急襲は呆気なく
どれだけ眠っていたのだろう。ミズガルズが目を覚ました時、四人の仲間たちは未だに夢の中にいるようだった。よほど疲れているのか、試しに揺さぶっても目を覚ましそうにない。
一度はっきりと目が覚めてしまったら、再び寝付くのは難しかった。ミズガルズは鼻を鳴らし、やむなく起き上がる。服の乱れを直して、仲間たちを起こさないように静かに部屋を後にした。
船を歩き回る前に、自分たちの部屋の番号を確認しておく。111号室だった。綺麗なぞろ目で覚えやすいことに彼は安堵した。それから薄暗く、長い廊下を歩き続けた。いくつもの他の部屋の前を通ったが、誰も起きて来ない。皆、寝ているのだろう。
月明かりに照らされた甲板に出る。星たちが少年を見つめる。止むことのない夜風が甲板に吹き続けていた。
この世界は星の眺めが綺麗だ。夜空を見上げたミズガルズはそう感じた。人口の光が多いと、星の輝きが損なわれる。昔、どこかでそんなことを聞いた。それは確かに一理あるかもしれない。現に月明かりしか存在しないこの夜は、思わず見とれるほどに美しい。
波は穏やかで、船酔いの心配は無さそうだ。ミズガルズは船の縁に手を掛ける。乗り出すようにして下を覗き込むと、黒い海が見えた。巨大な船体が波間を掻き分ける度に、絶えず白い泡が生まれては消えていく。
「ミズガルズ様、何を見てるんですか」
少年はゆるりと振り返る。声の主は少し離れた所に佇んでいた。夜の闇色に眩しい水色の髪が浮かぶ。
「ただ、海を見てただけだよ」
少年が答えると、リューディアは彼の隣にやって来た。船縁に両手を掛けて、一身に潮風を浴びている。水の匂いに慣れ親しんでいるからか、リューディアはとても気持ち良さそうだ。
今夜は星が綺麗だね……そう、ミズガルズは言おうとした。しかし、その直後。夜空の下に轟いたのは少年の呟きではなく、凄まじい砲撃音だった。
船が大きく、激しく揺さぶられる。二人の思考も揺さぶられ、回復するまでに数秒の時間を要した。リューディアが思わず甲板に尻餅を付いたことで、やっと二人は思考を取り戻す。
連絡船からやや離れた海上に一隻の帆船が見える。かなり大きい。そして、唯一にして最大の問題は、その船が黒地にドクロの旗を掲げていることだった。そんな旗を掲げる船乗りたちと言ったら、答えは一つしかない。
「海賊だ……!」
ミズガルズが呻いたと同時に、再び連絡船を衝撃が襲った。砲弾を撃ち込まれたらしい。船の側面が大きく破損し、細かな木屑が中空に飛び散った。足元のおぼつかない少年はリューディアと手を繋ぐ。二人はその格好のまま、甲板に座り込んだ。
次第に海賊船が近付いてきた。撃ち込まれる砲弾の数も増え、ならず者たちの雄叫びが聞こえ始めてきた。連絡船の乗客や船員たちもちらほらと飛び起きてくる。
この船に、大型の海賊船と戦える力は無いだろう。連絡船に乗るのは大半が無力な一般人たちだ。船員たちは海賊に対する警戒感から、多少の武器を手にしているが常客に同じものを求めても無理だろう。その時、リューディアから意外な一言が飛び出した。
「ミズガルズ様、ここは私に任せていただけませんか?」
「え……?」
返事を聞くよりも早くリューディアは立ち上がり、海賊たちの方を鋭く睨み付けた。膨大な魔力が彼女の小さな身体からじわじわと沸き上がるのがミズガルズにははっきりと感じられた。
リューディアが右腕を振り上げ、甲高い声で高らかに呪文を叫んだ。立ち上がって海賊船の方を見ていたミズガルズの視界に、驚くべきものが現れる。
水の竜だ。水で造られた竜が現れたのだ。海が盛り上がり、海水が竜を形作る。うねる水の柱は、恐らくリューディア自身を模しているのだろう。
銃声を鳴らし始めた海賊たちの奮闘も虚しく、竜は彼らの船に襲い掛かった。水の竜には剣も銃弾も効かない。真っ黒い帆を突き抜け、マストを折る。力を誇示するかのように張られた帆は穴が空き、多分これから先に役立つことはないだろう。海が荒れ始め、幾つもの大波が海賊船を襲った。次第に船体が斜めに傾き始めた。
獲物の近くまで来たと思ったら、この有様。海賊たちは大きな混乱に襲われた。彼らとて海の上で暮らす男たちだ。荒れた海や、魔物を相手に戦ったことは何回もある。けれど、意思を持ったように動き回る水と戦ったことなんかない。
甲板の上を好き勝手に蹂躙され、大事な旗や帆は破られ、マストに至っては根元から折られた。不規則な波のせいで舵も上手く切れない。船体は傾き、酒樽やら何やらが船の片側へと転がっていく。それがまたまずかった。船の一方に荷が集中することで海賊船のバランスはどんどん悪くなる。
船長の指示は届かない。何人もの乗組員たちが夜の海に飛び込んでいく。船と仲間を見捨てたのだ。当然船長は憤慨するが、彼が声を荒げたところでどうにかなるものではない。
苛立った船長が大声で悪態をついた。それが合図であったかのように、リューディアが操る波が一際大きくなった。大波は傾きつつある海賊船を横から殴り付け、遂にその船体を転覆させた。
「か、海賊の船が沈んだぞぉ!!」
連絡船の乗員たちが歓声を上げた。船内に逃げ込んでいた者たちも次々と飛び出して来ては、そこら中で小躍りしている。
「久し振りだったから、疲れました……」
相変わらずの敬語口調で、リューディアは言った。幼子らしく、無邪気に笑っている。疲れたという言葉は本当なのだろう。彼女の額には微かに汗の玉が浮いていた。
フラフラとした足取りで、少女はミズガルズにもたれ掛かった。結構な無茶をしたに違いない。吐く息は荒く、頬は上気していた。小さな少女のはずなのに、その表情がどうも色っぽいものに見えてしまう。確かにリューディアは綺麗だが、まだ幼い。本来なら、こんな目で見てはいけないのに……。ミズガルズは内心どぎまぎしている自分を蹴りつけたかった。
「大丈夫か、リューディア?」
大丈夫じゃないことは分かり切っていたが、平静を装うために聞いてみた。何とかと小さな返事が返される。今更だが、リューディアは声も可愛かった。美少女は声すらも優れているらしい。天は二物を与えず、というのは嘘じゃないか?と少年は疑念を抱いた。
「リューディア。あれ、本気でやった?」
少女はゆるゆると首を横に振った。違うみたいだ。まだまだ本気でなかったということにミズガルズは舌を巻く思いだった。遠目から見てもあんなに凄かったのに……。
小さくあくびをするリューディア。こんな幼い身体のどこに、あのような力が秘められているのだろう。ミズガルズはちょっとだけわくわくした。あれで本気ではないと言うのなら。まだまだ成長過程にあると言うのなら。それなら完全に成長した時、リューディアはどれだけ強力な竜になっているのだろう。少年には想像もつかなかった。
蛇神ミズガルズと炎竜イグニス、そして可能性は無限大の若き水竜。三頭の強大な魔物を引き連れ、おまけにベテランの冒険者に身を守ってもらっているアレハンドロは多分、何が起こっても安全だろう。恐らく今現在この世界の中で、最も安心出来る護衛たちに囲まれているのだから。それは真っ暗な海で溺れかけている海賊の残党たちを見れば、嫌でも分かることだ。
「……お疲れ、リューディア」
眠たそうに腕で目元をこする少女に、少年は優しく労いの言葉を掛けたのだった。




