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第30話 商人の信じた明日


 ロッシュの掌には、倉庫の鍵があった。


 小さな鉄の鍵だ。

 いつもなら、必要な時に取り出し、用が済めば迷うことなく引き出しへ戻す。


 だが今は、指の上でひどく重たく感じる。


 目の前には、担保を持たないパン屋たちがいる。

 その後ろには、昨日までなら当たり前のようにパンを買えた町の人々がいる。


 そして窓の外には、火だけが残された窯があった。


「……少し待て」


 ロッシュは鍵を握ったまま、机の上に並んでいた契約書を引き寄せた。


 パン屋たちは顔を上げたが、まだ何も決まってはいない。

 立ち去ることもできず、期待することも恐れながら、商人の指先を見つめている。


 ロッシュは帳簿を開いた。


 一人目のパン屋は、十二年間、支払いを遅らせたことが二度ある。

 どちらも事前に申し出があり、追加の利子まで含めて約束の日に返している。


 二人目は、三年前に窯を失った。

 火事で店の半分が焼けたあとも、借金を踏み倒さず、仮設の窯でパンを焼き続けた。


 三人目は、契約書の数字こそ小さい。

 だが毎月一度も欠かさず、同じ日に同じ額を払い続けていた。


 帳簿に並ぶ数字は、どれも過去のものだった。


 もう支払われた金と、すでに終わった取引。

 いまさら担保として差し出せる物など、どこにも残っていない。


 けれど、その数字を作った人間は、まだ目の前にいる。


「お前は、七年前に一度、支払いを三日遅らせているな」


 ロッシュに名を呼ばれたパン屋は、肩を震わせた。


 古い記録を責められると思ったのだろう。

 男は額の汗を拭い、当時の事情を説明しようと口を開きかける。


 しかしロッシュは、帳簿から目を上げなかった。


「その三日分の利子は、翌月に全額払っている。それ以降、遅れはない」


 パン屋の男が、何も言えずにロッシュを見る。


 ロッシュは次の頁をめくった。

 羽根ペンで記された細かな数字を、指先がゆっくりと辿っていく。


「お前は火事の翌月にも、借金の減額を求めなかった。店を再建するまで、家族で一日一食にしたと聞いている」


 もう一人のパン屋が俯いた。


 それは誇るために話したことではない。

 ましてや、誰かに覚えていてもらえると思っていたわけでもなかった。


 ただ、借りた金を返すために生きた日々だった。


「それから、お前は……」


 ロッシュは最後の一人へ視線を向けた。


 その男は、若い頃から小さな店を守ってきた。

 大きく儲けたことはないが、誰かの代金をごまかしたという記録もない。


 毎朝同じ時間に窯へ火を入れ、売れ残ったパンは孤児院へ届けていた。


 契約書には書かれていない。

 金にもならない。


 それでも町の者は知っている。


「お前たちは、これまで自分の約束を守ってきた」


 ロッシュは帳簿を閉じた。


 乾いた音が部屋へ落ちる。

 パン屋たちは息を止め、ホムホムだけが静かにその姿を見ていた。


 鍵を握るロッシュの手が、僅かに震えている。


 彼の目には、いまの部屋とは違う光景が見えていた。


 雪の積もった軒先。

 空になった倉庫。

 帰ってこなかった荷馬車。


 父親は、友人だからという理由だけですべてを預けた。


 契約書もなく、担保もなく。

 積み重ねた取引の記録すら、何一つ確かめようとしなかった。


 その結果、家も店も失った。


 だからロッシュは、信じるという言葉を嫌った。


 信じれば人は誠実になるのではない。

 誠実である証拠を積み重ねた者だけが、取引に値する。


 そう考えて生きてきた。


 ならば。

 ならば、だ……。


 その積み重ねを、自分は今まで何と呼んでいたのだろう。


「確かに、ここに担保はない」


 ロッシュは鍵を机へ置いた。


 小さな金属音が、静まり返った部屋へ響く。

 それは倉庫の扉を開くにはあまりにも小さく、それでも彼の過去を押し開けるには十分な音だった。


「だが、お前たちがこれまで守った契約は残っている」


 パン屋たちは動けなかった。


 喜ぶより先に、その言葉の意味を理解しようとしている。

 ロッシュ自身も、鍵から手を離したまま、しばらく何も言わなかった。


 それから、ようやく顔を上げる。


「今回は、それを担保として麦を渡す。そうでなければ、ならない。そうでなければ、私はお前たちが守り、積み上げてきたものに価値を示せないからだ。それは……、商人の敗北だ」


 誰かが、喉を鳴らした。


 ひとりのパン屋が両手で顔を覆い、別の男は深く頭を下げた。

 けれどロッシュは、感謝を受け取るような顔をしない。


 麦の量、返済の期日、売り上げから支払う割合。

 条件はこれから厳密に決める。


 信じると決めたからこそ、約束を曖昧にはしない。

 その姿を、ホムホムはずっと見つめていた。


 赤い瞳の奥で、静かな火が灯る。


「人の遺した誠実さと、あなたがそれを信じる勇気」


 少女の声は、いつものように大きくはなかった。

 けれど、誰も動けなかった部屋の中で、その言葉だけが真っ直ぐにロッシュへ届いた。


「確かにこの私が、見届けました」


 突然変わったホムホムの空気に、ロッシュは僅かに目を見開いた。


 だが、すぐに顔を背け、机の上の書類を整え始める。

 何事もなかったかのように振る舞っているが、羽根ペンを持つ指はまだ止まったままだった。


「……大げさだ。取引を一つ決めただけだろう」


 ホムホムは否定しなかった。


 ただ、とても誇らしいものを見るように、胸を張る。

 ロッシュが自分の行いを何と呼ぼうと、ホムホムには分かっていた。


 この男はいま、まだ見えない明日へ向けて、自分の大切なものを差し出したのだ。


 それは、かつて水槽の前で剣を握った騎士と同じだった。


 勝てるから立ったのではない。

 明日を信じると決めたから、立ったのだ。



 倉庫の扉が開かれると、すぐに麦袋が運び出された。

 粉屋たちは受け取った麦を荷車へ積み、パン屋たちは契約書へ順番に署名していく。


 町の窯へ火が戻るまで、それほど時間はかからないだろう。

 だが、ロッシュの表情は晴れなかった。


「この麦だけでは、三日も持たない」


 商館の倉庫に残されていた麦は、もともと別の取引へ使う予定のものだ。


 いま町へ放出すれば、目の前のパンは焼ける。

 しかし次の商隊が来なければ、数日後には同じことになる。


 街道は崩れている。

 いつもの道を使えば、荷馬車は立ち往生する。


 別の村や倉庫から麦を集め、迂回路を使って運ばなければならない。


「私が行きます」


 ホムホムは当然のように立候補した。


 商館へ戻ってからも、鎧を着たまま待機している。

 今すぐ出発しろと言われても、一人で荷馬車を持ち上げて走り出しそうだった。


 少し慌てて、ロッシュは地図を机へ広げた。


「待て、お前一人では足りない。道は三つある。荷馬車も一台では、町の必要量を運べない」


 商館の者たちが周囲へ集まり始める。


 必要なのは三つの商隊。

 それぞれへ前金を渡し、町の外にある村から麦を買いつける。


 ロッシュ自身がすべてについていくことはできない。

 ホムホムも、同時に三つの道を守れない。


 誰かへ金を預け、荷馬車を預け。

 その背中が見えなくなったあとも、仕事を任せなければならない。


「私を行かせてください」


 人垣の後ろから、若い従業員が声を上げた。

 昨日、商館の品を盗んだ男だった。


 周囲の視線が集まる。

 男は怯みそうになりながらも、拳を握って一歩前へ出た。


「私は、この町の北にある村の出身です。崩れた街道を避ける古い道を知っています」


 ロッシュは何も答えなかった。

 一度商館を裏切った者へ、金と荷物を預ける。

 それは、今日パン屋へ麦を渡すことよりも、さらに大きな決断だった。


 男はロッシュの沈黙を受け止め、頭を下げる。


「信用してほしいとは言いません。私には、まだそんなことを頼む資格がありませんから」


 その背中は震えていた。


 逃げるつもりなら、黙っていればいい。

 監視のある商館で働き、少しずつ盗んだ分を返していればいい。


 だけどこの時ばかりは、それでも男は顔を上げた。

 ここで踏み出せば、自らが疑われると知りながらも、この問題を解決するため一歩を踏み出したのだ。


 そして、それもまた男を信用するに値する担保であると、商人であるロッシュには理解できてしまった。

 そして男は言葉を続ける。


「ですが、一度失った信用を、働いて返す機会をください」


 ロッシュは男を長く見つめた。


 帳簿には、昨日までの彼しか書かれていない。

 商館の品を盗み、嘘をついた男。


 これから先、誠実に働くという記録は、まだどこにもない。

 だが、記録とはいつも、誰かが最初の一歩を踏み出したあとに残るものだ。


 もう、この男を否定する材料は、残っていなかった。


「……よかろう。だが、お前を責任者にはしない」


 ロッシュは地図の北側を指した。


 護衛を二人つける。

 前金は必要最低限にし、麦を積む村でも受領の記録を取らせる。


 何もかもを無条件に預けるつもりはない。


「それでも、お前は行くか」


 男は力強く頷いた。

 責任者であるかどうかなど、ここで引く理由にはならないのだから。


「行かせてください」


 ロッシュは返事の代わりに、商隊の名簿へ男の名を書き加えた。


 そうして、日が傾く前に、三台の荷馬車が商館の門へ並んだ。

 一台にはホムホムがつく。

 残る二台には、商館の従業員と雇われた護衛たちが乗り込んでいる。


 荷台はまだ空だった。

 代わりに、麦を買うための金と、ロッシュの署名が入った契約書が積まれている。


 門の前で、ロッシュは一人ずつ名前を呼び、仕事内容を確認した。


 帰還予定の日と、集める麦の量。

 途中で問題が起きた時の対応。


 すべてを言い終えると、御者たちが手綱を握る。

 車輪がゆっくりと回り始めた。


 ロッシュは門の内側に立ち、遠ざかっていく荷馬車を見ていた。


 父親の友人を乗せた荷馬車も、あの日こうして遠ざかっていったのだろう。

 必ず戻るという言葉を残して。


 ……だが今回は違う。


 契約があり、記録がある。

 帰ってくると信じる理由もある。


 とはいえ、必ず戻る保証はどこにもなかった。


 先頭の荷馬車から、ホムホムが振り返る。


 ロッシュの顔が、遠くても見えているらしい。

 少女は片手を上げ、その場で少しだけ胸を張った。


「安心してください、ロッシュ」


 夕暮れの風が、赤い外套と髪のリボンを揺らす。

 ホムホムは、これから進む道へ顔を戻した。


「あなたの信じた明日を、必ず連れて帰ります」


 三台の荷馬車は、それぞれ別の道へ分かれていく。

 ロッシュは、その姿が見えなくなるまで立ち続けていた。


 初めて握った商人の剣が、どのような結果を連れて戻るのか。


 まだ誰にも、分からなかった。



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