姫君と世界蛇
空を塗り潰す黒色も濃くなってきた頃、フィーロスが改めて話を始めた。彼女は先程のことがあったからなのか、ジリヤから距離を取り、容易に手の届かない箪笥の上に飛び乗った。途端にジリヤが残念そうな顔をした。
「ミズガルズ様。世界を守り、常に均衡を保たせるのが、あなた様のするべきことです。ただ一人の個人や勢力だけに力が集まっては良くありません。……あまりに大きなバランスの崩壊は、世界の崩壊に繋がります」
ミズガルズは右手を顎に当てて考え込んでしまった。確かにフィーロスの言うことは一理あった。バランスが崩れている状態より、きちんと保たれている状態の方が良いに決まっている。そんなことは誰にでも分かることだ。だが、ミズガルズが力を振るえば、必ず誰かが死ぬ。自分では抑えたつもりでも相手にとってはそうではない。気付かぬ内に罪のない一般人までをも巻き込んでしまったら、どうすればいいのだ。
そんなミズガルズの傍にフィーロスが跳んできた。そして、主人の苦悩を察したのか、誰かを殺すことだけが方法ではないと、そんなことを言った。ミズガルズは怪訝な顔をして、目の前に座る桃色の猫をじっと見つめた。
「あなた様には強大な力があります。それを大いに見せつけてやれば良いだけの話でしょう」
「……脅迫ってことか?」
「武力行使を伴う警告、ということですよ。ミズガルズ様」
そんなもの一緒じゃないか。そう言って呆れてみせると、フィーロスは「どうでしょう」ととぼけてみせた。この猫は自分には感情の起伏がほとんど無いと発言したことがあったが、それは嘘なのではないかと、ミズガルズは薄々思い始めていた。
「なあ、よくわかんねーけど、皇帝とか軍のやつらを脅すわけ?」
今まで空気を読んで黙していたジリヤがここにきて口を開いた。心なしか、わくわくしているように見えるのは何故だろう。
「……まぁ、そういうことになる」
「じゃあさ! ここの基地から始めるといいよ! 南側にはでっけー港があって、主力の軍艦が揃って停泊してるし、偉そうな軍人どもも住んでる。あいつらとつるんで、良い思いしてるやつらもたくさんいるよ」
どうやら彼女は、軍隊やその取り巻きたちに対して相当鬱憤を溜め込んでいるようだ。これから彼らが潰されることを想像するジリヤは生き生きとさえしていた。そして、彼女が勧めた通り、ミズガルズは南の基地から叩くことを決めた。勢揃いした主力艦を一気に沈めてしまえば、それだけでも戦力的に大打撃だろう。ついでに港と軍基地も壊せば、仮に帰って来た軍艦があっても停泊は無理だし、何も出来ない。イグニスが外から帝国にダメージを与えている間、ミズガルズは内側から攻めてやればいい。
「とりあえず、軽く暴れてやるか……」
呟くなり、窓の外を見る。良い月夜だ。そう思った。
◇◇◇◇◇
その日、ディレンセン帝国海軍において少将の地位に就く男、ルスラン・レカシェンコは自宅三階のベランダから夜空を眺めていた。場所はラニアプルグ市街の南、軍基地に程近い高級住宅街の一角である。今のところ、ルスランに出撃命令は下されておらず、現在は自宅待機中だった。彼が出るまでもなく、他国への侵略は順調だということだろう。それを思うと、ルスランは自然と良い気分になった。このまま滞りなく事が運べば、世界の覇権はディレンセン帝国が握るはずだ。そうすれば、魔法などというわけのわからないものに頼る蛮族どもを従わせて、人間が本来進むべき正しい方向に導くことが出来る。生粋の帝国軍人であるルスランは本気でそう信じていた。
そうやって愛国心と優越感に浸っていた時、ルスランは遥か遠くの大空に何かを見たような気がした。無性に気になって椅子から立ち上がり、ベランダの端まで行く。そして柵に寄り掛かり目を細めると、件のものがやっと確認できた。場所は北部の貧民街の上空辺りだろうか。銀光を放つ月が浮かぶ黒い夜空に何かが浮遊していた。ルスランの目にはそれが白い紐のようにしか見えなかった。距離が遠いため、いくら視力が良いと言ってもそれ以上の詳細は分からない。何故だか気になってそのままずっと見続ける。すると、目に見える変化が起こり始めた。宙に浮かぶ白い紐が淡く光りだしたのだ。決してルスランの見間違いなどではなかった。
「あれは……何だ?」
訝しげに呟く少将の視線の先では、例の謎の物体が未だに光を放っていた。光度はますます強くなっている。ルスランの頭の中でとてつもなく嫌な予感が芽生えると同時に、一際強い光が放出された。今ので大方のラニアプルグ市民も、自分たちの上空で起きている異変に気付いただろう。そして、空を見上げた大半の人間がルスランと同じようなことを漏らしたはずだ。
「……蛇だ……馬鹿でかい蛇が……」
漆黒の闇夜に浮かぶのは、あまりに巨大な蛇だった。目が覚めるような白色の胴体が背後の黒々とした闇に映える。それはまるで子供の御伽噺に登場するような天使を思わせる羽までも生やしていた。まったくもって非現実的な光景だった。ルスランは口を閉じるのも忘れて魅入っていた。帝国の科学技術を信奉してやまない彼でさえも、神々しいとそう感じてしまったのだ。
暫く貧民街を見下ろしていた白蛇が、その長大な身体を翻した。血色の瞳と目が合ったような気がして、ルスランは思わずへたり込み、腰を抜かしながら後ろに下がる。もっとも蛇の方はすぐに興味を無くしたかのようにルスランから視線を外し、別のある一点を見遣った。その一点が一体どこなのか確認する余裕は海軍少将には無かった。ただただ彼の視線は蛇に固定されていた。大蛇の半開きの口元から物騒な紫電が迸っているように見えるのは気のせいだろうか。
そうこうしている内に、白蛇は八枚の大きな翼を優雅にはためかせながら、ゆるゆるとした動作で上体を大きく後ろに反らせた。そして次の瞬間、轟音と共に明るい紫色に輝く雷を口腔から放った。雷は勢いを失うことなくぐんぐんと伸びていき、最後にはラニアプルグ市街の中でも最も重要と言える場所に直撃した。帝国海軍の主力艦が幾つも停泊する港湾部だ。雷は容赦なくその全てを破壊した。帝国の誇る軍艦は爆発し、整備された港は見るも無残な姿へと変わり果てた。たった一発の攻撃で。
「……あ、有り得ん……」
帝国海軍の一員で、しかも将校であるはずのルスランだったが、彼は何も出来ないまま座り込むだけだった。ラニアプルグの港湾はもう使えないだろう。そんな思いが頭をよぎる。それと同時に、自分があそこにいなくてよかったと、情けないながらも安堵の気持ちが生まれるのだった。
◇◇◇◇◇
港に並んでいた軍艦をあらかた潰した後、ミズガルズの次の目的は隣接する基地の破壊だった。彼はオルビオフ川を超えて市街地の南部を通り過ぎた。いかにも富裕層の人間が住んでいそうな大きな邸宅がそこかしこに建っている。だが、ミズガルズはそれらに目もくれず、基地に向かって真っ直ぐ飛んだ。近付くにつれて激しい銃撃音が聞こえてきた。基地の内外に武装した兵士たちがいる。彼らはこの世界の騎士たちとはかけ離れた装備に、しっかりと身を包んでいた。けれども、そんなことはミズガルズにとって問題ではない。魔法を放つ兵士だろうが、金属の弾丸を放つ兵士だろうが、どのみちたかだか人間の兵士に過ぎないのだ。大蛇の相手になるはずがなかった。
『死にたくないなら、どこへでも逃げろ! 死にたい奴はそこに残るといい!』
一度だけ警告を発する。それを聞き、幾人かの兵が武器を持ったまま逃げた。とは言っても敵前逃亡するような者は本当に僅かだった。大部分の兵士たちは当然ながら、お前が死ねとばかりに銃声を鳴らしてミズガルズを攻撃する。基地の重そうな門が開き、中から戦車までもが登場した。長い砲身から一斉に砲弾を見舞ってくる。それでもミズガルズの張った防壁は、その程度の攻撃では破れない。いかなる弾丸も白蛇を傷付けることはなかった。
ミズガルズは吼えると、自身の前方に巨大な魔法陣を描いた。陣は光り輝き、何本もの稲妻を生み出す。迅雷を轟かせ、稲妻の群れは基地の門を大破させた。戦車も人間も宙を舞い、その原形を留めない。それでもますます激しさを増す攻撃に辟易しつつ、ミズガルズは昇り龍の如く遥か上空に舞い上がった。広大な軍基地の全景を見渡せる高度にまで上がると、魔力を最大限まで高め、一気に口腔から解き放った。夜空を照らす白い閃光が、ディレンセン帝国内でも最大級の海軍基地に降りた。刹那、鼓膜をつんざくような爆音が響き、目も開けられぬほどの白光がラニアプルグのほぼ全域を飲み込んだ。
帝国海軍の基地が在った場所には、もはや何も存在していない。大きく抉れた地面と表面の溶けた瓦礫の数々が残されるのみだった。世界蛇は冷たい視線を基地の跡地に投げかけた後、大きめの羽音を残しながら、早々と去って行く。彼が向かう先にあるもの、それは帝都ダルバレスクの中心に聳える王城だった。
◇◇◇◇◇
ダルバレスクの中心部、皇帝一族の住まう宮殿の一室で、エルシリアはベッドの上に倒れ込むようにして眠っていた。王族が着る豪奢なドレスはとうに脱ぎ捨て、今はあちこちにフリルの付いた薄緑色の寝巻きに身を包んでいる。そうして夢の世界を歩いていた彼女だったが、大きく寝返りを打った拍子に目を覚ましてしまったようだった。長い睫毛が揺れ、翡翠色の瞳は窓の外に向けられる。カーテンは開けっ放しにしていた。おかげで夜空がよく見えた。そこにぽっかりと浮かぶ銀月も。
姫君はベッドから上体を起こすと、寝巻きの乱れを直した。彼女は見事な金髪を手で梳き、立ち上がる。窓際まで移動すると、既にバルコニーには二人の女性兵士の姿は無かった。エルシリアが逃げないとでも判断したのだろう。確かにその判断は正しい。今や、エルシリアは非力な少女でしかないのだから。バルコニーから飛び降りてまで逃げようとする勇気は、今の彼女には無い。
そうやって溜め息を吐いていると、外が騒がしいことに気付いた。扉の向こう、廊下を何人もの人間が走る音がする。エルシリアにはとても理解出来そうにないディレンセン語が早口で飛び交っていた。彼女が使えるディレンセン語は、最も一般的な挨拶と簡単な自己紹介ぐらいである。これから教えてもらう予定なので、それは致し方あるまい。それはともかく、どうしたものかと迷っていると、エルシリアの部屋にスタニスラフが飛び込んできた。かなり焦った様子である。
「どうしたのですか、スタン?」
優しく声をかけるエルシリア。そんな彼女に対し、少し待ってくれとでも言いたいのか、掌を向けて次の言葉を制するスタニスラフ。壁に手を付き、ふうふう言っている変わり者の王子を見ながら、彼が虚弱であることを改めて感じる王女だった。スタニスラフの方はようやく落ち着いたらしく、分厚い眼鏡を掛けた顔をエルシリアに向けた。額には汗が流れていた。エルシリアは不審に思い始める。
「あ、ああ、いえ……。ちょっと帝国内で非常事態が起こりまして……。貴女にはあまり関係ないかとは思ったんですが、安全面のこともあるし、一応報告をしておこうと……」
「あの、ですから、一体何が起きたのですか? 皆さん、やけに慌ただしいようですが」
困り顔で尋ねるエルシリアを前にしたスタニスラフの顔面は青かった。何が恐ろしいのか、肩が小刻みに震えている。
「そ、それがですね……。ラニアプルグの軍港と最大の海軍基地が……敵の攻撃を受けて、消滅したんです。影も形も残らずですよ? 僕はもう信じられなくて。しかも、その敵がダルバレスクに向かってるんです!」
「……その敵とは、一体何者なのでしょうか?」
そう問うた後にスタニスラフから返ってきた言葉が信じられなかった。エルシリアは震える唇を無理矢理動かして、再び尋ねた。もう一度、言ってはくれないかと。訝しげなスタニスラフが素直に同じ言葉を繰り返した。エルシリアにとっての、希望の言葉を。
「? ですから……尋常でないほど巨大な白い蛇ですよ。羽が生えていて、目は赤かったと報告には……」
スタニスラフの言葉を最後まで聞かないで、エルシリアは駆け出した。大窓の鍵を開け、誰もいないバルコニーに飛び出る。薄い寝巻きに夜風は少し冷たかったが、そんなことどうだっていい。部屋の中からスタニスラフが何かを叫んでいるが、そんなこともどうでもいい。姫君の意識はある一点だけに向けられていた。黒い夜空、銀光を放つ月の下、凄まじい速度で近付いてくる純白の神性だけに。何隻、いや何十隻もの飛行船が彼を襲うが、そのようなものは全て無意味だった。月を背後に、魔物はその白い羽を思い切り振るった。エルシリアのところにまで届きそうな、猛烈な冷風が巻き起こり、空を蹂躙する。まともに食らった飛行船の群れは隅から隅まで氷漬けになり、無力にも落下していった。
エルシリアはただただ見惚れていた。神、という表現が相応しい。そんな存在が自分を助けに来てくれた。そう思うと、目頭が熱くなった。まだ見捨てないでいてくれる人がいるのだ。そう思うと、とても嬉しかった。エルシリアとて、本当は辛くて、寂しかったのだから。
「――――ミズガルズ! 早く来てっ!」
力の限り、そう叫ぶ。届いたのだろうか。白銀の蛇神はあっという間に距離を詰めて、エルシリアの目の前までやって来た。鮮血の色をした双眸が彼女を見下ろした。鋭いのに優しい目だった。羽音だけが静かに響き渡った。
『……すまない、本当に長く待たせた』
「……もっと早いかと思ったのに」
エルシリアは笑いながら泣いた。姫君と世界蛇がようやっと再会を果たしたのは、銀色の月が輝く夜のことだった。




