異変の芽吹き
バルタニアの王都、ティルサに平穏が戻った翌日の夜。太陽は隠れ、星の群れと白い月が夜闇を照らす頃になっても、街のあちこちからは木槌を打つ音や、人々の喧騒が聞こえていた。住民総出で破壊された街の修繕に取りかかっているのだ。まだまだ王都は眠らない。愛する街の為に誰もが懸命だった。
街の喧騒から離れた、細い路地の奥。そこにひっそりと一軒の宿屋が建っていた。店名は『隠れ家亭』。その名の通り、容易に見つからない場所にある。
宿泊する者の数は普段から少ないが、ここ何日かの間はずっと、ある一行が貸し切っていた。ひょんなことから宿主のアンディ、アンジェラ親子と懇意になった、炎竜イグニスたちである。街が必然的に騒がしくなっている今、この宿屋は彼らにとって唯一落ち着ける空間だった。
疲労のためか、ベッドに潜り込んでからすぐに寝息を立て始めてしまった水竜のリューディアと淫魔のリリアーヌ。そんな幼い二人の寝顔を静かに見守る者がいた。美しく艶やかな黒い長髪を伸ばした、金色の瞳の女だ。程よく焼けた薄い小麦色の肌が健康的であった。
魅惑的な美貌を持った彼女はしばらくの間、少女たちを見つめていたが、やがて立ち上がり、扉の取っ手に手を掛けて、音も立てずに部屋を出た。
扉を開けた先、狭い廊下の壁に寄りかかる男が一人。鮮やかな真紅の髪、そして美女と同じ金色の双眸。勇猛と知られる炎の竜、イグニスだ。
「やぁ、フェリル」
イグニスが呼んだ名は、今は滅びた魔狼族のかつての女王のもの。薄闇に溶け込むような美女が微かに微笑んだ。
「イグニス殿。貴方も寝つけないのか?」
「……うん、そんなところかな」
短い沈黙が過ぎた後、イグニスが外を見てみないかと言った。フェリルは小さく頷き、彼の提案に乗った。寝息を立てる水竜と淫魔の少女たちが目を覚ます様子はまだなかった。
◇◇◇◇◇
隠れ家亭を出ると、何とも言えない生暖かい夜風が吹いていた。イグニスとフェリルの肌を舐めるようにして、どこかへ吹き抜けていく。やけに生ぬるくて、少し不気味にすら思えるほどだ。
この宿屋の周辺はあまり被害を受けなかったのか、それとも住民たちが修復よりも睡眠を優先したのか分からないが、その細い路地には赤髪の青年と黒髪の女の姿しかなかった。他には誰もいない。犬や猫、鼠でさえも出歩いてはいないようだった。まるで強大な魔物に怯え、隠れているかのように。
「見なよ。今夜は月が綺麗だ。月が出ている夜空を飛ぶのは最高の贅沢だと思うんだよ。……そうだ。今度、フェリルも乗ってみるかい?」
見事な満月を見つめるイグニス。その横顔は何故か寂しそうだ。そして、そう見える理由をフェリルは知っていた。炎の竜を落ち込ませている原因を。
ここにいなくてはならないのに、どこにもいない相棒のことを思い出しているのだろう。戦いの最中、世界を守るためにどこかへと消え、未だに戻って来ないミズガルズのことだ。一体彼がどうなってしまったのか、フェリルに知る由もない。イグニスも同じだ。
フェリルは何も答えない。ただ月を眺めるだけだ。白く輝く月はまるでティルサを見守っているかのようだった。ぼんやりとした月光は神秘的だった。
「……きっと、きっと帰って来る」
誰が、とは言わなかった。そんなことは言わなくても分かっているからだ。わざわざ口に出さなくたって良い。その必要はどこにもない。
「あぁ。その通りだな。いずれまた……」
どこかで会える。炎の竜は白銀の月に向かい、そっと笑った。
◇◇◇◇◇
月明かりが街を照らしていた。まだ起きている人も多い中、王城では一人の男が寝室へ向かっていた。がっしりとした体格、厳めしい顔つきに濃い口髭と顎髭が目立つ。そして、頭には金と宝石で彩られた王冠が。
彼はバルタニアの現国王アシエルである。そしてエルシリアの父親だ。国民思いで優しく、聡明な統治者で、沢山の人々から親しまれている。
「今日もご苦労様。私はそろそろ眠る」
「あ……国王様。とんでもございません。ごゆっくりお休みください」
寝室の前に立つ衛兵に声をかけてから扉を開けた。その先は無駄に豪華な部屋だ。主な用途といったら眠ることだけだというのに、隅から隅まで美しく飾り付けられている。アシエルが我ながらも苦笑したその時だった。室内から低く不気味な笑い声が聞こえた。
「誰かいるのか!?」
思わず身構え、強く叫ぶ。だが、外の衛兵が異変を聞き付けて扉を開ける様子はなかった。聞こえていないのだろうか。どうもおかしい。
暗闇を睨み付けていたアシエルの正面、そこにぶわぁっと何者かが現れた。毒々しい濃い赤紫のローブを身に纏った怪人であった。背丈はアシエルよりも遥かに高く、天井すれすれである。肌は艶の無い深緑色で、瞳の無い濁った目は橙色だ。鼻が異常に高く、耳も尖っている。輪郭の不定形な身体のあちこちからは紫色の煙が吹き出し渦巻いていて、どう見ても人間とは思えない。それは明らかに魔の者だった。
『クク、ククク……。初めまして、国王陛下……。わたくしはアビスパス……闇の深淵に潜む者……』
耳から脳内にまるで染み込んでくるような不快な声だ。王は強い恐怖を感じたが、威厳を捨てまいと踏ん張った。強い眼光を宿した目で、アビスパスと名乗った化け物を睨む。
「……ふん。わざわざ自己紹介有難う。早速だが、聞かせて貰おう。王の寝室に何の用だ? 貴様の目的は何なのだ、この命か?」
クククと怪人は笑った。やはり頭の中で静かに反響を繰り返すような気色の悪い声音である。
『あなたの命ですか……。いえぇ、少し違いますね……。わたくしが欲しているのは……あなたの……』
全てですね。そう言った瞬間、不気味な魔物アビスパスの姿が一瞬で掻き消えてしまった。当然面食らったアシエルの口から何かが彼の体へと侵入していく。まるで、煙のようだった。アシエルはもちろん抵抗を試みたものの、霧のような相手を掴むことは出来なかった。そして、脳内にがんがんと響く魔物の笑い声を聞きながら、バルタニアを治める賢王は意識を手放した。
◇◇◇◇◇
どれだけの時間が経ったのかは定かでない。ティルサを照らしているのは見事な満月だけだ。他に明かりは無い。人々の声は完全に静まり、王都は完全に眠りについていた。
真夜中の闇の中でも存在感を失うことがない城においても、一部の兵士以外は夢を見ている時間だ。誰しもがベッドの上で安らぎに浸る中、国王を務める男が寝床から身体を起こした。威厳溢れる空気を纏った精悍な彼の名はアシエルである。しかし、外見はもちろん彼本人のものだが、その中身は既に……彼ではなかった。今や王は別の者に支配されていた。
「クク、クク、クククク……。やはり、あの黒髪の小僧に付いて行って正解でしたね……。どうやら奴も滅んだ……ようですし……」
濁った瞳をぎらつかせながら、アシエルは……いや闇から生まれた魔物は低く笑う。地位も権力も、それに財力までも手に入れた。国王というのは最高の立場だ。使える部下の数も多いし、国際的な影響力も十分にある。
「……それにしても、まさかここまで物事が上手く運ぶとは……。この先が楽しみですよ……ククッ」
邪悪な存在は動き始めていた。これはほんの始まりに過ぎない。更なる異変の種が確実に芽吹いた瞬間だった。




