王女の苦悩
バルタニア王国が北方のディレンセン帝国と軍事同盟を結んでから、半月ほどの日数が経った。国王アシエルは貴族や知識人たちで構成される議会を廃し、独裁の色を強め始めた。不平を言った者は秘密裏に処罰を受け、多くの有力者が失脚し、左遷や暗殺の対象となった。
国内有数の大貴族であったエルストンド家も例外でなく、当主のオリオルは以前から他国との協調外交路線を積極的に唱えていたことも災いし、王との対立は避けられなかった。また、一族を継ぐはずの嫡男、アレハンドロが都を強襲した魔物たちと関わりがあったという噂話や現在も行方不明であるといった事実も影響して、エルストンド家の立場は非常に危ういものとなり始めた。
そこに目をつけてきたのが、エルストンド家の長きに渡る政敵、同じく大貴族と呼ばれるトラショーラス家である。当主のフランシスコが画策した陰謀にはまり、エルストンド家の影響力は大きく下がってしまった。もはや、バルタニア王国内において、二大巨頭と囁かれたトラショーラス一族とエルストンド一族の拮抗した力関係は崩れ去り、政情は不穏なものと化した。
結果的に王に最も近い宰相の座を射止めたフランシスコ・トラショーラスを始めとした野心深い人間たちで周囲を固め、アシエルは強権的な政治を執っている。国中から兵士をかき集め、ディレンセン帝国から供給された銃器類の訓練の指示などをしているのだ。そこには明らかに侵略戦争を引き起こす意志が表れていた。
今や、ティルサでは早朝から兵士たちの射撃訓練が引き起こす銃声で朝が彩られ、市街を闊歩する警備兵の手にも帝国製の長銃が握られている。そのせいか、当初は銃という見慣れない武器に懐疑的だった王都の荒くれ者や犯罪者、チンピラたちも銃の威力を知るにつれ、大人しくなっていった。
たった一発の弾丸で容易に人命を奪い取る恐怖の武器を携えた兵隊の一団が見回る中、賑やかだったティルサは随分と静かになってしまった。誰も王には意見出来ず、周りの貴族たちも利益を得ようと、暴走を始めた王に擦り寄るばかり。今の王都にはぴりぴりとした空気が漂う。
◇◇◇◇◇
何もかもが変わってしまった。
逃亡に失敗し、城内の一室に軟禁されている第二王女、エルシリア・アルメンダリスは何度目かも分からない溜め息をついた。ベッド以外に何も無い部屋に閉じ込められてから何日が過ぎたのだろう。魔術師による結界のおかげで抜け出すことも出来ないまま、彼女は座り込む。
ここ最近に引き起こされた一連の出来事は全てが彼女の理解を超えていた。気付いた時には何もかもがおかしくなっていた。城内のありとあらゆる人間の言動が不可解なものになったのだ。ティルサを襲った魔王はエイトと名乗る青年だったはずなのに、誰もがその魔王に炎を纏う巨竜イグニスの名を挙げた。実際にエイトを目にしたダミアンや兵士たちもそう言うのだから、エルシリアにはすぐに事態がおかしいことが分かった。
だが、分かったところでどうしようもない。他に様子が変になっていなかったのは教師のサネルマと侍女のセレスティナだけであり、サネルマやイグニスたちと国外に逃げるのも失敗した。セレスティナに至っては逃走劇の果てに捕まった後、どこに連れて行かれたかも不明だ。エルシリアにはセレスティナの無事を祈り続けるしか、出来ることが無い。
刹那、部屋の扉が開いた。エルシリアは反射的に顔を上げる。彼女のエメラルドグリーンの瞳に映った人物、それはバルタニア王国を治めるアシエル王……エルシリアの実父であった。
「父上! これは一体、どういう……」
エルシリアは怒りに身を任せ、父に駆け寄ろうとしたものの、その場で硬直してしまった。父親の様子が普通ではないことに気付いたのだ。エルシリアは恐怖で全身の肌がぞっと総毛立つのを感じた。彼女の父親……王の目が人間のものではなくなっていた。その目は濁った橙色をしていた。
「クク、クククク……。悔しいですか、王女様。何が起きたのかも分からないまま、このように囚われるのは」
エルシリアは呆然として眼前の男を見つめていた。喉の渇きが激しい。脈打つ心臓の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。本能が、直感が警告を発していた。目の前のこの男はアシエルではない。一国の王でも、エルシリアの父親でもない。この男は違う。
「…………父上は、お前のような話し方はしない。誰だ、お前は……」
王の姿をした何者かはにやりと口角を曲げて、笑った。不気味で全身を粟立たせるような凄絶な笑みであった。エルシリアは思わず後ろに一歩下がった。
「私はアビスパス。この世界に存在する最も濃い闇の奥底から生まれた者ですよ。……私はね、長い間考えていたのです。最も効率良く、手軽に富や力を手にするにはどうしたら良いのか。同胞の魔物たちと組むのでは駄目なのですよ。いくら利口ぶった素振りをしていても、彼らの本性は所詮獣と同じ」
本来なら仲間であるはずの魔物たちを貶し、アビスパスはさも愉快そうに笑い続ける。
「大方の魔物は野蛮です。なまじ人間より能力が高いから傲り高ぶりやすいし、一つの軍団に纏めあげるのも面倒極まりない。…………だったら、人間を手駒として利用してしまえば良いのですよ。私のように、ね」
エルシリアは聰明な少女だ。そこまで語られた段階で、事態のほぼ全ての真相を把握し始めていた。きっと父上は乗っ取られてしまったのだろう、このアビスパスと言う魔物に。そして、城の皆の様子がおかしいのも、恐らくこいつのせいなのだ。
怒りと悔しさが王女の心を支配する。目の前の姑息で狡猾な魔物に対して、何も出来ないことが恨めしい。仮にこの場にナイフがあったとしても、エルシリアは魔物を刺せなかったろう。何せ、相手は彼女の父親の肉体を奪っているのだから。刃を突き刺したところで、死ぬのは王だけだ。
「……どうして、私の記憶を変えなかった?」
アビスパスはその問いかけに待っていましたとばかりに嬉しそうな顔をした。
「クククッ、全員が私の思い通りではつまらないじゃないですか。貴女のように無力だというのに無駄な抗いを見せる人間を残しておいた方が楽しい! 貴女の言うことは誰にも聞き入れて貰えず、信じて貰えない。絶望にうちひしがれる人間の姿を見ているとね、昂るのですよ……最高に」
「ふざけるな! 下衆め……!!」
辛抱堪らず、エルシリアは強い口調で吐き捨てた。エメラルドの双眸には燃え盛る火炎のような憤怒の色が見え隠れしていたが、アビスパスは気にも留めない。
「下衆で結構、結構……あぁ、そうそう。ところで哀れな王女様よ、貴女にはディレンセン帝国の王子に嫁いで貰いますよ」
脈絡無く放たれた一言に少女は目を見開いた。何を言われたか一瞬理解出来ず、驚きのあまり言葉が出て来ない。アビスパスはそんな彼女をニヤニヤと見ながら、楽しくて仕方がないといった風に話し出した。
「帝国との同盟を結ぶ際に王子の嫁となる者をこちらの王族から差し出せと言われたのですよ……。表向きは二国間の友好の象徴、本音は有事の際の人質ですかねぇ。どちらにせよ、貴女には行って貰おう。貴女が生み出す更なる絶望が私をまた酔わせてくれるのですから……」
言いたいことは全て言ったとばかりに、王の姿を奪い取った魔物はエルシリアに背を向ける。そして、そのまま何事も無かったかのように部屋を出た。王女に更に重い言葉を残していってから。
「行かないと仰られても無駄ですよ、王女様? 貴女が駄々をこねた時は、あのセレスティナとかいう侍女に死ぬよりも酷い目に遭って貰うつもりですからねぇ。彼女を大切に思うなら……行かないなんて、まさか言えませんよねぇ? クク、クククッ……」
扉が静かに閉まる。何も無い室内にエルシリアだけが取り残された。逃げ道などどこにも無い。誰も真実は知らないし、助けに来てくれない。じわりと悲しみが腹の奥から上ってくる。王女はいつものように強気ではいられなかった。まだ大人になりきれていない少女の啜り泣く声だけが響く。止まることを知らず、延々と、延々と。




