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第19話 好きなものを好きと言う日


 バルノース侯爵家から招待状が届いて、半月が過ぎた。


 王都にある侯爵家の別邸では、夜空から星を集めたような灯りが輝いている。


 高い天井から下がる魔導灯に、磨き上げられた床。

 弦楽器の音色に合わせ、色鮮やかな衣装をまとった貴族たちが、広間のあちこちで談笑している。


 来年、王国の学園へ入学する者たちも多い。


 これから同じ教室で学び、時には家同士の利害を背負って向き合うことになる少年少女たちだ。


 カテリーナは広間へ足を踏み入れた。

 淡い栗色の髪を結い上げ、深い緑色のドレスをまとっている。


 笑みは美しく、背筋も伸びていた。

 誰が見ても、名門ゼグラント辺境伯家の令嬢として申し分ない。


 その背後には、新しい騎士鎧を身につけたホムホムが立っていた。

 銀色の胸当てにはゼグラント家の紋章。

 腰には古びた剣。


 鎧は出発前にも磨かれ、馬車の中でも磨かれ、侯爵邸へ到着してからも磨かれたため、周囲の灯りを眩しいほど反射している。


「ホムホム様」


 カテリーナが小声で呼ぶ。


「どうか、今夜は剣を抜かないでくださいね」

「敵が現れてもですか」

「ここには、敵はいません」


 カテリーナはそう言った。


 だが、ドレスの中に隠した手は、パンの刺繍がされたハンカチを握っている。

 その様子を見ていたホムホムは、広間をゆっくりと見回した。


「承知しました。敵はいません」


 平坦な声で答えたものの、カテリーナが何かと戦おうとしていることだけは感じていた。


 広間の奥から、一人の少年が歩いてくる。

 黒に近い青色の髪を整え、侯爵家の紋章が縫われた礼装を身につけていた。


 カルア・バルノース。

 カテリーナと同じ十五歳の少年だ。


 バルノース侯爵家の嫡男であり、来年から同じ学園へ入学することになる婚約者だった。


「ようこそ、カテリーナ嬢」

「お招きいただき、光栄です。カルア様」


 二人は、互いに完璧な礼を交わした。

 間違いなど何一つない。


 カテリーナは婚約者へふさわしい笑みを浮かべ、カルアも主催者として礼儀正しく応じる。

 けれど、その場に温かさは生まれなかった。


「王都までの旅は大変だっただろう」

「いいえ。道中も騎士たちが守ってくださいました。ゼグラント家とバルノース家のためであれば、この程度は苦労とも思いません」

「……そうか」


 カルアの視線がわずかに冷えたが、カテリーナは気づかない。

 彼女は正しい答えを口にしたつもりだった。


 辺境伯家と侯爵家が結ばれることは、王国の安定につながる。

 自分もカルアも、そのために生まれた家の子どもだ。


 好き嫌いで役目を投げ出すことなど、許されない。


「来年には学園への入学もある。それまでに、両家の話を進めるべきだと父上たちは考えている」

「私も同じ考えです」


 カテリーナはカルアの投げた話題に、迷わず答えた。


「両家と領民のため、私は誠心誠意、カルア様の婚約者として務めを果たします」


 しかし、婚約者のそんな姿を見ても、カルアは何も言わない。

 その目は、婚約者ではなく、精巧に作られた人形でも見るようだった。


「相変わらず、立派な辺境伯令嬢だ」


 それだけ告げると、カルアは別の客へ挨拶するため、その場を離れた。

 カテリーナは笑顔のまま頭を下げる。


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 自分は何かを間違えたのだろうか。


 けれど、どの言葉が間違っていたのかは分からない。

 家のために努力すると伝え、婚約者として責任を果たすとも誓った。


 貴族の娘として、それ以上に何を言えばよかったのだろう。


「カテリーナ」


 背後から呼ばれ、振り返る。


 ちょっとだけ真剣な顔に見える、いつも通り無表情のホムホムがそこにいた。

 赤い瞳が、カテリーナの顔をじっと見ている。


「どうなさいましたか」

「いいえ」


 カテリーナはきっとホムホムも心配してくれているのだろうと思い、痛みを覆い隠すように笑う。


「そうですか。……でも、私は大丈夫です」


 ホムホムは何も答えなかった。


 以前であれば、その言葉をそのまま受け取っていたかもしれない。

 けれど今は、大丈夫と言いながらパンのハンカチを強く握る手が見えている。


 それでもホムホムは、パンを口へ押し込まなかった。

 カテリーナが自分の足で立とうとしていることも、少しずつ分かり始めていたからだ。


 やがて楽団の演奏が変わり、広間では踊りが始まった。

 カルアは主催者として多くの客に囲まれている。


 カテリーナも挨拶を求められ、何人もの令嬢と言葉を交わした。


「カテリーナ様。その騎士は、ゼグラントで噂になっている方ですの?」


 扇を持った少女が、ホムホムを見て尋ねる。


「ええ。私の大切な騎士です」


 カテリーナは何を気負うこともなく、自然に答える。

 その時だけは、いつものように作られた笑顔ではなかった。


「まあ。ずいぶん小柄でいらっしゃるのね」

「鎧は立派ですけれど、お人形のようですわ」


 どこか含みを持たせるように、令嬢たちが冷たく笑う。

 ホムホムは無表情のまま、自分の鎧へ視線を落とした。


「人形ではありません。かなり騎士です。無敵ですが、試してみますか?」


 しかし冷笑などなんのその。

 ホムホムがあまりにもいつも通りで、カテリーナが思わず笑ってしまう。

 そもそも令嬢に無敵であると証明するのに、試してみるか、とはいかがなものだろうか。


 ホムホムは今日も絶好調である。


 そして、その反応を見た令嬢の一人が、扇の向こうで目を細めた。

 カルアがカテリーナを好いていない。

 そんな噂は、すでに王都の同年代の間で広まっていたからだ。


 主催者の婚約者でありながら、最初の挨拶を終えた後は放っておかれている。

 それならば、カテリーナを少しくらい笑いものにしても、カルアは咎めないだろう。


「カテリーナ様は、辺境でずいぶん変わったものを大切になさっているそうですわね」

「変わったもの、ですか?」

「先ほど、ドレスから見えていましたの」


 令嬢の視線が、カテリーナの手元へ落ちる。

 ハンカチの端が、わずかにドレスの間から覗いていた。


「まあ、見せていただいても?」


 断れば、かえって騒ぎになる。

 カテリーナは迷った末、ハンカチを取り出した。


 白い布の隅には、少し歪んだパン。

 その隣に小麦の穂。

 そして、パンを守るように大きな剣が縫われている。


 令嬢たちは、一瞬黙った。

 やがて一人が扇で口元を隠す。


「ずいぶん……、素朴な意匠ですのね」

「辺境では、パンを刺繍するのが流行しているのでしょうか」

「カテリーナ様は、食べることがお好きなのね。侯爵家の婚約者となられる方が、パンを持ち歩くなんて」


 直接、醜いとは言わない。

 けれど言葉の端に、笑いが混じっている。


「カルア様のお隣に立たれるのでしたら、もう少しバルノース侯爵家にふさわしいものをお持ちになった方が、よろしいのではなくて?」


 突き刺さる鋭利な言葉の刃に、カテリーナの指が震えた。

 以前の彼女なら、笑って謝っただろう。


 ご忠告ありがとうございます、と頭を下げ、ハンカチを隠したはずだ。


 自分の好きなものなど、家の名誉に比べれば小さなものだ。

 そうやって、ずっと自分自身を納得させてきた。


 けれど今、手の中にはホムホムが使った時間がある。

 一度失敗し、糸をほどき、また針を通した時間。

 カテリーナのことを考えながら、少し歪んだパンを縫った時間。


 人はこうして日々を積み重ね、誰かの明日へ思いを残していく。

 あの日のホムホムの声が、胸の中に蘇る。


 カテリーナは、そんなホムホムの想いを貶されるのが、どうしても我慢できなかった。

 だから言うのだ。

 この時ばかりは、自分の言葉でまっすぐに。


「そうですね。私は、パンが好きです」


 カテリーナが顔を上げると、令嬢たちの笑みが止まる。


「このハンカチも、私の大切な騎士が、私のために作ってくださったものです」


 瞳には涙が浮かんでいた。

 だって、怖くないはずがなかったから。


 ここは王都で、自分は辺境から来た令嬢。

 誰もがカルアはカテリーナを嫌っていると思っている。


 それでも最後まで、ハンカチを隠そうとはしなかった。


「ですから私は、これを恥じるつもりはありません」

「ですが、侯爵家の婚約者ともなれば――」

「好きなものを好きだと言えることが、そんなに羨ましいのでしょうか」


 広間の音が、遠くなった。

 カテリーナはハンカチを胸へ抱き、震えながらも立っている。


 そして、その姿を、少し離れた場所からカルアが見ていた。

 彼が知っているカテリーナは、何を言っても美しく笑う少女だった。


 家のため、領地のため、婚約者として務めを果たすため。


 正しい言葉だけを選び、自分が何を好きなのか、一度も話そうとしない完璧な令嬢だった。

 だからカルアも、彼女を見ようとしなかったのだ。


 自分ではなく侯爵家を見ている女に、自分の心を見せる必要などないと思っていた。

 だが今、カテリーナは泣きそうな顔で、歪んだパンを守っている。


 そこにいたのは、辺境伯家の役目を背負った人形ではなかった。


 一つのものを好きになり、それを笑われれば傷つき、それでも手放したくないと願う、同じ十五歳の少女だったのだ。


 故に、カルア・バルノースは立ち上がる。


「そこまでにしてくれないか」


 カルアの声に令嬢たちが振り返り、顔色が変わった。


「カルア様、これは、その……」

「僕の家の客人が、大切にしているものを笑われている。主催者として、見過ごすわけにはいかない」


 声を荒らげてはいない。

 それでも侯爵家の嫡男の言葉に逆らえる者はいなかった。


「失礼いたしました」


 令嬢たちは慌てて頭を下げ、その場から離れていく。

 カルアはカテリーナの前へ立った。


「見せてもらってもいいだろうか」


 カテリーナは迷いながら、ハンカチを差し出した。

 カルアは歪んだパンと、妙に大きな剣を眺める。


「この剣は、パンを切るためのものか?」

「いいえ。パンを守っているそうです」


 カテリーナが答えると、カルアの口元がわずかに緩んだ。

 そこに秘められた想いを、少しだけ理解したのかもしれない。


「ずいぶん勇ましいパンだ」


 それは、かつて家庭教師が口にしたのと同じ感想だった。

 カテリーナも、涙を残したまま笑う。


 そして、カルアはハンカチを大切なものを扱うように返した。


「そうか。君の大切なものは、そこにあったのか」


 カテリーナが胸元へハンカチを戻し、目を見開く。

 だってその言葉の意味を、ようやく理解できたから。


 自分の大切なものも語らず、見せもしない相手を理解するなど、最初からできなかった。

 だから婚約者であるカルアは、ずっと自分に他人行儀だったのだろうと……。


「私は、カルア様に失礼なことをしていたのでしょうか」

「少なくとも、君は僕を見ていなかった」


 カルアは率直に言う。


「君が話すのは、いつも家と領地のことばかりだった。僕が誰であろうと、バルノース侯爵家の嫡男なら構わないのだと思っていた」


 その言葉を、カテリーナは否定できなかった。

 自分もカルアも、家のために結ばれるべきだとしか考えていなかったのは、事実だったから。


 カルアが何を好きで、何を嫌い、どんな未来を望んでいるのか。

 いままで、一度も聞こうとしなかった。


「申し訳ありません」

「だが、それは僕も同じだ」


 カルアは広間へ目を向けた。


「君が僕を見ないから、僕も君を見る必要はないと決めつけていた。……どうやら僕たちは、お互いに家名と話をしていたようだ」


 パーティーの音楽が、二人の間へ戻ってくる。

 先ほどまで重かった沈黙が、今は不思議と苦しくなかった。


「カテリーナ」


 初めて、家名も敬称もつけずに呼ばれた。

 カテリーナは顔を上げる。


「やっと、君のことが分かってきたよ」


 カルアは、彼女が持つハンカチへ視線を落とした。


「なら、次は僕の好きなものを見て、君の言葉で何か言ってくれないか」

「カルア様の、お好きなものを?」

「ああ。僕にも、家の役目とは関係なく好きなものがある」


 カルアはわずかに照れたように視線を逸らした。


「君と話をしたいことが、もっとたくさんあるんだ」


 カテリーナは、すぐには答えられなかった。

 胸の中が熱くなり、涙がまた溢れそうになる。


 今度はハンカチで目元を拭った。

 パンと剣の刺繍が、涙を受け止める。


「はい。私も、カルア様のことを知りたいです」


 誰かを安心させるためでも、貴族の娘として見せるためでもない。

 ただお互いのことを知るために、カテリーナは自然に笑う。

 まるでそれは、何度転んでも立ち上がり、楽しい失敗だったと笑ったかつての少女のように。


 そんな様子を、広間の端で銀色の騎士が見守っていた。

 結局最後まで、ホムホムは剣を抜かなかった。


 誰かの口へパンを押し込むこともなく、ただ静かに立っている。


 カテリーナは自分の手でハンカチを握り、自分の言葉で未来へ踏み出した。

 その姿を見たホムホムは、磨き上げられた胸当てへ手を添える。


 表情はいつもと変わらない。


 けれど赤い瞳の奥には、温かな光が宿っていた。

 人が誰かを思って積み重ねたものは、時を越えて別の人の明日へ届く。


 ホムホムはまた一つ、人間を好きになる理由を見つけたのだった。



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