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天上の神殿

 天空に浮かぶ島、誰も知らないその場所で銀色に輝く蛇の神が目を覚ました。鎌首をもたげ、彼は緩慢な動作で周囲を見渡した。吹きすさぶ夜風は冷たい。時折、ひゅるる、ひゅるると冷風が音を鳴らした。聞こえてくる音といったらそれぐらいだけだ。他は全くの無音で、虫の歌声も鳥のさえずりも無い。そこには彼の他に誰もいなかった。

 込み上げる寂しさを振り払いたかったのだろうか。蛇の神は深い黒紫色に染められた虚空に向かい、大きく哭いた。シューッと鋭い噴気音が響き渡る。しかし、やがてそれも無音の世界に吸い込まれていく。応えてくれる者はいないのだ。

 これが一人になるということか。ミズガルズは涙を流すことも出来ないまま、ぼんやりとそんなことを思った。何かをしようとも思えず、彼はただ頭上の空を見つめた。見渡す限り、遥か彼方の果てまで広がるのは星という宝石を無数に抱いた夜の空だ。うっかりすると時を忘れて永遠に見惚れてしまいそうな程、美しい光景だった。

 雲海の上には空が広がるだけだ。だから、夜空の絶景を損なうようなものは何も無い。一つ一つが眩しく煌めく星の輝きが最大限に発揮され、青白い月光も少しも弱まること無く天上の島に降り注いでいた。これこそが絶景中の絶景。それは、まさしく神となった者だけにしか目にすることの出来ない世界だった。


『けど、これを見ることが出来たからといって……一体何になるっていうんだ』


 蛇神の呟きに答えを返してくれる者もやはりいない。彼は今、正真正銘の孤独だった。人間であった頃なら一人きりでも別に構わなかったし、そうであることに痛みや喪失感を覚えることなど無かったのに。どうして今はそうでなくなってしまったのか。何故変わってしまったのか。こうなるのだったら、あるいはずっと一人ぼっちでいる方が良かった。


(……俺はどこに行けば良いんだろう)


 ふらふらとさ迷うように、ミズガルズは星空の下で巨大な体躯を滑らせていった。



◇◇◇◇◇



 下界へ降りる道を探していたと言っても良い。当てもなく天空の島をさ迷っていたミズガルズの目の前に突如として巨大な建造物が現れた。神殿、というのが最も適しているだろうか。横幅も十分広いが、奥行きに至っては計り知れないほどの大きな建物だった。外見はかつて昔写真で見たことのあるギリシャのパルテノン神殿を彷彿とさせるものだった。夜闇に浮かぶ乳白色は微かに輝き、美しかった。

 白一色の壁の中にぽっかりと黒が浮かんでいた。入口が開け放たれているのだ。まるで早く入って来いとでも言いたいかのように。ミズガルズは立ち止まり、少し考えてから人間の姿に化けた。夜風に素肌を撫でられて寒かったので、意識を集中させて衣服のイメージを構築していく。目を開いた時には少年の小さな身体を銀色が覆っていた。それはゆったりとした浴衣のような衣服で、銀色の地に紫と青の複雑な曲線が走り、まるで日に当たった時の蛇の鱗のようにキラキラと煌めきを放っていた。


「これは凄いな……」


 少年は己の姿をまじまじと見る。宿る力が飛躍的に増えたせいなのか、今まで出来なかったことが簡単にこなせるようになったようだった。これなら好きな時に好きな姿になることも出来る。そう思うと彼は嬉しさを覚えたが、同時にこうして得た力は永遠の孤独という代償と引き換えに手に入れたと考えると、やはり辛かった。


(でも。もう立ち止まるのは無しだ)


 心に改めて刻み込み、少年は足を一歩踏み出した。神殿の入口に誘い込まれるように入って行く。暗い、真っ暗で何も見えない。そう感じた束の間、何の予兆も無く明かりが点いた。一つの燭台に火が灯ると、それを皮切りにして次から次へと燭台の蝋燭に炎が灯された。たちまち神殿の内部は明るく照らされ、全景も明らかになる。

 床には柔らかな赤絨毯が敷かれており、純白の壁に無数の宝石が埋め込まれていた。一目で高級と分かる額縁に収められた絵画は一枚一枚が繊細で鮮やかだった。しかもよく見れば、描かれた風景の一つ一つが動いていた。風に吹かれて木の葉が揺れていたり、滝の水が絶えず流れていたのだ。極めつけには少しずつ色の変わる夕焼け空を背景に、大きな竜が飛翔しているものさえもあった。例えるならば、実際にあった風景を切り取って額縁の内側に閉じ込めたといった風だった。


 ひとしきり不思議な絵画の数々を眺めた後、ミズガルズは広大な神殿の内部をくまなく歩き回った。その様子はさながら夢遊病患者のようで、時折ふらついたりと足元は覚束ない。

 少年は銀髪を揺らしながら様々な部屋に入った。迷宮のような神殿には一人で使うとしたら広すぎる食卓や豪勢に飾り付けられた寝室、鎮座する寝台、公衆の大浴場かと見紛う程の浴室があった。他にも無数の本がぎっしりと並んだ書斎、眩しさで思わず目を覆いたくなってしまうくらいの財宝の数々など、ありとあらゆるものがそこには存在した。唯一足りないものは住人だけだ。この立派な神殿には主が見当たらなかった。

 ここに誰が住んでいたのだろうか。そうして考えれば、疑問と同時に解答もすぐに頭の奥に浮かんだ。ここまで来て分からないはずがなかった。こんな場所にいたのは女神と呼ばれたアレティしかいないに決まっている。この天上の神殿は女神の住まうところだったのだ。


(……じゃあ、次の主は俺になるってことなのか……?)


 実に複雑な気分のまま歩いていると、いつの間にかある部屋に立っていた。それまでとは違い、燭台には青い炎が灯っていた。薄い灰色の石で出来た壁に揺らめく影。どこか神秘的な雰囲気を感じさせる、奇妙な小部屋だ。最も目を引くのが、狭い室内の中央に佇む巨大な一枚鏡。その形状は部屋の扉のようでもある。


「どうやら、あなた様が新しいご主人様のようで」


 まさに鏡の表面に手を触れようとした時だった。突然背後から聞こえてきた声に、ミズガルズは文字通り飛び上がった。ばくばくと鳴る胸を押さえつつ、素早く身体を捻って振り返る。もちろん攻撃態勢は出来ていた。襲いかかって来るなら、すぐにでも氷漬けにしてやるつもりだったのだが。


「……落ち着いてください。私は敵ではありませんよ」


 拍子抜けだった。そこに座っていたのは小さな猫だ。淡い桃色という変わった毛色で、耳は猫と言うより兎のように長い。風変わりな生き物だった。


「申し遅れました。私はフィーロス。女神によって創造された生命体で、誰もいなくなったこの場所を守っていた者です。……ですが守護者の役目も今日で終わりかと」


 乾いた唇を舌で湿らせて、ミズガルズが尋ねた。


「それは、俺が来たからか……?」


 フィーロスと名乗った猫は深く頷いた。丁寧な口調で彼女は再び話を進めていく。


「左様です。この十年程、女神は不在でしたが、彼女の後継となったあなた様にこれからは仕えていきます。神殿の守護者は今からあなた様です。お見知り置きを、新たなる神よ」


 表情を変えない猫に向かって、ミズガルズは他に誰かいないのかと聞いた。問いには期待が込められていたが、返ってきた答えは素っ気なかった。誰もいない、その一言である。


「……それで、お前は寂しくないのか……?」


「私は創られたモノであるため、感情の起伏があまり無いのです。ですから、そういった実感も特に存在しません」


 冷たい言葉を受けて、ミズガルズは落胆した。首を振り、軽く俯く。そんな彼の様子を見たフィーロスが口を開いた。


「……ですが、流石に十数年も放って置かれると、いくら私でも退屈は感じます。少しはあなた様の気持ちも分かる。……察する限りあなた様は悩んでおられるようだ。一つ、私から助言をさせていただきます。」


 戸惑うミズガルズの横を抜けて、フィーロスは一枚鏡の前にちょこんと座る。丸い紫色の瞳がミズガルズへ向けられた。桃色の猫は静かに言の葉を紡いでいく。


「この鏡を使えば、あなた様が今最も必要としている故人に会うことが出来ます。亡くなった者から貴重な話を授かることも出来る。……ただし、一度会った者には二度と会えません。死者と再会出来るのは一回限りです」


 何も考えずに触れるだけで良いのです。落ち着き払った声音で猫が言う。ミズガルズの心は高鳴った。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。この鏡の中に望む解答はあるのだろうか。一体誰が現れるのだろうか。

 答えを知りたくて、この先に進みたくて、ミズガルズはそっと鏡の表面に片手を触れた。向こう側へと吸い込まれる。あまりにも眩しい光が溢れだし、ミズガルズの視界の全てを飲み込んだ。世界は反転し、少年の意識はどこかへ溶けて消え去った。

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