道しるべ
「……ここは?」
少年が目を覚ました時、そこは一面が白の世界だった。何も見当たらない。地平線の向こうまでずっと白が広がっている。まるで現実ではなく夢の中にいるような感覚だ。
銀髪の少年はゆっくりと立ち上がる。長い髪がさらさらと流れた。念入りに辺りを見渡したが、そこにはやはり何も無いようだった。このまま帰ることが出来なかったらどうしようか。そんな一抹の不安を抱きながらも歩き始めようとした時だった。少年の背後から声がかけられた。
『ほう。これは全く信じられないな……。お主、もしや白神鱗か?』
それは久しぶりに聞く名前だった。少年が人間だった頃の本名である。その名を知っている声の主は一体誰なのか。少年には見当がつかなかった。けれど、背中にかけられたその声をどこかで耳にした気がする。何だか無性に懐かしい声だ。
そっと振り返った銀髪の少年の視界には信じがたい人物がいた。いや、人と呼ぶのは不適切だろう。彼の背後に佇んでいたのは蛇だったのだから。それも半端な大きさの蛇などではなかった。上から少年を見下ろす頭も大きければ、身体の長さもとてつもないものだ。真っ白な身体には他の何色も混ざってはおらず、例えるならば新雪のよう。立派な角も同系色で、それはまさしく少し前までの少年の、いや蛇神の姿であった。
「あなたは……ミズガルズ……俺をこの世界に送った……」
大蛇が笑った。精神的に不安定な今、彼の笑い声を聞くと、何故だか少年は安心することが出来た。理由は分からない。とにかく不思議な気持ちだった。
『その名はもうお主のものだ、鱗よ。我が直々に譲ったのだから。……ところで、だいぶ疲れた顔をしているな。ここがどこかもよく分からぬが……とりあえず話してみるといい』
落ち着きの感じられる低い声に促されるまま、少年は半ば詰まったものを吐き出すようにして喋り始めた。
◇◇◇◇◇
一国の姫と懇意になったこと、イグニスやリューディアといった竜と知り合ったこと、それに加えて人間にも仲間が出来たことなどを少年は次々と話した。魔界に渡り、女神から力と永遠の命を授かった後に魔王を倒したことまで話し終わると、それまで黙って聞いていた白い大蛇がようやく口を開いた。
『そうか……かなり苦労したようだな、鱗。それに永遠の生がお主にとって苦痛だったとは我も考えていなかった。……お主には結果的に悪いことをしてしまったのかもしれん』
少年が何も言えないでいると、大蛇は辺りをぐるりと見回して呟いた。話題を逸らそうとしているようにも見えた。
『……ところで、ここは摩訶不思議な場所であるな。死者と一度だけ会える鏡の中とは。女神……世界を管理する者の存在など、我は信じていなかったのだがな。本当にそのような存在がいたとは』
「俺も、そう思うよ。もう一度あなたと話せるなんて今も信じられない」
ぽつりと言った少年を大蛇が黙って見つめた。わざわざ頭を低い位置まで持ってきて、そして一言。
『……鱗。すまなかった。我も結局、お主に重荷を押し付けたのだな』
恨んでいるだろう?
謝罪の後に続いた沈黙がそう言っているかのようで、少年は苦しかった。大蛇は、ミズガルズは何も悪くないのだ。なのにどうして謝るのか。彼は何一つ悪くない。異世界に渡ったことも、蛇神に生まれ変わったことも、更には女神の後を引き継いで不死になったことも、全て少年が自分で選んだ結果なのだから。
どこにも恨みを抱く理由など無いのだ。それはお門違いですらあった。確かに色々なものを犠牲にしたのかもしれない。永遠を手にするということはそういうことだ。けれど、得たものだって沢山あった。そしてそれらは異世界に渡らなければ一生知らないままだったかもしれない。白い大蛇は切っ掛けを与えてくれたのだ。あの夏の日の邂逅が無かったら、今も少年は死んだような生活を送っていただろう。だから恨むことなど出来ない。抱いているのは寧ろ感謝の念だけだ。
「謝る必要なんて無いよ。あなたのおかげで色んなことを知った」
笑いかける少年の姿を見て、大蛇は頷いた。
『……うむ。ならばもう謝るのは止そう。……だがな、鱗。お主、まだ迷っているようだ。どうせ、これっきりなのだ。良ければ我に打ち明けてみないか?』
少年は思わず苦笑を漏らした。どうやら大蛇には全てが見抜かれているらしい。最後まで隠し通そうかと思っていたが無駄だったようだ。さすがは長く生きているだけのことはあるなと彼は感じた。
じっと待っている大蛇のすぐ目の前に腰を下ろして、少年は口を開き、話し始めた。相変わらず男にしてはやや高い声で。
「分からないんだ……この先どうしたら良いのか。何だか全てやり終えてしまったみたいな気持ちなんだ。これからどうやって生きていこうかと思うと……何も分からなくなる」
それが少年の、鱗の率直な気持ちであった。本当にどうしたら良いのか見当もつかないのだ。彼は生まれた世界を憂い、異世界に導かれて、ふらふらと流されるままに毎日を生き抜いてきた。いつの間にやら不死の身となり、女神を食らって魔王を倒した。それで確かに目的を達成したかのような気分にはなった。だけど、その後のことが未だに分からない。生きるための目標や信念といったものが見つけられない。どこにも見当たらないのだ。
見渡す限り全てが白で覆われた世界。その中で少年は迷い、半ば途方に暮れる。自然と漏れ出る重い溜め息。彼は明らかに立ち止まっていた。順調に道を進めなくなっていた。そうやってうつむいていた少年にようやく声がかかった。
『お主の気持ちは……痛いほど分かる。だが、自分を見失うなよ、鱗。我々はヒトではないが……人間が道を踏み外して邪悪に染まるのは、大抵が己を見失った時だ。我々にも同じことが言える』
少年は黙って大蛇の言葉を聞き続ける。今を逃したら一生彼から助言を得ることは叶わない。そう知っていたから。
『お主には無限の時間が約束されている。だから焦らず……ゆっくりと物事を熟考するが良い。早まったところで最適な解決法は生まれぬ。何を守りたいのか、何をするべきなのか、その都度初心に戻れ』
あぁ、そうそう。時には長い間眠ってみるのも良いぞ。起きた時には頭がすっきりしているはずだ。もちろん寝坊助が過ぎると、世界の状況もまるっきり変わったものになってしまっているだろうが。
冗談めかして付け加えた後、白い大蛇は陽気に笑い声を上げた。つられて少年も小さく笑ってしまう。何とも不思議な、それでいて愉快な時間だった。少年は自分はこういう時間と触れ合いを求めていたのだと、その時やっと実感した。
しばらくの間、少年と大蛇は他愛ない会話を楽しんだ。経験豊富な大蛇が様々なことを語り、少年は時に笑い、時に悲しそうな顔をした。そこは二人だけの空間だった。そこには時間が流れていなかった。このままずっと二人でいたい。帰りたくない。少年がそう感じ始めた時だった。
ガラスが割れたような高音が響き渡った。何も無い真っ白な世界に亀裂が入る。それはどんどん大きくなり、世界は次第に壊れていく。戸惑う少年とは対照的に大蛇はだいぶ冷静であった。
『む……。どうやら、もう時間切れらしいな。鱗、別れの時がやって来たようだ』
言われなくとも分かっていた。それが分からない程、馬鹿な少年ではない。けれど、心中では認めたくなかった。これで終わりだなんて。もう会えないだなんて嫌だった。
『……まずは仲間たちのところへ戻ると良い。忘れるな、強い力を有していても一人で生きていくことなど出来ん。守りたいものを持たない輩は本当の強者ではないからな。……まぁ、我に出来る助言は大方お主に伝えた。後はお主が永遠の命に絶望しないことを祈ろう……』
名残惜しそうに言いながらも、赤眼の大蛇は身体をくねらせ、崩壊しつつある世界の向こう側へと消え行こうとする。長大な体躯が少しの凹凸も見当たらない地面を滑っていく。もう振り返ってくれない。永遠の別れであることを彼は態度で示していた。でも、このまま何も言わずに今生の別れとなるのは……あまりに口惜しい。
「待ってくれっ!」
蛇神は立ち止まり、そして顔を少年へと向けた。
「……なぁ。俺たち、またどこかで出会えるかな……?」
やや沈黙を保った後、大蛇は静かに言の葉を紡ぎ始めた。
『我が精神体をお主の世界に飛ばしたことからも分かるように……世界はただ一つのものが存在するわけではない。異なった時間の流れの中で無数の世界が在るのだ』
それは何とも壮大な話だった。相手が気の遠くなるくらい長寿の大蛇でなかったら、少年は信じられなかったかもしれない。
『我も詳しくは知らぬが……死者の魂はしばらく時空をさ迷い、やがてどこか別の世界で何かに生まれ変わると言われている。だから、そうだな……その可能性は決して零ではない。……我もお主とはまたいつか会いたいしな』
「……約束だぜ。いつか絶対、もう一度会おう」
言い終わるのを待っていたかのように世界の崩壊の勢いが強くなった。がらがらと景色が崩れ落ち、純白に煌めく破片の数々で視界は明るくなる。眩しい白光の中、偉大な大蛇のシルエットが薄れていく。
『……さらばだ、少年よ。また会う日までお主がお主のままでいることを願っている。……あぁ、それから』
堪えきれず目尻に涙を浮かべた鱗。そんな彼に蛇神は優しく囁いた。
『お主の名はミズガルズだ。それを誇り、忘れるな。我はお主に己の名を与えたことを微塵も後悔しておらん。……そのことを胸の奥によく刻んでおいてくれ……』
白い大蛇が片方の眼を閉じ、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。その時の彼は笑っていた。そんな気がした。そして、それはきっと錯覚ではあるまい。
さらばだ。もう一度その言葉を聞いてから、世界は反転した。少年も大蛇も何処へと消えた。
◇◇◇◇◇
背中に冷たい石の感触を覚え、ミズガルズは身体を起こした。銀色の長髪が指に絡み付く。周りを見れば、側にはあの一枚鏡があった。その反対側には耳の長い桃色の猫が座っている。
「お帰りなさいませ。どうでしたか。答えは見つかりましたか?」
ミズガルズはふっと笑った。
「答えかどうかは分からない。ただ、何よりも大切な道しるべを貰ってきたんだ」
「なるほど、なら安心です。では、最初は何をいたしましょうか?」
考える必要も無い。ミズガルズにとってまずやるべきことは一つだけだ。
「……地上に降りたいんだ。仲間に会いに行く」
唐突なミズガルズの一言にも、フィーロスはまるで動じなかった。数回ぱちぱちとまばたきをしたのみで、わかりましたと了承の返事を返した。猫の後についていく少年の心はさっきまでとは違い、実に晴れ晴れとしていた。
◇◇◇◇◇
時を同じくして天空の神殿から遥か遠くのバルタニア王国。首都ティルサは夜の闇に包まれていた。時刻は深夜。日付などとうに変わっている。
傷付いた王国を本当の意味で闇に包もうとしている者がそこにはいた。王城の薄暗い廊下を歩き続け、かの者は王都全域を見下ろすバルコニーに出た。誰もが眠りにつく中、その者は声高に叫んだ。
「偽物の記憶! 憎しみの闇で心を塗り替えて差し上げましょう! さあ、演じるが良い! 哀れな賤民どもは操り人形の役を。王女は悲劇の姫君の役を。炎の竜は邪なる侵略者の役を。そして、このわたくしには勇壮なる君王の役を! ここからが始まりなのですっ! ククク、アハハハハハハハハ!!」
その瞬間、悍ましい魔物の手で洗脳の大魔術がティルサ全域にかけられた。これを免れ得る者は一部の強い精神を持った人間、運良く街を離れていた者、強大な魔物たち、そして術者により意図的に術をかけられなかった者だけであろう。
王の姿をしたアビスパスが城内に戻った数時間後のことだ。夜が明けてから、バルタニア王国より世界中の強国に向けて、ある声明が発せられた。
……此度、バルタニア及び西のオキディニス大陸を襲った魔物の軍勢は大方は片付いたものである。しかし世界各地に残党及び協力者の集団が飛散したため、各国首脳には警告並びに該当者どもの討伐の勧めを発したい。エルフ、妖精、竜族、亜人などがその主なるものである。
仮に諸君らが同意せずとも、我が国は二度とこのような悲劇を繰り返さないために攻撃を防ぐべく軍備の拡張を宣言する。また我が国は今後一切、亜人を始めとする人間ならざる者の入国を認めない。更に加えて、この襲撃によって首都が壊滅した上、半ば無政府状態と化した隣国ザラフェに治安維持を主な目的とする軍隊を派遣し、我が国の管理下に置くとする。
上記に列挙した決定の全ては、王家、議会、国民、つまりはバルタニア王国の総意としてここに確定されたものと宣言する。
バルタニア王国現国王 アシエル・アルメンダリス十四世。




