陸 光、空を奔る
「兄者、あれは何のま呪いだ?」
朝の身を切るような風が吹きすさぶ中、馬上で瞑目していたダヤンにスルゴンが馬を寄せながら尋ねてきた。身綺麗なままのダヤンに比べ、スルゴンの鎧は随分と薄汚れていた。鎧だけでなく、身体のあちらこちらに真新しい矢傷も見える。
班等魏礪ももちろん、突然泰軍陣地に現れた「春」「夏」「秋」「冬」の旗に気付いてはいた。
しかし、それにどんな意味があるのかはわからない。そして今、班等魏礪達にとって“わからない”と言うことはそれだけで問題であった。
天華の民など、自分たちが近づけばちりぢりになって逃げ出すと決まっていたはずなのに、今度の連中はわけのわからない物を作り上げて、必死になってその場に留まっている。そして、現実に笑い事では済まない被害が出ている。
天華を侮っていた班等魏礪の民の中に、それと正反対の感情が生まれつつある。
(その最たる者は、このスルゴンだな)
と、ダヤンはどこか他人事のように感じていた。いや、それ以前にどうしてこの弟が生きているのか不思議でならなかった。泰軍が作ったあの砦では、予期しなかった損害が多数出ている。真っ先に敵陣に突っ込むこの弟がなぜ生きているのか。
大方、味方を盾にして無理矢理逃げ出して来たのであろう。
その処罰でこいつを殺すのは後回しにして、今は何としても高景城に入らなければならない。ダヤンの耳にはひたひたと迫り来る隼王の軍勢の息遣いが聞こえていた。
決意を固めなければならない。
班等魏礪の指導者とは強くあらねばならない。だがそれは民を安全に導いてこその話で、そのための必要条件として強さが一番に求められる、というだけの話なのだ。
つまり今の状況はダヤンにとっても非常に良くない。
「スルゴン、あれがどんな呪いであろうと問題ない」
「し、しかし兄者」
「天華人が何を企もうとも、蹄の下で踏みつぶしてしまえ。それが我らの流儀ではないか。今更何を悩む」
「だ、だが、あの壁は!? 穴は!?」
「穴は馬と人の屍体で埋め尽くせばいい。あの壁も越えるのが困難だというのなら、その前に坂道を作ればいいだろう。穴と同じように馬と人とで」
「あ、兄者それでは……」
言い返そうとするスルゴンだったが、その時、兄の碧い瞳に宿る狂気の光に気付いて、そのまま黙り込んでしまう。
「先陣は無論お前だスルゴン。自分で望んでいたことだ。まさか否とは言うまいな」
スルゴンは思わず心の中で草原の神に祈りを捧げた。
天華には様々な神様がいる。
だから、班等魏礪の猛攻を前にして兵士達は色々な神の名を唱えた。一番多いのはやはり軍神たる、次郎真君の名が多い。
流李も次郎真君の名を口の中で何度も唱えていた。
何しろ偉門から、
「今度来られたら防ぎようがない。残った連中はみんなまとめて穴の中で縮こまるように命令してある」
と宣言されたのだ。
つまり、流李も今は偉門や欧練達と共に穴の中で膝を抱えて、がくがく震えているしかないのだ。
「流李殿、いよいよの時は俺が刺します。ご安心を」
女の身である流李が班等魏礪に捕らえられたとすると、まず簡単に殺してはもらえないだろう。想像するのもおぞましい恥辱的な目に遭わされることになる。
「欧練、そんな気遣いは無用だよ。もう敦の奴が急使に発ってからもう六日目だし、援軍を迎える用意も調ってるし、順調すぎるぐらいさ」
「しかし仲大殿。六日といっても計算上のこと、それに援軍を迎える用意とは……」
「六日かかる計算で、本当に六日かけていたら天華は未だ定まらず、だ。泰正規軍の実力をあまり嘗めるんじゃねぇぜ」
と偉門は眼光鋭く、流李の問いに答える。
「それで迎える準備ってのは、お前が書いてくれたこの旗だよ。というか、これがどんな意味があるのか本当にわからないのか?」
流李は言われて視線を旗へと向ける。そこには「春」「夏」「秋」「冬」の内、「夏」の字が書かれた旗があった。
「これが……何か?」
「つまり……ああ、その話は後だ。奴らが来たぞ」
偉門の言葉通り、もうすっかり慣れてしまった蹄の音が大地を揺るがす。が、それもまもなく静かになっていくだろう。疑似城壁と落とし穴を前にして、さすがの班等魏礪の騎馬隊も速度を落とさざるを得ない。
――そのはずだった。
しかし、いつまで経っても蹄の音は止まない。それどころか思わず耳をふさぎたくなるほどの、阿鼻叫喚そのもである悲鳴まで聞こえてきた。一体何が起こっているのか。
「ちゅ、仲大殿、こ、これは一体?」
「あ、あ、兄貴、こりゃ、まさか」
欧練には何か当たりが付いたようだ。流李が思わず欧練へと目を向けると、
「……え~多分、班等魏礪は穴を屍体で埋めて、突き進む方法を選んだんだと思う」
「城壁は? どうするんです?」
「え? えーと、どうなんだ兄貴?」
「穴と同じだ。城壁の前に屍体を積み上げて乗り越えられるようにする気だろう。考えてはいたんだが、一番やらないだろうという方法で来たなぁ」
何処か呑気そうに答える偉門の姿を見て、流李も欧練もほっと胸をなで下ろす。その余裕のある態度から、何か対抗する方法があるのだと思っても仕方のないところであろう。
が、偉門の口から放たれたのはとんでもない言葉だった。
「流李、俺の方が欧練より上手くお前を殺せると思うぞ」
流李は目の前が真っ暗になった。
実際、その場の光景を表す言葉としては、凄惨、地獄などという言葉よりは狂気という言葉の方が似つかわしいだろう。
味方が味方を踏みつぶし、それによって血路を開き押し進んでゆく。
犠牲となった兵や馬が放つ断末魔の叫びは、命という自分の唯一無二の財産が、これ以上ないほど理不尽に使い捨てされたことに対する恨み言に満ちていた。
しかし、そこに救いの手を差し伸べる者はいない。
強者が全てを手に入れる班等魏礪の価値観の中にあって、弱者とはそのまま“悪”なのだ。
すなわち、味方に土台にされようと埋められようと、それはそういう状況に追い込まれた本人が悪いのであって、踏みつけてゆくかつての味方達の目には一片の同情もない。
むしろ、これで天華人の仕掛けに惑わされずにすむと、誰の目にも喜びが浮かんでいた。
その幾人かがまた、城壁前の土台となり、落とし穴を埋めて地を均してゆく。
生き残るのは班等魏礪の中でも精強中の精強。
そんな一団が、ついに偉門苦心の防御陣を突破してきた。
そこにあるのは「春」「夏」「秋」「冬」が書かれた幾つもの旗。この旗の群れを除けば、目指す高景城の城門まで阻む者は何もない。
やがて追いついてきた、小集団の頭目が先に突破していた兵士達をまとめる。
とりあえず旗は無視する方針だった。今、相手をしている天華人は小癪な知恵を働かせるのが上手い。怪しい物には近づかないに限る。幸い、旗を相手にしなければ城門に辿り着けないという配置でもない。
念のために落とし穴の有無を確認すると、容易に見つけることが出来た。
しかも、その穴の中には小さく縮こまった天華人が膝を抱えて幾人も隠れているではないか。その姿は実に惨めだが、この連中が自分達に散々な犠牲を強いてきたのだと思うと、頭目の心中に復讐心が芽生えてくる。
すでにここまで来るのに、何の不都合もないほどに地均しは済んでいた。さらに自分に指示を出す上位者はまだこの場にはいない。
ならば、今ここで天華人を殺戮し尽くすのに何の問題があろうか。
周りを見渡せば、他の兵士達も殺戮の予感に笑みを浮かべていた。
その内の一人が先走るように馬上戟を高々と掲げた。それに呼応して頭目も含めて、全ての兵士達が次々と得物を天に掲げる。班等魏礪の神へ、天華人の命を捧げる喜びに満ちた雄叫びを上げる。
偉門の指示によって、穴の中に隠れていた泰の兵士達はこの段階に至って、偉門の指示を呪った。これでは逃げようがない。何だって司令官は最後の最後になって、こんな馬鹿な指示を出したのか。
班等魏礪達の掲げる得物が陽光を反射する。その光は奪うべき命を見定めるように次々と泰軍兵士を照らし出してゆく。
やがて、穴の中の兵士達の心からあらゆる感情が抜け落ちて、迫り来る死に心を開いた時――
――別の光が空を駆け抜けていくのを兵士達は見た。




