第40話 試合に出場する
大会の前の晩、布団の中で【STATUS】を開いた。
基礎能力の欄は三月の終わりに見たときから、いくつかの数字が一つずつ動いただけだった。
今夜見たいのは、その下だ。▽を押した。
■ショット▽
フォアハンド G 16 / 17▽
バックハンド G 12 / 13▽
サーブ G 4 / 5▽
ボレー G 5 / 6▽
スマッシュ G 6 / 7▽
■球種▽
フラット G 15 / 16▽
スピン G 13 / 14▽
スライス G 3 / 4▽
キック G 1 / 1▽
この三年で打ってきたものの、そのままの記録だった。
壁と千夏と本家のコート。
一番多く打ったのはフォアハンドのフラットで、一番打っていないのはスライスだ。
千夏とのラリーはボール一個分ずつ速くしていく計画だった。
速さを刻むのに回転はいらない。ボールを切って打った覚えはほとんどない。
明日の試合を、どう勝つか。
全力のフォアハンドなら通じるとは思う。
ただ、八歳の子どもがそれを年上に叩き込めば、相手は泣く。
大人は首をかしげ、首をかしげた大人は誰かに話し、話は広がる。
目立つ八歳に、いいことは一つもない。
それから、もう一つ。試合は経験点を選べる場所でもある。
壁打ちと違って、試合なら相手のボールは毎回違う。
その違うボールを一番低い項目で返せば、そこに経験点が入る。
隠すにしても稼ぐにしても、行き着く先は同じだった。
表の一番下の方、スライスのG3だ。
明日はこれしか打たない。
フォアハンドもバックハンドも、全部ボールの下を切って返す。
サーブも切る。ふわふわして跳ねない遅いボール。
見た目はひどく弱いはずだ。
実際に弱い球なのだから、そこは心配いらない。
それでいい。全力は誰にも見せない。
表示を閉じると、隣の部屋から美咲の寝言が聞こえた。
「……さん、ご」
また四が抜けている。明日はスコアを数えたがるだろう。
連休の日曜の朝、市営コートは子どもより大人の方が多かった。
丹羽家は総出だった。父と母と、この春から幼稚園の年長になった美咲。
本家から祖父と祖母。それから悠蔵。たかが八歳の、市の大会の一回戦である。
大げさだと思うが、止める理由も思いつかなかった。
受付のテーブルで悠蔵が参加費を払った。
係の人から領収書を受け取ると、上着の内ポケットから小さな手帳を出す。
お年玉の株を一円単位で書きつけてきた手帳だ。
悠蔵はいつもの欄に「三千円」と書きかけて、ペンを止めた。
「投資……じゃないね。参加費」
横線を一本引いて別の欄に書き直した。
「どっちでもいいでしょ」
「よくないよ。投資なら、いくら戻るか書かなきゃいけない」
「戻らないの?」
「戻らないねえ。参加費だから」
悠蔵は手帳をしまいながら笑った。
「まあ、いいんじゃない」
フェンスの外では祖父が何かを抱えていた。
細長く丸めた白い布で、端から太い筆文字が少し見えている。
丹、の字だった。
「応援はな、でかい方がいいんだ」
祖父が布の端をつかんで広げかけた。
その手首を、祖母が横から静かに押さえた。
「孫の試合に、会社の名前ですか」
二年前、コートの入口に看板を立てようとしたときと、ほとんど同じ台詞だった。
祖父は口を開けて閉じた。布は丸めたまま祖母の手提げ袋の中に消えた。
丹羽建設の社長は、この件に関して一度も祖母に勝っていない。
受付の列の後ろに千夏がいた。
千夏の母親と一緒だった。女子の十歳以下の部に千夏も出る。
背中のラケットケースが千夏の背丈の半分くらいあって、顔がいつもより白かった。
千夏の手が俺の袖の方へ伸びてきた。
袖に触れる手前で止まり、何もなかったように引っ込んだ。
「……きんちょう、してないし」
「してるって、言ってない」
「言いそうな顔してた」
千夏はラケットケースのベルトを両手で握り直して女子の受付の方へ歩いていった。
六歳のときは、袖をつかんだまま離さなかった。
つかむ前に手を引っ込めるようになったのは、いつからだったか。
一回戦の相手は四年生だった。
俺より頭一つ背が高く、クラブの名前が入った揃いのシャツを着て、ラケットを二本持っていた。
六ゲームを先に取った方が勝つ、一セットだけの試合だ。
コートに入ったところで視界の端に表示が浮かんだ。
【MISSION】
・試合に出場する 達成
テクニック +4
レスポンス +4
試合に出る。それだけで一つ、ミッションが片付いた。
最初のサーブは俺からだった。トスを上げてボールの横をこするように切る。
ボールはゆるく曲がりながら相手のコートの真ん中あたりに落ち、低く滑るように跳ねた。
相手は打ち返しながら笑った。
「なにそれ」
フェンスの外でも何人かが笑った。
八歳の子どもが回転だけかけた遅い球を打っている。
相手の返球は強かった。四年生のフォアハンドはフラットで、まっすぐ速い。
千夏のボールよりずっと速い。
俺は走ってボールの下を切った。
ボールはふわりと浮いて相手のコートの深いところに落ちた。
また跳ねない。相手がもう一度強く打ち、俺がもう一度切って返す。
四球目で相手のボールがネットにかかった。
跳ねないボールを跳ねるつもりで打つと、ラケットの面が少し上を向く。
上を向いた面で強く叩けば、ボールは浮くか、打点が遅れてネットにかかる。
相手は次のポイントでも同じように強く打ってきた。
スピードは20を越え、レスポンスもこの春に20に届いた。
四年生の強いボールは走れば全部届く。
届いたら切って返す。返したボールはコントロールの22で相手の足もとか一番深いところに落ちる。
三ゲーム目に相手が一度だけネットに出てきた。
ふわふわの球なら前で叩ける、と思ったのだろう。
俺は同じスライスをネットに詰めた相手の横へ流した。
遅いボールは相手のラケットの先をゆっくり通り過ぎて、サイドラインの内側で止まりそうに弾んだ。
遅くても相手のいないところに落とせば取れる。
ゲームカウント、三対〇。相手の笑いは二ゲーム目の途中で消えていた。
フェンスの外で知らない大人が首をかしげていた。
「……あれで、なんで取れてるんだ」
「向こうが勝手にミスしてるだけだろ」
隣の大人が首を振った。半分は当たっている。
途中から、相手はフォアハンドを強く打つのをやめてボールを高く上げてきた。
山なりの遅いボールだ。こちらのスライスと同じ速さにすればミスは減る。
四年生なりに考えたのだ。俺はそれも切って返した。
遅いボール同士のラリーが十回、十五回と続いた。
続けば続くほど、先に焦れるのは、跳ねないボールを持ち上げなければならない方だった。
六対一。
ネットの前で握手をすると、相手は俺の手を握ったまま小さく言った。
「……つまんねえ球」
「うん」
褒め言葉として受け取っておいた。
【MISSION】
・公式戦で初勝利する 達成
コントロール +5
コートを出たところでミッション一覧を開いた。
二つの行が消えて、次の行が一番上に来ていた。
■ミッション一覧▽
・大会で優勝する▽
・県大会で優勝する▽
・全国大会に出場する▽
大会は二日間ある。今日のうちに、あと二つ勝つ。
試合のあいだスライスの経験点はポイントごとに入っていたが、思っていたほどの量ではない。そのあたりは夜に数えることにした。
女子の一回戦は隣のコートで、俺が戻ったときにはもう最後のゲームだった。
千夏は相手の速いボールから一歩も下がっていなかった。
一年前なら下がっていた速さだ。
最後のボールを千夏がバックハンドで返し、相手のラケットが届かなかった。
千夏はネットの前で相手と握手をして、それからこちらへ歩いてきた。
汗で前髪が額に貼りついていた。
「かった」
「見てた」
「……さいごだけでしょ」
「最後だけ」
千夏は、ふん、と鼻を鳴らした。口の端は上がったまま下がらなかった。
それからベンチの横で水筒を開けながら俺の顔を見た。
「たくまの、へんなテニス」
「変?」
「ぜんぶ、ふわふわしてた」
「作戦」
「ふうん」
千夏はそれ以上は聞かずに水筒のお茶をごくごくと飲んだ。
ベンチの向こうでは、美咲が祖父の膝に乗ってスコアボードを見上げていた。
「おにいちゃん、いち、に、さん、ご……」
「よん」
千夏が振り向きもせずに言った。
それから水筒の蓋を閉めて、俺の方を見て目を細めた。
俺のボールがふわふわしていないことを、この会場で、受けて知っているのは千夏だけだった。




