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剡旗伝  作者: 司弐紘
第四回 遺言屋は剡く
31/33

拾 翠燕、さえぎるものなし

 徒歩で班等魏礪フラギレの騎馬兵に向かってゆく。


 それは自殺行為以外の何者でもないだろう。しかも得物は旗一本なのだ。

 そしてその旗を振るう距離に到達する前に、班等魏礪独特の馬上でも使える短弓から放たれた数十本の矢がまとめて翠燕すいえんへと殺到してゆく。


 が、翠燕は全く速度を落とさない。飛んでくる矢に向かって逆に突撃をかけているようなものだ。そしてやじりが自らの身体を貫く寸前に、翠燕は旗を一降り。


 それだけで矢のことごとくが力を失って、翠燕の周りに落下してしまった。その異様とも言える光景に、班等魏礪達の攻撃の手も一瞬止まる。

 その一瞬で、翠燕はさらに間合いを詰める。


 そこでまず旗を一振り。馬上の兵をたたき落とす。その反動でさらに旗をぐるりと振り回して、別方向から襲いかかってきた馬上戟の一撃を、旗の布地にくるんで無効化し、さらにそのげきを振るった兵士も馬上から引きずり落とす。


 その早業に再び班等魏礪達の動きが止まる。そしてまたもやその隙に、翠燕が前進する。


 完全に馬群の中に翠燕の小柄な身体は埋没してしまった。これでは短弓は使えない。馬上戟も味方に当たってしまうので横に振るうのは難しいだろう。

 そうなると突くしかないのだが、翠燕の動きが速すぎる上に、縦横に振り回される旗が視界を遮る。


 ならば、と馬の腹を横に並べ翠燕の進路をふさぎにかかる。


 だが、それでも翠燕の動きは止まらなかった。まず旗を地面すれすれに旗を差し込むと、それを馬の眼前で振り上げる。すると、馬はその旗の動きに操られたように、その場で竿立ちになってしまった。


 その一瞬に、翠燕は独楽のように回転しながら馬の足下をくぐり抜ける。


 動きそのものよりも、竿立ちになった馬の下とをくぐり抜ける、その胆力の強さに班等魏礪達も驚きに目を見張った。そして、その頃には、単騎で突撃をかけてきたこの戦士が女――それも若い娘だと言うことが知れ渡り始めていた。


 班等魏礪達にとって、女など家畜とさほど変わらない。その家畜同然の相手に今のところやられっぱなしだ。


 しかも、この娘はさらに驚きの行動に出た。竿立ちになった馬から振り落とされた兵士を、旗でふわりと受け止めて安全に着地させたのだ。


 しかも自らの進行速度には全くの淀みがない。後ろに目がある、というようなことよりも、敵を助ける翠燕の行為自体が、班等魏礪の目にはあまりに不思議な行為に思えたのだ。

 しかも、それを女がやっている。


 考えてみれば、この女は自分達の中に突っ込んできて、一人も殺していない。重傷を負わせることもなかった。


 班等魏礪達はそれを嘗められているとは考えなかった。自分達相手にそんなまねが出来るということは、この娘の戦闘能力が自分達よりも遙か高みにあるということだ。

 殺す方がよっぽど簡単なことは、全員が知っている。


 その内の一部はこう考えた。


 偉大なる戦士には相応の礼を。ここを通りたいのと言うのなら、そのまま通してやればいい。同胞の命を奪おうというのでもないのだし。幸い今は首長や頭からの命令はない。


 また一部はこう考えた。


 女などに好き勝手されるのは全く気にくわない。しかるべき罰を食らわせてやるべきだが、今はまずい。万が一にも自分が負ける可能性がある。女に負けたとあってはそれこそ面目も何もあったものではない。


 そして残りの大部分。


 難しい理屈はなにもいらない。ただ単に怖かった。赤い旗を翻して無敵であるはずの自分達の中を、軽々と突っ切ってゆく。そんな生き物が存在するなんて。


 関わってはいけない。草原で生き抜くためには、自分の身が危ういと感じたらとにかく一目散に逃げることだ。


 そして、翠燕のあだ名通りの光景が出現した。思いはそれぞれであったが、兎にも角にも翠燕の前から、騎馬が退き始めたのだ。遮るものがなにもなくなってゆく。


 それはまるで炎の旗が、班等魏礪をきりひらいてゆくかのようだ。


 翠燕はこれ幸いとさらに速度を上げてゆく。すると益々、翠燕の掲げる炎の旗が班等魏礪を引き裂いていくように見えた。空から見れば、班等魏礪の騎馬隊に、大きな楔が打ち込まれているように見えるだろう。


 だが、そんな風に翠燕が通り過ぎた後の班等魏礪が全員大人しくしていたわけではない。前しか見ていない翠燕を絶好の的だと見なしたのか、幾人かの兵士が短弓を引き絞る。


 その内の一人の右腕が突然消失した。


 切り落とされたのだ、とその兵士が気付くその一瞬に、さらに幾人もの兵士の右腕が切り落とされる。異変が起きているのは理解できた。しかし、何が起こったのか本当にわからなかった。


 それが、一人の男の手によるものだと班等魏礪達が気付いたのは、弓を撃とうとしていた兵士達の右腕が軒並み消失してからだった。


「女をけつ背後から襲ってんじゃねぇよ」


 呉鉤ごこうをぶんぶんと振って血を払うと、その男――偉門いもんは同じように翠燕に狙いを定めていた兵士達に風のように襲いかかる。呉鉤二本を逆手に持って、次々と人間に襲いかかる様は、まるで牙を剥いた虎だ。


 そしてこれこそが偉門本来の姿。


 “虎牙風こがふう”のあだ名のままに血風渦を巻いて、翠燕の通った道を綺麗に掃除してゆく。翠燕が背後を全く気にしないのは、偉門の存在があるからかもしれない。


 その翠燕は遂に班等魏礪を真っ二つに引き裂いていた。目の前には残るはダヤンの掲げる、黒に黄色で枠取りされた大旗だけだ。


甚任じんにんはここ?」


 そこで立ち止まり、翠燕は躊躇せずに天華の言葉で話しかけた。ダヤンはそれを理解できることを公にしようかするまいか、一瞬考え込んだ。

 それは班等魏礪の体質の変化に関わっているからだ。奪う、おかすばかりだった班等魏礪も、兄の方針によって交易に手を出し始めている。交易のためには色々な部族の言葉を覚えること。そして定住すること。

 だが――


 ――それは天華の真似をすることだ。


 と保守派が反発してくることは目に見えていた。


 だが、この娘はそういった事情を知ってか知らずか――恐らくは知っている――平然とこちらに譲歩を求めてきている。


「言わないなら、特別に扱うわよ――死にたいの?」

「あの城をくれるといった男の使いなら、確かにその天幕の中にいる。というか勝手に潜り込んだ」


 脅迫に屈するようにダヤンは翠燕の問いに答える。確かにダヤンの背後には豪奢な刺繍が施された白い天幕があった。恐らくは王族専用の天幕なのだろう。


「ありがとう。さっきも言ったけど、邪魔しないならそれでいいわ」


 そして班等魏礪を束ねるダヤンの眼光をものともせず、翠燕はずかずかと天幕へと近づいてゆく。そして肩越しに振り返りながら、


「あんた達はどうするの? 貰える城はなくなったわよ。それにさん王は間違いなく死んでる。約束を果たすべき相手はここにはいないわ」


 ダヤンは唇を噛んだ。


 翠燕の指摘が完全に図星だったからだ。ここまで同胞を率いてやって来たが、このままでは空振りに終わってしまう。


 そして、どうやらそれは覆せそうもない。


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