玖 翠燕、邪仙を追う
「仲印殿、久しいわね。なかなかお元気そうで喜ばしい限りだわ」
しかし、翠燕はそれを当然のことだと受け止めているらしく、ごく平静な口調で隼王に声をかける。
「はっ!」
隼王もまた、ますます畏まって翠燕の声を受け止めた。
「久安公主様のご活躍のお噂も聞き及んでおります。此度も、天華の危機を救っていただきましたこと、感謝の言葉もございません」
「それ嫌味? 私は何もしてないわ。今、あなたがいい格好でここに駆けつけてこられたのは、偉門と流李のおかげよ」
「は、それは重々承知しております」
ますます頭を下げる、隼王。
「翠燕が公主だって話は聞いてるだろう。亡くなったあいつの国は楼がおかしくなりかけたとき、海西州の連中が聖なる血統を受け継ぐ夏一族を王に押し立て作り上げた国なんだ。史書では多分、南楼と呼ばれることになると思う。その南楼を滅ぼしたのが隼王――と殿下自身はそう思っている」
拝跪したままの偉門が、囁くような声で言った。その不思議な物言いに、流李は思わず偉門を見る。
「殿下の若い頃、つまりは泰という国の黎明期だ。殿下はその先陣にたたれて、あらゆる国に死と恐怖をもたらした。その威名は天下に鳴り響いていてな。殿下が南楼へと兵を進められた途端、南楼の重臣共は王を裏切ってその首を取り、報復を恐れたのか息子達は皆殺しにし、娘、要するに翠燕を奴隷として売り払った。早い話が勝手に国が潰れたんだ。実のところは皇帝の命もあって、殿下は南楼に対しては気長に降伏を待つつもりだったんだがな」
「そんな……」
その説明で、今回の偉門の策は理解できた。
隼王は二度と「夏」の旗があるところは攻め込まないだろう。だが、隼王が責任を感じるのは間違っているように思える。それに……
「翠燕の奴、最初の内はお前に厳しく無かったか? あいつはなそこらの男に負けないぐらい強いし、頭もいい。だけど女の身だから世に出ることが出来ない」
それは流李も感じていることだ。それを翠燕も感じていたとは。いや、考えてみれば同じ思いを抱えていたからこそ、自分に苛立っていたのかも知れない。
「が、あいつが生き残ったのは、女だからでもあるんだ。かなり複雑なんだよ。だから、殿下相手にも態度を決めかねているんだ。それであんな事になる」
翠燕は何処か居心地悪そうに隼王の言葉を聞いていた。
「殿下も翠燕を嫁に欲しがっているから、話が諄くてなぁ。二人が会うと大体あんなもんだ」
「なるほ……え? え~~~!?」
「隼王には正妃がいない。側室もいない。まぁ、伎楼ぐらいには通ってるだろうが」
「そ、そ、そ、それで翠燕は?」
「隼王の申し出は知ってるが、受ける気があるのか無いのか」
そういえば、偉門もまた翠燕に懸想しているのではなかったか。
「偉門!!」
その時、助けを求めるような翠燕の声が響く。
「持ってるんでしょ! 返して!!」
言われると偉門は、あっさりと立ち上がった。この場での最上位者は翠燕なのだから、翠燕に求められれば、拝跪も何もないと言うことなのかも知れない。
偉門は懐に入れていたらしい、例の赤い布――翠燕からの報せを包んだあの布だ――を取り出すと、恭しい手つきで翠燕に差し出した。
「やるか? 没遮娘。仙人が乗ってそうな雲なら班等魏礪の本陣にむかったぞ」
「そのあだ名が一人歩きするのは気分が悪いけど、今回ばかりはそうも言ってられないわね。夷共を押しのけてでも甚任を追わないと」
受け取った赤い布を広げ、持っていた棍に括り付ける翠燕。
その布が風をはらんで、羽ばたくようにしてその全容を明らかにした。
それは天華の聖なる血統、夏一族の末裔である証。赤い炎の中に踊る、雪のように白く輝く“夏”の一字。それはまるで周囲に残る「夏」の旗を従える、炎の王者のようだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
たまらずに流李が声を上げた。
「まさか翠燕、あの雲を追うつもりか? 私も見たが、あれは班等魏礪達の向こう側に……」
「ああ、まぁ普通は無理なんだけどね。私にはね、そういうの関係ないの。やると決めたら、絶対やるし、追うと決めたら絶対に追い詰めるの。それで不名誉なあだ名がついてまわって……」
「あだ名?」
「それよりもね流李。さっきあなたに渡した『林旗図』だけど、時々は観に行ってもいい? 草順州のあなたの家に行けばいいのよね」
何という娘だ。天華の誰もが震え上がる、班等魏礪の中を突っ切ろうとしているのに、自分が生き残ることを微塵も疑っていない。しかも心なしか頬を染めているのはどういうわけだ?
「ああ、それは無論構わないけど……何をそんなに遠慮しているんだ?」
「あ、あのね、その……仕事以外で人の家に行くことがあんまりないから、どういう風にすればいいのか、よくわからなくて」
なるほど、そういうことか。流李は思わず笑い出してしまった。
「お前に教えることが、私にあるとは思わなかったぞ。翠燕、友の家を訪ねるのに心構えなど必要ないんだ」
「そ、そうなんだ……」
ますます頬を染める翠燕。初めて見る年相応の翠燕の表情に、流李はさらに大きな声を立てて笑う。その笑い声にいつしか翠燕の笑い声も重なった。
「さあ、これで後顧の憂いはなくなったわ! 流李必ず行くから待っててね」
そう言いながら翠燕はすったかと班等魏礪の本陣へと向かってゆく。
「ああ。私も焦らずにやっていくことにするよ。何も国に認められることが全てではないとわかったしな」
その背中に流李が呼びかけると、翠燕は炎の旗を振ってそれに応えてくれた。
「隼王殿下、いや仲印殿。俺に今褒美をくれませんかね」
出し抜けに偉門の声がする。流李がそちらに目を向けると、二本の呉鉤をぶっちがいに腰の後ろにさして殺気を漲らせた戦士がいた。一瞬、偉門とは思えないぐらいの迫力だったが、背の高さは間違いなく偉門だった。
「よい、許す」
そんな殺気を漲らせた相手に、隼王は笑みさえ浮かべて見せた。
「俺はまだなんにも言っちゃいませんがね」
「あの公主は、此度も後ろのことを気にはしないのだろう。しっかり守ってやれ。お前の軍籍はそのままにしておく」
「……言っときますけど、俺は猟犬じゃねぇんだ。捕った獲物は自分で喰いますぜ」
そんな偉門の言葉にも、隼王は涼やかな笑みを見せるのみ。偉門は突然呉鉤を両手で抜き放つと、しゃんしゃんと音を立てて、縦横に振るう。
すると偉門の泥だらけの衣服が切り刻まれ、上半身裸になる。偉門はちぎれとんだ布を呉鉤の先に引っかけると、それを頭巾のように頭に巻き付けた。どこからどう見ても立派な山賊だ。
そして翠燕の後を追う、偉門の背中には虎の彫り物が牙を剥いていた。しかも数多の戦場で傷を受けたせいだろう。その虎はあまりにも傷だらけで、縞模様なのか傷跡なのかわからなくなっている部分もある。
それを見た流李は反射的に思い出す。
甚任が言っていた、翠燕の言葉を。
(そうか、翠燕の答えはもう出ていたのか)
とことんまで素直ではない、友の顔を思い浮かべ再び笑い出す流李。そんな流李の耳に、翠燕の――夏翠燕の大音声が聞こえてくる。
「聞けぇ!!! 夷共!!!」
その声は草原全てを地平線の彼方まで圧した。
「お前達が匿う、郭甚任に用がある!! 素直に私を通すなら、これ以上の危害は加えない!!」
ガンッ!
翠燕の棍――いや、旗竿が地面に打ち付けられた音だ。
「が、私の邪魔をするというなら覚悟を決めろ!!」
炎の旗が大きく翻る。
「我が名は没遮娘・夏翠燕!!」
炎が遂に侵略を始めた。草原を焼き尽くす燎原の火のように、ゆらゆらと蠢きながら、それでいて目を疑うような速度で、草原を駆け抜けてゆく。
「没遮娘・夏翠燕!!!」




