第51話 センター
一九九七年の四月、詰め襟の制服を着た。
袖が長かった。指の先がようやく出るくらいだ。
「三年で合うように、大きめにしたんですよ」
母は玄関の前でカメラを構えていた。
「はい、こっちを向いてください」
一枚。
「もう一枚」
二枚。
「今度は腕を伸ばさないでくださいね」
三枚。腕を伸ばさないと、手が完全に隠れる。
母はそれも撮りたいらしい。今しか撮れない長さなのだそうだ。
五枚目で父が玄関の奥から声をかけた。
「遅れるぞ」
「あと一枚だけですよ。手が出てないの、可愛いですねえ」
父も結局、写真に入れられた。ネクタイは曲がったままだった。
あさひ台中学は小学校の坂を上って、さらにその先にある。
校門のところで千夏が待っていた。
紺のセーラー服で、こちらも袖が長い。
千夏は俺の袖を見て笑った。
「袖、手が出てない」
「そっちもだ」
「あたしのは、ちょっと出てる」
確かにちょっと出ていた。
昇降口に貼られたクラス分けの紙では、俺は二組、千夏は五組だった。
小学校の六年間で同じクラスにならなかったのは二年だけだったが、中学は廊下の端と端だ。
千夏は紙を見上げたまま何も言わなかった。
入学式のあと、校庭の部活の勧誘でソフトテニス部の先輩が俺の前に立った。
「テニス、やってた?」
「はい」
「じゃあ、うち来なよ。軟式だけど、すぐ慣れるから」
「入りません」
「え、なんで」
「放課後は、別のところで打つので」
隣では千夏も女子の先輩に囲まれていた。
「あたしも、入りません」
千夏はそう言ってからちらりと俺を見た。
断る理由は同じだ。
スクールがあって、本家の隣には、もうすぐ新しい場所ができる。
それに四月からは藤代圭がいる。
校庭の桜はもう散りかけていて、花びらが一枚、千夏の長い袖に引っかかっていた。
袖が長いと拾わなくていいものまで拾う。
春休みの間、本家の塀の向こうではずっと重機の音がしていた。
本家のハードコートを一面作ったとき、その向こうに雑草のまま残した土地だ。
ハードコートを三面。
その横に、雨の日も打てるよう屋根のある練習場を一面。
費用は悠蔵の金だった。正確には悠蔵の口座の、海の向こうの分だ。
小学校に上がる年の正月に俺が「アメリカ、パソコン」と言った一言で買い始めた株は、悠蔵が「ちょっと違う」と言った年から坂が急になっていた。
「で、いくらかかるの?」
工事の始まる前、俺が聞く前に、悠蔵の方が自分で言っていた。
「……って、今回は僕が聞かれる方だねえ」
悠蔵は手帳の数字を見て笑ったが、数字は言わなかった。
四月の日曜日に工事の様子を見に行くと、縁側で悠蔵が上着のポケットから百円玉を出していた。
「名前、決めなきゃね」
「名前」
「施設の。表なら丹羽テニスセンター、裏なら――」
百円玉が親指の上に乗った。その手首を横から白い手がそっと押さえた。
祖母だった。
「悠蔵」
「なに、母さん」
「名前は、どうでもいいことじゃありません」
悠蔵は百円玉と祖母の顔を交互に見た。
「……これも、だめ?」
「孫が毎日通う場所です」
悠蔵はしばらく考えてから百円玉をしまった。
宿の件で父に止められてから、悠蔵の「どうでもいいこと」の範囲は狭くなる一方だ。
座敷の方から、祖父が丸めた大きな紙を抱えてやってきて、縁側に広げた。
看板の図面だった。横長の板に大きな字で丹羽建設テニスセンター。
その下に小さく、丹羽建設株式会社・施工。
「今度こそだ」
祖父は胸を張っていた。
「コートのときは止められた。大会の旗も止められた。今度こそ入口にでかいのを立てる」
祖母は黙って図面を見ていた。
祖母が黙っているあいだに、祖父の胸は少しずつ引っ込んでいった。
図面を巻き直す頃には、胸はすっかり普段の位置に戻っていた。
工事は四月の終わり、連休の前に終わった。
丹羽建設の職人たちはひと月あまりでコート三面と屋根のある練習場を作り上げた。
祖父が毎朝、作業着とヘルメットで現場に立っていたせいかもしれない。
入口に看板が立っていた。白い板に黒い字で、二文字だけ。
丹羽。
丹羽建設でもテニスセンターでもない。
祖父と祖母の間でどういう話し合いがあったのかは、誰も知らない。
知っているのは、図面の上の行の「建設」と「テニスセンター」に一本ずつ、下の行には丸ごと一本、赤い線が引かれていたことだけだった。
祖父は看板の前に立ってしばらく見上げていた。
削られたのは会社の名前で、残ったのは家の名前だ。
「……丹羽は、丹羽だ」
祖父はそれだけ言ってうなずいた。満足しているのか、していないのか。
顔を見ても判定はつかない。祖父の顔はだいたいいつもこうだ。
悠蔵が看板の横で手帳を閉じた。
「損じゃないね」
「何がだ」
祖父が聞いた。
「場所代だよ。株を寝かせておくより、よっぽど使えるねえ」
美咲が新しいコートの端から端まで走っていた。
「ひろい!」
もうすぐ十歳になる美咲は、端まで走って、振り返って、また端まで走る。
ボール拾い係だった頃の癖がまだ抜けていない。
「おにいちゃん、ここぜんぶ、つかっていいの?」
「全部は使わない」
「なんで」
「一人で三面使っても、打てるのは一面だけだから」
美咲は考えてから両手を広げた。
「じゃあ美咲が一面つかう」
看板の名前は丹羽だったが、家族は誰からともなく、ここを「センター」と呼ぶようになった。
悠蔵が百円玉で決めようとした名前の、半分だけが残った。
放課後と週末は家から自転車でここへ通う。車なら二十分の道が、自転車だと四十分かかる。
脚にはちょうどいい。
完成した日の午後、藤代圭が来た。
入口の看板を見上げて口の端を動かし、それから新しいコートの真ん中まで歩いてきた。約束の四月だった。
千夏も来ていた。屋根のある練習場の端で一人で壁打ちをしている。
父親が来ても振り向かなかった。
圭は俺の前で止まった。
「一つだけ言う」
身構えた。公園の壁の前で最初に言われたのは肘だった。
今日はどこだ。打点か、足か、肩か。
それとも中学生の身体に合わせたグリップの厚さか。
どれを最初に言われるか、正直なところ楽しみにしていた。
「……走れ」
圭はそれだけ言った。
ラケットの話ではなかった。そもそも、これはテニスの話なのか?
圭は俺の手の中のラケットをちらりと見た。
「それは、しばらく置いておけ」
「どのくらいですか」
「朝、走れ。毎日。距離は、自分で決めろ」
それだけ言うと圭はコートの端のベンチに座り、腕を組んで目を閉じた。
今日はもう何も言わないらしい。
走れ。
肘よりもっと手前から来た。ラケットを握る前の話だ。
屋根のある練習場から千夏の壁打ちの音が聞こえていた。
圭は目を閉じたまま、その音の方には一度も顔を向けなかった。
その日の夕方、ラケットをベンチに置いたままセンターの外周を走った。
フェンスの外を一周するとちょうど四百メートルくらいになる。
三周目のところで本家の縁側から祖父がこちらを見ているのに気づいた。
五周目で祖父が庭に下りてきた。
「琢真」
「はい」
「なんでラケットを置いて走ってる」
「コーチが、走れって」
祖父はコートの端のベンチで目を閉じている圭の方を見て、しばらく黙っていた。
「……コーチなら、仕方ねえ」
祖父はそれだけ言って縁側に戻っていった。
コートを三面作った人は、そのコートで孫が一球も打たずに走っているのを、どう思ったのか。
六周目に入ると、祖父は座布団を一枚持って縁側に戻ってきて、こちら向きに座り直した。
どうやら最後まで数えるつもりだ。こちらも周回を減らすわけにはいかなくなった。




