第20話 御命令を、我が主君
バルノース侯爵家のパーティーから、さらに半年が過ぎた。
ゼグラント辺境伯領には短い夏が訪れ、屋敷の窓から見える木々は、眩しいほど青々と葉を茂らせている。
来月には、カテリーナも王都の学園へ向かう。
そのための準備は、順調と言ってよかった。
礼儀作法も歴史も、カテリーナは以前から十分に身につけている。
持っていく衣服や書物も揃い、学園で暮らすための使用人も決まっていた。
そして何より、以前まで彼女を俯かせていた婚約についても、今では何の心配もない。
その証拠に、その日の午後。
カテリーナは私室の机へ向かい、一通の手紙を読んでいた。
深い青色の封蝋には、バルノース侯爵家の紋章。
差出人の名は、カルア・バルノース。
読み進めるほど、カテリーナの頬が赤くなっていく。
「カルアさまぁ……」
熱のこもった声が、部屋へ甘く溶けた。
手紙を胸へ抱き、幸せそうに目を閉じる。
どうやらカルアは、学園の近くにある菓子店について書いてきたらしい。
以前から気になっている店で、入学したら一緒に訪れたいという誘いだった。
半年前までのカテリーナなら、侯爵家の嫡男にふさわしい返事を考え、両家の関係に有益な店なのかと悩んだだろう。
だが、今の彼女は違う。
「二人で、ですって……。カルア様と、二人で……」
手紙の同じ部分を、すでに三度は読み返していた。
その様子を長椅子から眺めていたユークスが、頬杖をつく。
「姉ちゃんが元気になったのはいいけどさ。ちょっと極端じゃないか?」
「何を言うのです、ユークス。カルア様は私が以前お話しした、焼き菓子のことを覚えていてくださったのですよ」
「その話、今日だけで四回聞いたぞ」
「それほど大切なことなのです」
「そうかよ~」
ユークスは呆れながらも笑っていた。
姉の笑顔が作り物ではないことくらい、弟である彼には分かる。
以前は何を尋ねても「大丈夫です」と笑うばかりだった。
けれど今は、嬉しければ頬を染め、返事をどう書こうかと悩み、カルアの名を呼ぶだけで声まで柔らかくなる。
少々柔らかくなりすぎている気もしたが、暗い顔で俯かれるよりずっといい。
カテリーナの机の隣では、銀色の鎧を身につけたホムホムが手紙を覗き込んでいた。
文字は当然読める。
だが、そこに書かれた内容の何がカテリーナをこれほど喜ばせるのかまでは、理解できない。
「カテリーナが喜んでいます」
「見れば分かるだろ」
「なぜでしょうか?」
「いや、分かってなかったのかよっ」
ホムホムは小さく首を傾げる。
しかし、カテリーナが笑っていること自体は喜ばしい。
難しい理由など知らなくても、今の彼女からは以前のような諦めの影が消えている。
「ですが、現在のカテリーナは無敵です」
「姉ちゃん、手紙を読んでるだけだぞ」
「いいえ。無敵な者は、よく笑います」
ユークスは一瞬黙り、それから鼻を鳴らした。
「まあ、それはそうかもな」
カテリーナは二人の会話を聞いて、さらに楽しそうに笑った。
窓から差し込む光が、机の上へ広がっている。
カルアへの返事を書くための便箋。
学園へ持っていく本。
少し歪んだパンと、それを守る剣が縫われたハンカチ。
そこには確かに、カテリーナが待ち望んだ明日があった。
だからこそ。
最初に響いた鐘の音が、穏やかな午後をあまりにも鋭く切り裂いた。
カテリーナの手から、羽根ペンが落ちる。
一度、そして……、二度。
屋敷の外から、重い鐘の音が続く。
ユークスが勢いよく立ち上がった。
「この鐘……」
訓練や時刻を知らせる鐘ではない。
辺境の町で暮らす者なら、幼い子どもでも意味を教えられている。
それは、外敵の襲来。
あるいは、それに並ぶほどの災害が起きた時にのみ鳴らされる警鐘だった。
廊下を走る無数の足音が聞こえてくる。
先ほどまで静かだった屋敷が、一瞬にして騒がしくなった。
扉が強く叩かれ、カテリーナが返事をするより先に、騎士隊長が入ってくる。
鎧はまだ完全に装着されておらず、片方の籠手を手に持ったままだった。
「お嬢様、ユークス様。直ちに屋敷の内側へお下がりください」
「何が起きたのですか」
「北の監視塔より急報です。山脈から魔物の大群が現れました」
カテリーナの顔から、先ほどまでの熱が消える。
「数は……?」
「確認できただけで千を超えています。まだ後続がいる可能性も」
ユークスが息を呑んだ。
辺境伯領では魔物の群れなど珍しくない。
数十体であれば騎士団が討伐し、百を超えれば周辺の村へ避難命令が出される。
だが千を超える魔物が、同じ方向へ進むことなど、ここ二十年以上起きていなかった。
「スタンピード……」
カテリーナの唇から、恐れていた言葉が漏れた。
騎士隊長は否定しなかった。
「先頭の群れは、すでに北側の村へ接近しています。旦那様は騎士団を率いて出陣なさいます」
「お父様はどちらに?」
「作戦室です。ただし、お会いになる時間は――」
その時、開いたままの扉の向こうをアルルバが通り過ぎた。
普段の執務服ではない。
深い赤色の外套を羽織り、腰には長剣。
周囲を歩く騎士や文官へ、途切れることなく命令を出している。
「西側の街道を封鎖しろ。避難民は南門から受け入れる。騎士団第三隊は北の村へ向かい、住民を回収した後に後退。魔物を相手に陣を維持しようとするな」
「はっ!」
「シーカー組合へ緊急招集を出せ。戦える者だけではない。馬車を扱える者も必要だ」
アルルバは娘たちの姿に気づき、足を止めた。
父親として何かを言いたい顔をしている。
けれど今の彼は、領地に暮らすすべての者の命を背負う辺境伯だった。
「カテリーナ。屋敷を頼む」
「はい、お父様」
「ユークス。使用人の指示に従い、年少の者たちを地下へ案内しろ。泣いている子がいたら、そなたが手を引いてやれ」
「分かった!」
アルルバの視線がホムホムへ向く。
一瞬だけ、何かを迷った。
だが結局、彼は命令を口にしなかった。
ホムホムはゼグラント家の騎士である。
しかし何より、カテリーナ個人へ仕える騎士だ。
その剣をどこへ向けるのかを決めるのは、辺境伯ではない。
「詳しい報告が届き次第、そなたたちにも知らせる」
それだけ告げ、アルルバは再び廊下を進んでいった。
騎士たちの足音も、その背を追って遠ざかる。
ユークスは父から与えられた役目を果たすため、すぐに部屋を飛び出す。
屋敷の奥では、幼い使用人やその家族が地下へ避難を始めていた。
町から逃げてきた住民たちは、広い騎士団訓練場へ次々に集められている。
ユークスは震えている少年の手を取り、地下へ続く階段へ導いた。
「大丈夫だ。押すなよ! 小さいやつから先に下りろ!」
声は震えていたが、それでも何度も廊下を往復した。
荷物を抱えた老女を支え、泣き止まない少女へ、自分の木剣を貸す。
「これは辺境伯家の跡取りが使ってる剣だぞ。持ってれば魔物なんか来ないからな」
本当は、ただの木剣だった。
それでも少女は両手で抱え、泣きながらうなずく。
ユークスは自分にできることを続けた。
だが屋敷へ届く報告は、時間が経つほど悪くなっていった。
北の村が襲われた。
騎士団の第一防衛線が突破された。
魔物の群れを率いる、巨大な何かがいる。
夕方が近づく頃、作戦室から戻ってきた騎士の顔は、土と血に汚れていた。
「先頭にいる獣は、通常の魔物ではありません」
カテリーナの前へ広げられた地図に、騎士が震える指を置く。
「人の二倍を超える巨体。全身を黒い毛で覆われた、人型の獣です。騎士十名で仕掛けましたが、傷一つ負わせられませんでした」
獣はただ暴れているのではないという。
騎士団が村人を逃がそうとすれば、正面の兵を無視して避難する者へ向かう。
負傷者が出れば、その者を助けようと集まった人間ごと襲う。
柵や壁を壊すより先に、避難路を塞ぐ。
人間が最も恐れ、最も諦めやすくなる方法を選んでいるかのようだった。
「父上たちは勝てるのか」
いつの間にか戻ってきたユークスが、地図の前で尋ねた。
しかし、騎士は答えなかった。
いや、答えられなかったのだ。
故に、それが答えだった。
ユークスの拳が震える。
「オレは何をすればいい」
「ユークス様は、すでに十分お働きです。あとは地下へ……」
「十分なわけないだろ!」
怒鳴った声が、部屋の壁にぶつかった。
ユークスは唇を噛み、俯く。
「父上が戦ってるんだぞ! 騎士たちも、町のみんなもだ……! なのにオレは、子どもを地下に連れていっただけだ……!」
「ですが、ユークス。あなたのその行動によって、救われた人がいます」
カテリーナが弟の肩へ触れた。
「でも、でも……! あの木剣じゃ魔物は倒せない。オレには命令する権限も、騎士みたいな力もない……」
拳から血が滲むほど、ユークスは強く握り締めていた。
「姉ちゃんがやっと笑うようになったのに。もうすぐ学園に行くのに。これからだったのに……。どうしてオレは、また何もできないんだよ」
誰よりも自分の無力を知る少年の頬に、再び涙が伝う。
その問いに、カテリーナは答えられなかった。
だって、自分も同じだったから。
父は領地を守るため戦っている。
騎士たちは命をかけ、住民は家を捨てて逃げている。
けれどカテリーナには、戦場へ出て剣を振るう力も、強力な魔法もない。
ふと、窓の外を見る。
遠い空へ、黒い煙が上がっていた。
その向こうには、学園へ続く街道がある。
カルアが待つ王都がある。
一緒に菓子店へ行こうと、手紙で約束した未来がある。
それが今、名も知らない獣によって踏み潰されようとしていた。
それはとても、怖かった。
父が帰らないかもしれない。
領地が滅びるかもしれない。
学園へ行く明日も、カルアと笑う日も、もう訪れないかもしれない。
カテリーナの指が、無意識にドレスの内側へ伸びる。
取り出したのは、白いハンカチだった。
少し歪んだパンと、曲がった小麦の穂。
……そして、パンを守る大きな剣。
ホムホムが失敗し、糸をほどき、それでも一日をかけて縫ってくれたもの。
人は日々を積み重ね、誰かの明日へ自分の思いを残していく。
そんなあの日の声が蘇る。
カテリーナはハンカチを強く握る。
自分の未来を、守りたいと思った。
家のためだけではなく、領民のためだけでもない。
自分が笑い、好きな人を好きだと言い、明日を楽しみにして生きていくために。
それは決して、恥じるべき願いではなかった。
「ホムホム様」
カテリーナが呼ぶ。
銀色の騎士は、ずっと彼女のそばに立っていた。
命令を急かさず、勝手に戦場へ向かうこともなく。
ただ主君が自分の未来を選ぶまで、静かに待っていた。
赤い瞳が、鼓動するように明滅を始める。
その光は次第に強くなり、夕暮れの部屋で赤く輝く。
ホムホムの奥にある心炉が、カテリーナの願いを聞き逃すまいと、さらに強く燃えていく。
カテリーナは震える息を吐いた。
怖くないわけではないが、それでも顔を上げる。
そこにいたのは、守られることを申し訳なく思い、自分の未来を家のために差し出そうとしていた少女ではなかった。
自分の騎士を信じ、その剣へ守るべき明日を託す、ゼグラント辺境伯家の令嬢だった。
「民を、領地を、ここで明日を生きようとする人々を守りなさい」
ユークスが涙に濡れた顔を上げるが、ホムホムはまっすぐカテリーナを見ている。
カテリーナは胸元で、パンのハンカチを握り締めた。
──そして、私の未来を諦めさせようとする、絶望の獣を……。
──打ち砕きなさい。
その命令を受けた瞬間、ホムホムは片膝をついた。
銀色の鎧が小さく鳴り、胸へ拳を当てる。
かつて礼儀作法の授業で同じ姿を見た時、カテリーナは笑った。
けれど今、笑う者は誰もいない。
剣は過去の勇気。
鎧は今の時代に与えられた誇り。
そして目の前には、守るべき未来を託した主君がいる。
「御命令、確かに承りました。我が主君」
ホムホムが顔を上げる。
表情は、いつもと変わらなかった。
だが声には、遠い昔に世界の終わりへ立ち向かった騎士と同じ、熱い魂が宿っている。
「あなたのその願い、必ず叶えましょう」
ホムホムは、主人公の剣へ手を添えた。
「私が受け継いだ、この勇気の剣を以て」




