寝れそうにない。ヴァシリと残りの店員たちは店内で酔い潰れた客たちを送るのに忙しく、今は家にいない状況だった。そんな中、二階の自室でジリヤは一人窓の外を見ていた。寝れないのではなく、寝ていないのだ。近頃はずっとこうである。家族が忙しいのを良いことに夜更しをして、翌日は一日中眠たそうな顔をしているのもよくあることだった。


「……行っちゃったよ。結局、一緒にいてもくれなかったし」


 一人きりの部屋の中、枕を胸に抱いたジリヤがぼやく。文句の相手はミズガルズだった。約束したのにさっさと逃げるなんて、ずるい人……いや、蛇だ。酒場の酔っ払いが教えてくれた、「気になる男がいたら積極的に行け! お前がやれば大抵乗ってくる」というのを実践してみたかったのに。やっぱり私って可愛くないのかな……と、ジリヤは目を伏せた。


「そうだよね……好きな人がいるみたいだし」


 お姫様なんかには絶対に勝てないだろうな。そう思い、自虐的に笑ってしまう。そんな折、ジリヤは外が騒がしいことに気付いた。複数の人間が何故だかは分からないが騒いでいるらしい。何をしているのだろう、真夜中なのに。早く寝れば良いのに。自分の夜更しを思い切り棚に上げて、ジリヤは外を覗き込んだ。大勢の人間が路上に溢れていた。家々の窓からも多くの人々が身体を乗り出していた。老若男女様々だったが、彼らは一様にある一点を見ていた。空だ。

 群衆と同じように頭上を仰いだジリヤから短い呟きが漏れた。彼女は口を閉じることも忘れて、呆然と空を見上げていた。ラニアプルグの貧民街の上空を何かがゆったりと飛行していた。純白の地に青と紫の模様が映える、とても大きな蛇だった。その大きさと言ったら尋常ではなかった。人間の十倍ではとても足りない。人間の大人を百人並べてもまだ足りないほどの長さだった。

 巨大な白蛇は羽音を響かせながら、ジリヤの住むバラキン家の二階近くまで降下してきた。綺麗な女性を背に乗せた白蛇の顔がすぐ目と鼻の先に来ても、少女は半ば放心状態だった。


「……も、もしかして、ミッちゃんなの? そんな大きかったんだ……」


『ああ、もしかしなくてもそうだ。怖がらせたくなかったから、黙ってた』


「そうだったの……。ところで、お姫様って、その人だよね?」


 その通りと返したミズガルズの声音はどことなく嬉しそうだった。何だか少し羨ましい。そう感じてしまうジリヤがいた。


「ねぇ、わざわざアタシのところに寄りに来てくれたの?」


『そうだよ。このまま何も言わずに別れるなんて、やっぱり薄情だし、惜しいからさ』


 白蛇は背に乗る姫に何か声をかけた。何と言ったのか、ジリヤには分からない。知らない言葉だったから。ディレンセン語でないのは確かなようだった。そうこうするうちに、ミズガルズが身体を動かし、姫とジリヤが向かい合う形を作った。


「これをどうぞ、ジリヤさん」


 ほんの少し発音に違和感があったものの、姫君が鈴のような美声で言った。ウェーブのかかった金髪とエメラルドグリーンの瞳が持つ輝きも相俟って、ジリヤは思わず萎縮してしまった。同性なのに見惚れてしまいそうだ。

 おっかなびっくり彼女が受け取ったもの、それはこれまた大きな一枚の鱗であった。一つのシミも傷も無い純白の鱗で、月光に当てると銀色に輝いた。ジリヤの顔ほどもある立派な代物であり、何も加工しなくてもそれだけで価値がありそうだった。


「これって、ミッちゃんの鱗でしょ……? どうしてアタシのためなんかに……」


 ジリヤが恐る恐るミズガルズを見上げた。


『うん、ジリヤを守るためだよ』


「へ? アタシを守る?」


 素っ頓狂な声を出す少女に、白蛇は優しげな声をかけた。


『もしこの先、本当に危ないことがあったら、自分だけの力ではどうにもならないことがあったら、その時はそれを持って強く願ってくれ。必ず助けに行こう』


 ジリヤは暫しの間、ぽかんとしていたが、やがて白蛇の言わんとしている意味を悟ると破顔した。嬉しさのあまり、少女の口元は緩んだ。


「ありがと。その言葉、信じてるよ!」


『ああ、そうしてくれ。会えて良かった……また、いつか』


 少女の力強い笑顔を目に焼き付けたミズガルズは、いよいよ出発の時を迎えた。魔力で構成した八枚の白い翼に力を入れる。背中のエルシリアとフィーロス、そしてノワールに一言、声をかける。返ってきた返事に頷き、白蛇は翼を振るう。風が吹き、長い躯体は空を昇った。機械帝国に抑圧された群衆がざわめいた。夜でも明るいラニアプルグの街並みを一瞥した後、白蛇は星空を泳ぐように飛んだ。目指すは南、バルタニア王国。残す関門はあと一つだ。

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