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剡旗伝  作者: 司弐紘
第二回 遺言屋の新しい仕事
9/33

弐 潮獅音、湯を運ぶ

泉源宮――ととう太保たいほが言っていた、宮殿はいわゆる王宮の西側にある。

 いや、正確に言うと王宮の一部分だ。


 双園そうえんの最北――天子とは南面するものであるから、過去のどんな都もこういう造りなる――に紫円宮しえんきゅうがあり、その丸ごとが皇帝の家、ということになる。


 端から端まで歩くと、おおよそ半日。個人の家としてはいささか大きすぎる。


 しかし家主の職業が職業であるので、中央が八省の庁舎を含んだ政治の場。東側が皇太子が作る小さな政

府のための小さな政治の場。そして西側が後宮。


 考えようによっては、ここが本当の皇帝の家と言えるのかもしれない。少なくとも奥方はここにいる。それも複数。


 翠燕すいえん流李りゅうりは暗い廊下を早足に進んでいた。いや、廊下と言うよりはほとんど人口の洞窟だ。

 綺麗に磨かれた石が弧状に組まれており、秘密の抜け穴のようにも思える。二人の足音が幾重にも反響して、流李は奇妙な浮遊感すら覚えていた。


 翠燕の話によると、ここは後宮への通用口らしいが随分と長い。

 しかも衛兵が一定の距離を置いて、何人も警備していた。だがその誰もが翠燕に声を掛けることすらしない。


 流李はどうにも落ち着かなくなって、前を歩く翠燕に話しかける。


「なぁ、翠燕。本当に入ってっしまって大丈夫なのか?」

「あなた、ちんちん付いてるの?」

「ち……って、おい!」


 顔を朱に染める流李だったが、翠燕はまったく動ぜずに、


「付いてないなら、大丈夫よ。要するに男でも女でもちんちんが付いているかどうかが問題なのよ、この宮殿では」

「男は……って、ああ宦官か」


 宮刑という刑罰によって、陰部を切除された男達。いや、出世の糸口を掴むために自ら志願して宦官になるものも珍しくないという。


 つまり、後宮に出入りできるということはそれだけの価値があるということだ。

 それを易々とやってのける翠燕。


「あ、あの……翠燕」

「何?」


 翠燕に恐れを感じて、思わず声を掛けてしまったが、もちろんそこから先のあてはない。


「え、え~~と、さっき“ふすう”って言ってたのは、何のことだ?」

「何ですって?」


 翠燕が思わず足を止めて、流李の方へと向き直る。


「いや、さっき湯太保とそんな話を……」


 もう随分前の話だと自覚しながらも流李は続けた。しかも、恐らくはどうでもいいようなことなのだろう。翠燕の訝しげな視線が答えずともそれを物語っていた。


 翠燕は、再び前を向くと歩みを再開しつつ口を開く。


「まず“すう”から説明しないといけないわね。趨っていうのは、宮殿に勤める官吏に義務づけられているものなの。宮殿って言うのは皇帝の家よね」


 皇帝陛下、と言うべきではないだろうか、と流李は思ったが口にしないでおく。


「だから、そこに勤める官吏は全員が皇帝の使用人なわけ。それこそ九品から尚書まで。そんな使用人が主人の家を堂々と闊歩しているのは正しいと思う?」

「正しい正しくないはよくわからんが、少し不自然には感じるな」


「だからこそ、趨という義務があるの。つまり官吏は宮殿にいる間は小走りに移動しなければならないの。使用人のようにね」

「じゃあ“不趨ふすう”というのは……」


「そう。功臣や重臣に与えられる特権の一つよ。宮殿内をゆっくりと歩くことが出来るの」

「ああ、それで今私達は早足に歩いてるんだ」

「私は皇帝の使用人じゃない。言わばお客さんよ」

「でも、現に……」


「これは単に私が洞窟みたいなところが嫌いなだけよ。何回来てもここは気に入らないわ」


 その時、ようやく出口らしい明かりが目の前に現れた。





 長い人工の洞窟を通り抜けると、そこには光溢れる庭園があった。

 小高い丘陵地が幾重にも折り重なり、そのなだらかな斜面に沿って松などの観賞用の木々が邪魔にならない程度に植え込まれている。


 そして、それに対になるように配置された巨石、奇岩が風景を引き締めていた。

 さらに耳を澄ませばせせらぎの音まで聞こえてくる。どうやら小川まであるらしい。


 不意に鳥が羽ばたく。真っ白な水鳥だった。


 流李はその水鳥達の行き先を自然と目で追った。鳥達は白く大きな翼をはためかせて、一息に空高く舞い上がると、易々と高い壁を――


(そうか、ここは建物の中だったな)


 改めて流李はそのことに思い至った。

 これではまるで、昨日の誼冗閣ぎじょうかくと同じではないか。外に出られぬ女達のために偽りの自然を作り出す。


(あれは翠燕の皮肉なのかもしれない)


 昨日の乱痴気騒ぎ。天華にはあり得ない自然風景。

 では、ここはどうだろう?


 乱痴気騒ぎはないかもしれないが、天華の富が集結するこの宮殿において、騒ぎはともかく、もっと贅沢な催し物が繰り広げられているであろうことは想像に難くない。


 そして、この穏やかな風景。

 こんな風景もまた天華のどこにもないであろうことは、流李の知識でもわかることだ。


「槍を預けさせて悪かったわね」


 そんな人工の丘を登りながら、翠燕が話しかけてきた。


「仕方ない。私でもそろそろ誰に会うのか、見当がついてきた。ならば武器を持っていくわけにもいくまい。翠燕も棍を預けてきたじゃないか」


 ここに至るまでの人口の洞窟。その出口に立つ最後の衛兵に二人は揃って得物を預けていた。


「棍……ね。まぁ、普通はそう見えるわよね」

「違うのか? ああ、そう言えば湯太保も“長い棒”とは仰ったけれど、棍とは仰らなかったな」

「へえ、最初に会った頃よりは随分目が開いてきたわね」


「嫌味はいい。棍でなければ何だというんだ? 預けたからには武器には違いないんだろう?」

「武器……と言うか、私があれを持つことを泰の人間は嫌がるのよね。特に湯太保辺りが」

「湯太保が?」


 その問いかけに翠燕は答えず、さらに丘を登ってゆく。


 すると行き先に石造りの四阿あずまやが見えてきた。四人ほどが入り込めば一杯になりそうな天蓋の下に、床机しょうぎと椅子が一揃え。

 一瞬、粗末さを感じた流李だったが、近づいていくとその四阿がとてつもない代物であることに気付いた。


 まず四阿を形作る石の白さに圧倒された。雪を固めたのではないかと思うほどに混じりけのない白いその石は、丹念に磨き上げられ鏡のように太陽に光を反射して光り輝いている。


 その四阿の中に収められている、床机と椅子もまたこれまた見事に磨き上げられ、黒く鈍い光を放っていた。木製であるから黒檀だろう。床机の足など細部まで施された緻密な彫刻には思わずため息が出てしまう。


 そして床机の上に置かれた茶道具一式に改めて気付く。


 昨晩、翠燕が見せてくれたあの徳利のような光り輝く緑色で、その美しさはあの徳利に負けじとも劣らない。


 翠燕は、そのぜいを凝らした四阿に遠慮無く入り込むと、椅子の一つに勝手に腰掛けた。


「座ったら? どうせ相手は遅れてくるだろうし」

「しかしだな……」


 来るであろう、相手が相手だ。この天華で一番の貴人。そういった相手を迎えるのに、座ったままでいいはずがない。


「ありゃ、お湯がない」


 流李の困惑には気付かぬのか、翠燕は備え付けの茶道具にまで手を伸ばしていた。


「それどころかお茶っ葉もない」


 赤錆色の急須を備え付けの盆から取り出して、茶壺の一つも無いことに気付いたらしい。


「あの酔っぱらいめ。こういうとこにはせこいんだから」

「おい、翠燕。この茶碗は……」


 そんな傍若無人な翠燕の行動を諦めて眺めていた流李は、とんでもないことに気付いていた。昨日の徳利と同じ色の茶碗が焼き物ではないことに。


 それは正真正銘のぎょく


 玉を削りだして作られた、溶けるような緑の茶碗。両の手のひらにすっぽりと隠れてしまいそうなほどの大きさだったが、その存在感は圧倒的だった。


「ああ、これ?」


 流李の視線に気付いたのか、翠燕はひょいと茶碗を持ち上げてみせる。


「まぁ、これもいい仕事よね。厚さも均一で削り出しの技術は一級」


 翠燕は茶碗を陽の光にかざしてみせる。


「そういうことでなくてだな。その玉が……」

「ああ、そうね。価値で言うなら昨日の徳利と同じぐらい――この大きさでよ? 昨日、私が使ったお金全部と同じぐらいの価値かな」


「昨日使ったって……お前は全部使い切ったんじゃないのか?」

「ああ、そう言えばそうだった。誼冗閣にまとめて置いてきたから、今頃は一欠片も残っていないに違いない」


 それこそ未練など一欠片もない様子で、翠燕はからからと笑ってみせる。そのあまりにもあっけらかんとした態度に、流李は呆れるより先に何だかおかしさがこみ上げてきた。


 結果、二人で青空に向けて笑い合っていると、遠くから声が聞こえてくる。


「うおぉぉ~い」


 声のした方向に目を向けると、鉄瓶をぶら下げた初老の男。


 男は鉄瓶を揺らしながら、悠然とそれでいて遅さは感じさせない歩調で二人のいる丘へと登ってきていた。かなり恰幅が良く、それに合わせたように頭も随分と大きい。

 

 その大きな頭の上に冠をちょこんと乗せている様は、いささか滑稽でもある。


 大きなくりくりとした眼。皺はさほど刻まれておらず。髪も髭もほとんどが黒々としたままだ。その髭は顎と鼻の下に八の字に生やしているだけで、あまり威厳を出すのに役に立っているとは言えない。


 しかし、その男が着ているころもこそは龍鳳りゅうほう直垂ひたたれだ。


 真黄に染め上げられた直垂に金糸で刺繍され浮き上がる龍と鳳凰。二つの聖獣の爪は共に五本ずつ。

 その数はまさに皇帝にのみ許された数。


 そう、この男こそが大泰国皇帝だいたいこくこうてい――


 ――ちょう獅音しおんその人であった。


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