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第28話 パンの懐刀


 倉庫での一件が終わったあと、ロッシュは若い従業員を商館の奥にある小部屋へ呼んだ。


 机の上には、新しい契約書が置かれている。

 ロッシュは一つひとつの条件を読み上げ、最後に羽根ペンを机へ置いた。


「異論があるなら、署名する前に言え」


 若い男は契約書を見下ろしたまま、唇を強く噛んでいた。


 処罰としては信じられないほど軽い。

 本来ならば、商館から追い出されてもおかしくなかった。


 だが給金を差し引かれれば、妻の薬も、子供たちの食事も買えなくなる。

 その不安が消えたわけではない。


「家族へ渡す分については、私が働きます」


 しかしその不安は無用であると示すように、男の隣に立っていたホムホムが、当然のことのように言った。


 ロッシュは向かい側の椅子へ座ったまま、少女の顔を見る。

 倉庫で宣言した時と同じ、何の迷いもない赤い瞳だった。


 しかも、銀貨一枚という当初の条件は、今ではあまりに安い。


 暗殺者を発見し、自分の命を救った働きだけでも、三日分の報酬を遥かに上回っている。

 それでもホムホムは、契約書に書かれた金額へ不満を訴えなかった。


「これから別の仕事をください。ホムホムならやれます。なので、試してみましょう」


 ホムホムは机へ両手を置き、少し身を乗り出した。


 表情は変わらない。

 だが、言葉を受け入れるまで動かないつもりなのは、すでにロッシュにも分かるようになっていた。


「荷物を運べます。人を守れます。怪しい人を屋根裏から落とすこともできます」

「最後の仕事を恒常的に用意するつもりはない」


 ロッシュは眉間を押さえたが、ホムホムは本気だった。

 だって他にも、計算もできるし、辺境伯領の歴史もマスターしてるし、裁縫だってたくさん努力した。


 つまり、ホムホムには才能があると、本気で思っている。


 そんなことをロッシュが知る由もないが、しかし理屈だけを見れば、この提案には何の問題もない。

 商館には、金を払ってでも任せたい仕事がいくらでもある。


 そこでロッシュは別の紙を取り出した。


 今日から三日間、護衛契約の空いた時間に荷の積み下ろしと、町外れの倉庫まで荷馬車を護衛するという案だ。

 追加報酬は一日につき銀貨一枚。


 ただし、その報酬はホムホム本人ではなく、若い従業員の家族へ直接渡す。

 ホムホムを運用する金額としては安いが、従業員の家族へと渡す金額としては破格。


 そのちょうど中間をとった形になる。


「受け取った者の署名も取る。何に使ったかまでは制限しないが、報酬が家族へ届いたことは記録する」


 ホムホムは契約書を上から下まで見た。


 文字は読める。

 しかし複雑な契約文は、まだ少し難しい。


 それでも、重要な部分だけは慎重に確認した。


「パンの大きさについて書かれていません」

「これはお前の食事の契約ではない」

「なるほど。今回は家族が自由に決められるのですね」


 ホムホムは納得して署名した。


 書かれた文字は、以前より少しだけ上手くなっていた。

 それを見たロッシュは何も言わず、契約書を二つ折りにする。


 若い男も震える手で名前を書いた。


「ありがとうございます……」


 掠れた声を出しながら、男が頭を下げる。

 ホムホムはその姿を見て、首を横へ振った。


「まだ終わっていません。あなたは盗んだ分を返してください」


 拒絶するための言葉ではなかった。

 立ち上がって歩き出す者が、もう一度膝をつかないように確かめる声だ。


「私も働きます。ですから、あなたも誠実に働いてください。二人で働けば、きっとたくさん働けます。もしかすると無敵かもしれません」

「……はい」


 男は涙を拭い、今度はしっかりと顔を上げた。


 その日の午後、ホムホムは商館の裏庭に積まれた木箱を運んだ。


 大人が二人で持ち上げる箱を、左右の腕へ一つずつ抱える。

 さらに頭の上へ小麦袋を載せて歩いていると、荷運び人たちが仕事を忘れて見つめていた。


「これは、どこに置きますか」


 ホムホムが尋ねると、監督役の男は慌てて倉庫の奥を指した。


 彼女は石畳を静かに歩く。

 重そうな荷物を抱えているのに、足音は普段とほとんど変わらない。


 荷物を置き終えると、次は荷馬車の護衛を行った。


 富都ラウゼンの外れまで続く街道には、旅人や行商人が行き交っている。

 途中で茂みが揺れるたび、御者は緊張して手綱を握った。


 しかし現れたのは、草を食べていた小さな獣だけだった。

 ホムホムが見つめると、獣は口に葉をくわえたまま固まり、それから全力で森へ逃げていく。


「怪しくありません。動物が草を食べていました。きっと明日も食べると思いますが、これもまた、動物の勝利です」

「そ、そうですか」


 御者はなぜか獣へ同情するような目を向けた。

 結局、荷馬車は何事もなく倉庫へ到着する。


 ホムホムが荷物をすべて運び終える頃には、空が赤くなっていた。

 商館へ戻ると、ロッシュは約束した銀貨を一枚、帳簿の横へ置く。


「仕事は完了した。契約通りだ」


 ホムホムは銀貨を手に取った。


 小さく、丸く、冷たい。

 昨日までなら、すぐにパンと交換できるかを考えていただろう。


 しかし今日は、商館の使用人と一緒に町の住宅街へ向かった。


 若い従業員の家は、細い路地の奥にある。

 壁には補修した跡があり、窓辺に干された子供服が風に揺れていた。


 扉を開けた女は顔色が悪く、肩へ毛布を掛けていたのを見ている。

 その足元から、幼い子供が二人、恐る恐るホムホムを見上げて言うのだ。


「お姉ちゃん、なんだかパンの匂いがする」

「そうだねっ。でもパンの匂いなのに、負けなさそうな気がする!」


 それを聞いたホムホムは、大きく胸を張ってちょっと揺れていたらしい。

 そうしている間にも使用人が事情を説明し、銀貨を女へ渡した。


 女は夫のしたことをすでに聞いていたらしい。

 銀貨を握りしめたまま、何度も謝罪しようとした。


「謝罪は、あの男の人へ伝えてください」


 ホムホムはしゃがみ、子供たちと同じ高さになる。


「あの人は現在、誠実になるために働いています。その間、あなたたちの明日を私が手伝います。でも安心してください。ホムホムが来たからには、もう負けません」


 女は口元を押さえ、深く頭を下げた。


 その後、銀貨は薬屋へ運ばれた。

 女の熱を下げる薬へ変わり、残りは小麦粉と野菜、それから丸いパン二つになった。


 ホムホムは少し離れた場所から、その様子を見ていた。

 自分が運んだ木箱は、ここにはない。


 護衛した荷馬車も、家の前には止まっていない。

 けれど商館で働いた時間が銀貨になり、銀貨が路地を歩き、薬と食べ物に姿を変えた。


 子供の一人がパンを抱え、嬉しそうに家へ入っていく。

 ホムホムの赤い瞳が、ぱちりと瞬いた。


「……お金くんが、パンになりました」


 しかも、ホムホムが働いていた場所から遠く離れた家で。


 パンそのものを持って歩かなくてもいい。

 焼きたてのパンは時間が経てば硬くなる才能を発揮するが、銀貨は硬くても誰も困らない。


 小さな硬貨の姿で道を渡り、必要な場所へ着いてから、誰かの食べるパンへ変わることができる。


「なるほどっ!」


 ホムホムは銀貨が消えていった薬屋とパン屋を、交互に見た。

 うんうん、と強く頷いている。

 どうやら新しい天啓を得たようだ。


「実はお金くんには、隠れた才能があったのですね。やればできる子だったようです」


 同行していた使用人には意味が分からなかった。

 だがホムホムの中では、お金の地位が大きく変わっていた。


 これまでは、パンへ交換するためだけに存在する部下だと思っていた。


 けれど本当は違う。


 パンが自分では届くことのできない場所へ行き、離れた人の明日を支える。

 その仕事を、人知れず引き受けることができる。


「お金くんは、パンの部下ではありませんでした」


 ホムホムは胸の前で腕を組み、厳かに結論を下した。

 それはホムホムにとって、革命とも言える新事実だ。


「パンが隠し持つ、懐刀だったのですね」


 そうして商館へ戻ったホムホムは、発見したばかりの新事実をロッシュへ報告した。

 ロッシュは帳簿へ数字を書きながら聞いていたが、やがて羽根ペンを止める。


「金はパンのためだけに存在しているわけではない」


 外はすっかり暗くなっていた。


 窓の向こうでは魔導灯が石畳を照らし、仕事を終えた人々が家路を急いでいる。

 彼らの懐にも、今日働いた分の硬貨が入っているのだろう。


「ですが、お金くんは遠くのパンになりました」


 ホムホムは確信を持って言った。

 自分の見つけた発見に、よほどの自信があるらしい。


「私が働いた時間を、会ったことのないパン屋まで運んでくれたのです。これはかなり強い才能です」


 ロッシュは否定しようとして、言葉を止めた。


 金は労働の対価だ。

 その金を使えば、離れた場所にいる者から品物を受け取ることができる。


 商人にとっては、あまりにも当然のことだった。


 けれど、ホムホムには今日初めて見えた景色らしい。

 人の働いた時間が、硬貨という形になって誰かの生活へ届くところまで。


「そう考える者は、初めて見た」

「ロッシュも理解できたのですね」

「理解はしている。呼び方に納得していないだけだ。しかし……、ふっ。ああ、その呼び方も悪くはない、か……」


 ホムホムは満足そうに頷いた。


 やはり問題ないらしい。

 故に、お金くんがパンの懐刀であることは、すでに決定していた。


「これからは、もう少し活躍を見守ります」


 ホムホムはそう言いながら、夕食として運ばれてきたパンを手に取る。

 パンを一口食べたあと、机の上に置かれた銀貨へ目を向けた。


 その硬い輝きは、以前よりも、少しだけ頼もしく見えた。



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