第3話 人らしくなりたいのです
少女がフィリップたちシーカーと出会う、一か月ほど前。
施設の外に出ると、そこには風があった。
ホムンクルスの少女は、しばらくその場に立ち尽くしてしまう。
空は青く、草は揺れ、鳥らしき小さな生き物が崩れた壁の上を跳ねている。
夢の中で見た世界は黒く濁っていたけれど、目の前の世界には光があった。
だが次の瞬間、風が肌を撫でる。
少女は足を止め、視線を下ろす。
自分の体を見ると、とある問題点が浮かび上がった。
「……なるほど」
ホムンクルスの少女は確信を得て頷いた。
「私は、布を身につけていません」
水槽の中にいたのだから当然だった。
けれど、夢の中で見た人々は、みんな何かしら布をまとっていたはず。
騎士は鎧を着ていたし、逃げる人々も服を着ていた。
つまり、人らしくなるためには、まず服が必要なのだろう。
少女は周囲を見渡し考える。
施設の壁には蔦が絡み、足元には細い草が生えている。
どうやら柔らかそうな葉もあれば、長く伸びた茎もあるらしい。
少女はその一本を摘み、指先でほぐした。
植物の繊維が、銀の糸のようにほどけていく。
それを見て少女の頭の奥に、知らないはずの知識が静かに浮かんだ。
まずは繊維を束ね、撚る。
それから編んで、形にして、そうして人の体を覆うものを、服と呼ぶのだと。
「完璧にわかりました。それなら服を作りましょうっ」
誰に向けて言ったのかは、自分でもわからない。
けれど言葉にすると、少しだけ人らしい気がした。
少女は草や蔦から繊維を抜き取り、魔力を通して糸にした。
糸は指先の動きに合わせて勝手に絡み、布へ変わっていく。
その魔力操作と魔法の技術はとても滑らかで、たぶん今の時代の人間が見れば、目を丸くするような技だった。
ただし、出来上がった服は、四角い布に穴を開けたもの。
技は飛び抜けていても、デザインセンスは無かったらしい。
でもそんな服を少女は気に入ったらしく、頭からかぶりどこか満足気。
ちょっと胸を張っているようにも見えて、何やら人らしさに一歩近づいたと頷いているようだ。
裾が膝のあたりで揺れた。
それから余った布を細長く裂き、腰に巻いて結ぶ。
少女は自分の姿を見下ろした。
「やはり完璧です。才能とは恐ろしいものですね」
表情はほとんど動いていなかった。
けれど声には抑揚が現れ、人としての自信がついたような響きがあった。
そうして、少女は歩き出した。
騎士が見たかった明日を知るために。
その明日に生きる人を知るために。
そして、できることなら、自分も人らしくなるために。
少女が進む森は静かだった。
施設を覆うように広がった木々の間をゆっくり歩く。
裸足で踏む土はやわらかく、苔は少し冷たく、落ち葉は乾いた音を立てた。
全てが初めて見るものばかりだった。
枝から落ちた木の実を拾い、指で割る。
中身を口に入れて、もぐもぐと噛む。
「……苦いです。この木の実には才能がないのかもしれません」
だが、少女はしばらく考えてから、もう一つ食べた。
「でも、食べられます。きっとこの木の実の努力が足りないだけなのでしょう」
別の日には、小さな獣が茂みから飛び出した。
少女は反射で剣を抜きかけ、そこで止まる。
獣は少女を見て固まり、それから全力で逃げていったからだ。
「速いですね」
少女はそのまま追いかける。
そして、当然のように追いつき、捕まえてから食べた。
動かなくなった獣を見て、少女はちょっぴり眉をへにょっと下げながら想う。
「……命をいただくとは、こういうことなのでしょうか。名も知らない獣さん、あなたは完璧に私の命を繋ぎました。ありがとうございます」
口にした肉は、木の実よりずっと温かかった。
胸の奥に少しだけ重みが残ったけれど、体は以前よりも動きやすくなった。
少女はしっかりと、その不思議を覚えておくことにした。
それからしばらくすると、雨の日もあった。
大きな葉の下で座り込み、ぽつぽつと落ちる水を眺める。
服はびっしょりと濡れ、髪も頬に張りつく。
けれど水槽の中と違って、雨には心地よい音があった。
少女は剣を膝に置き、雨音を聞きながら呟く。
「人は、雨の日に何をするのでしょう」
答える者はいない。
だから少女は、自分で考えた。
「たぶん、濡れます。きっと涼しいでしょう」
当然の理屈に少女はうんうんと頷き、納得した。
自明の理とはいえ、こうもすぐに回答が用意できるとは、やはり自分は賢いのだろうと思っているらしい。
そんな日々がしばらく続いた。
少女の中には、最初から多くの機能が眠っていた。
歩けば周囲の地形が頭の奥に浮かび、木の実を拾えば保存に向くかどうかがわかる。
危険な魔力の淀みも、遠くの獣の気配も、目を閉じるだけでうっすらと感じ取ることができた。
だが、それらはなんとなく、人らしさとは少し違う気がしたらしい。
きっと人らしさとは、もっと別のものなのだろう。
騎士は怖いと言いながらも立っていた。
泣きながら謝り、それでも剣を離さなかった。
ならば人とは高い能力を示すものではなく、何かを大切にする生き物なのかもしれない。
まだ何も知らない少女はそう考えた。
そして、ふと気づく。
「……私には、まだ名前がありませんね?」
あまりにも天才的な閃きに驚愕して、森の中で立ち止まる。
そうだ、人には名前があった。
夢の中で逃げていた母親は子どもの名を叫んでいた。
倒れた兵士も誰かの名を呼んでいた。
少女の主人公である騎士にも、きっと名前があったはずだ。
ならば、自分にも必要だ。
「なまえ~、なまえ~。私の名前って、なんでしょう?」
少女は森を歩きながら考える。
とてもとても、超真剣に考えた。
まずはアイデアを練るために、大きな木の前で立ち止まり、木を見上げる。
「キ……。違いますね。私は木ではありません」
川辺にしゃがみ、水面に映る自分を見る。
「ミズ……。これも違います。私は濡れていますが、水ではありません」
頭の上を鳥が飛んだ。
「トリ……。も、違いますね。きっと人の名前ではありません」
少女は少しだけ首を傾げた。
だって、いままでで一番難しかったから。
ここで判明したが、名前を考えるというのは、服を作るより難しいらしい。
というより、自分は何なのだろう。
少女は胸に手を当てて振り返る。
旧い施設で作られた命であり、騎士の勇気で目を覚ましたもの。
それから、人になりたいもの。
けれど、まず最初に浮かぶ言葉は一つだった。
ホムンクルス。
少女は水面の自分をじっと見つめた。
それから、ぱっと顔を上げる。
「なるほど、ホムホム。私はホムホムでしたかっ」
言葉にすると、不思議と収まりがよかった。
ホムンクルスだから、ホムホム。
とてもわかりやすいし、きっと人にも伝わりやすい。
少女は立ち上がり、誰もいない森へ向かって胸を張った。
「どこかの知らない、これから出会う誰かへ。私はホムホム。スーパーホムンクルスです」
少し間を置く。
「……なるほど、これなら完璧でしょう」
表情はやはりほとんど変わらなかった。
けれどホムホムは、どこか満足していた。
それからまた、日が昇り、沈んだ。
すでに施設を出てから、ひと月ほどが過ぎている。
ホムホムはこの一か月で、少しだけ歩くのが上手くなった。
その上、木の実の苦いものと甘いものも見分けられるようになった。
雨の日に濡れるだけではなく、大きな木の洞に入ると濡れにくいことも覚えた。
それでも、人にはまだ会えない。
この世界には本当に人がいるのだろうか。
騎士が信じた明日は、本当に続いているのだろうか。
そう思った時だった。
頭の奥に浮かぶ地図の端で、小さな光が三つ震えた。
獣の反応ではなく、魔物でもない。
形も、熱も、動きも、全てが夢で見た人間に近かった。
「……人?」
ホムホムは顔を上げる。
同時に、その近くで大きな反応が動いた。
冷たい魔力をまとった巨大な何かだ。
これはたぶん生き物ではないけれど、とても危険だと、体の奥の機能が告げていた。
小さな光の一つが揺らぎ、もう一つが倒れる。
そして、最後の一つが前に出る。
だけどその光がほんの少し、暗くなった。
その時、暗くなった人の光を見て、ホムホムの胸の奥で熱が灯った。
あの時と同じ気持ちだった。
水槽の中で見ていた騎士の背中。
誰も信じてくれない中で、それでも未来を捨てなかった人。
けれど今、どこかで誰かが膝をつこうとしている。
まだ生きているのに、まだ明日があるかもしれないのに。
この光は、もう終わりだと思おうとしている。
「……その結末は、とても悔しいです」
ホムホムは魔力を全身に行き渡らせ、剣を握った。
まるでマグマのような魔力の熱に空気が動き、足元の草が揺れる。
次の瞬間、彼女は走り出していた。
木々の間を抜け、瓦礫を飛び越え、崩れた壁を蹴る。
頭の奥の地図はずっと進むべき道を示し、胸の奥の熱が意志にしたがって足を動かす。
近づくほど、諦める誰かの音が聞こえた。
砕ける石と、唸る魔力。
誰かが叫ぶ悲痛な声。
巨大な金属の影が、三つの小さな命を覆っていた。
赤い髪の男が剣を握って俯いていて、白い髪の少女が膝をついて絶望している。
小さな少年が泣きそうな顔で、男を呼んだ。
ホムホムの胸から、悔しいという想いがあふれ出す。
あの人たちは今も生きているのに、もう終わりだなんて諦めていることが、嫌だった。
まだ終わりじゃないと、今度こそ伝えたかった。
だから、騎士の剣を振るう前に、ホムホムは跳んだ。
そして騎士から受け継いだ剣を、兵器としての力で振り下ろし、金属の巨人を切り割く。
青い火花が散り、巨体が左右に崩れる。
ホムホムは剣を下ろし、三人を見た。
怒っているのか、泣いているのか、自分でもまだよくわからなかった。
ただ、胸の奥が熱かった。
だからホムホムは、助けた三人に向けて言うのだ。
「……悔しい。あなた方が、ここで終わりだと思ってしまったことが。私は、それが悔しいのです」




