壱 翠燕、求婚を語る
天華北部――
翠燕と流李が北西へと馬を走らせているこの一帯は、南部の緑豊かな風景とは違い、荒涼と言ってもいい風景が広がっている。
龍江という堂々たる大河が南部の大地を優しく育んでいるのに対して、北部は蒼嶺山脈から吹き下ろしてくる冷たい風が、人も大地も厳しく打ちのめしていた。
天華の数々の統一王朝も、この北部と南部であまりにも違いすぎる風土には苦心の施政を行ってきたが、結論としては、
「南部の富で北部を養う」
という状況を覆す王朝は現れなかった。
だが、その北部の厳しい環境が人を鍛えるのか、一般に天華の北部人は頑強で武に長けているきらいがある。事実、泰に対してしぶとく抵抗している国のほとんどがこの北部で興った国だった。
その他にも、北部はさらに北方からやってくる斑等魏礪―フラギレ――という騎馬民族の侵入に絶えず晒されており、こういった過酷さも北部の風土を育成するのに大きな要因となっている。
ほんの数日前まで、北部とはいっても比較的気候穏やかな草順州に住んでいた流李にとって、この北部の厳しさは骨身に堪えていた。
しかし翠燕はそんな流李を気遣うようなことは無論無く、並足よりは幾分か早めの歩調で馬を進め、高景城まで残り二日と言うところまで辿り着いている。
最初の内は青々とした麦畑の間を抜けてきたが、今二人の目の前にあるのは、人の手が入っていない寒々とした草原が広がるばかり。ここよりさらに北に進むとなると、さらに風景は厳しさを増すだろう。
「これは……思った以上に堪えるな……」
馬上の流李がため息と共に思わず漏らしていた。初夏だというのに風は冷たく、目に映る人を拒むような風景は少しも心を癒しはしない。
「それだけ着ぶくれして、槍は扱えるの」
すかさず先を進む翠燕が嫌味を放ってくる。もっとも北に進むごとに、一枚また一枚と着込んでいく流李を見ていれば、そんな嫌味も言いたくなるだろう。
「大丈夫だ。着込んでいるといっても鎧の上からだし、これを見ろ」
言いながら、肘や脇の下を翠燕に見せつける。翠燕が不審に思って目を凝らすと、そこには深い切れ込みがあった。どうやら後から自分で切ったようだ。
「……色んな意味で間違っているような気がするわ」
「それよりも翠燕は寒くはないのか? いくら何でも双園と同じ格好で過ごせる寒さではないぞ、ここは」
翠燕の出で立ちは会った頃と変わらない。考えてみると双園の気候ではいささか厚着だったように思えるが、ここでは明らかに薄着に思える。
「ああ、私は慣れているからね」
しかしそんな流李の疑念に翠燕はあっさりと答えてみせる。
「慣れ、で済むか?」
そう言いながら周囲の空気の冷たさを改めて感じる流李。
「それよりも道すがら説明した、高景城の状況は覚えてる」
「ああ。ほとんどが隼王の説明だったように思うがな」
隼王。
皇帝、潮獅音の実弟で本名を獅訓。字は仲印。
傑物として、その名は天華に鳴り響いており、またすでに名君としての評価を確立している獅音から、天華で一番の危険地帯、そして戦略上の要地、隼舞州を委任されていることからも、その名が虚実で無いことを証明していた。
泰に従わぬ六つの国を平らげたが、そのほとんどにおいて強引な手段を取らず、王族、文化の庇護に努め、仁将との評価も高い。
もちろん潮家の男子でもある獅訓は、兄に負けず劣らずの軍才の持ち主で、戦をすれば負け知らず。正に文武両道。泰という新しい国の象徴ですらあった。
「少し疑問に思っていることがあるのだが?」
「何?」
「その“王”という称号の持ち主は他にもいるのか?」
流李の疑問に翠燕は深く頷いて。
「進歩が見られるわね。やっぱり教え方がいいのかしら」
「翠燕!」
「いないわ」
どこか寂しげに、翠燕は答えた。
「伯声殿と、湯太保は封建制の統治手段は考えていない。そもそも王というものが発生する余地は今の天華にはないの」
「じゃあ……どういうことだ?」
「他に功に報いる手段がなかったの。それほどに隼王の立てた武勲は大きいのよ」
「なるほどな。聞くだに大した人物であるものな」
納得したように流李は深く頷くが、翠燕はそんな流李から目をそらし、
「……あの人は私と同じ徒花よ」
と小さな声で呟いた。
「そんな人物と、もしかすると会えるかも知れないかもしれないのだな。うむ、世界が広がってゆくような気がするぞ。世界を知るということは、人を知るということなのかもしれんな」
「そういった前向きな想いには応えてあげたいところだけど、伯声殿の話覚えてる?」
「は……あ、陛下か」
それを入り口にして流李は記憶をたぐる。確かに北部の環境は厳しかったが、皇帝と面会した時のことを忘れてしまうほどには惚けてはいない。
その時、確か一番最後に……
「そうかご自身で出陣されてはいないのであったな。確か牙偉門という名を聞いた」
「隼王配下の武将の一人よ」
「翠燕はその人物を嫌っている様子だったが?」
なにしろ、皇帝の前で発音すべきではない悪態をついたのだ。
「あーまあね。何しろ会うたびに『嫁になれ』ってうるさいから」
「あー、あー?」
そこで流李は首を捻る。
「嫁!?」
そこでやっと単語の意味に気付いたように素っ頓狂な声を上げた。
「嫁ってあの“嫁”か?」
「男の連れ合いになる嫁の事よ」
確かに他に意味はないだろう。
「しかしそれは嫌う原因にはならない……」
「『嫁になれ』の次にはこう言うのよ『乳を揉ませろ』」
流李は声も出せずにただ顔を朱に染める。しかし、翠燕の口は止まらない。
「あまつさえ『お前の××の割×××俺の×××を×××』とか、『裸に×××××頭の先から××××までねぶ××』」
流李はこれで良家の子女である。翠燕の言う、牙偉門という武将が話したという下品な言葉の数々は半分も理解できなかった。
が、これだけはわかる。
「そ、その人物は本当に武将なのか? しかも誉れ高い隼王麾下の」
どう考えても、釣り合わない。
「元は南葉州――一応説明しておくと、天華の一番南に近い州ね――の不良だからね。牙一門のどら息子。立場的にはあなたに似てるけど、完全に道を踏み外してるわ。ちなみに字は仲大。字だけは普通に次男っぽいんだけどね」
「それがなぜ、泰の国軍にいるんだ?」
「隼王が兵を募っていた時があってね、偉門はそれに志願したの。で、このどら息子には確かに将才はあったのよ。あれよあれよと出世して……校尉って言ってもわかんないわね。隼王麾下の部隊の一つを任されているわ」
「し、しかしだな。敵は籠城してるんだろう? おおよそ、その……籠城戦に向きそうな性格だとも思えないが」
その流李の意見には翠燕も同意だった。あの男のでたらめなほどに攻撃的な性格は、身を以て体験している。
「そうね、性格はおおよそ籠城している相手を攻めさせるには最悪ね」
「なら……」
「隼王の狙いもそこら辺りにあると思うわ。将として一回り成長させるために我慢を覚えさせようとしてるんじゃないかしら。あれで部下を無駄死にさせるようなことはしない男だから」
「ほぅ……」
毛嫌いしているはずの相手に対して、庇うような翠燕の言動が流李には少し気にかかった。
「何?」
「いや、何でもない。しかし、その仲大殿にも会ってみたくなった」
それを聞いた翠燕は、大きく目を見開き、そのまま不機嫌そうに、
「そう」
とだけ短く呟いて、後は城に着くまでの二日間、ほとんど口を開くこともなかった。




