悪魔の仕立屋1
悪魔はアルシアに手ずから食事をさせるのが好きだ。
食事の時、当初は食卓台の上に胡座をかいてアルシアの様子を見るばかりだった悪魔だが、ある夜、ふと思いついたようにアルシアを膝に乗せると、レモンと香草を乗せた海老のグリルを指先でつまんでそっとアルシアの口に押し込んだのである。
どうにも行儀が悪かったが、優しくされるのが嬉しかったのと悪魔が上機嫌になったのでアルシアは素直にされるがままになった。
それ以来アルシアの座席は悪魔の膝の上でアルシアの食器は悪魔の手である。
ある日の夜、悪魔は干したアンズをアルシアの口に押し込みながら言った。
「そろそろ婚礼衣装を作らせようと思うが、どうだ」
アルシアはもぐもぐと咀嚼し、ゆっくり飲み込んでから疑問を口にした。
「その話なんだけどね、デザインはどうすればいいのかしら。悪魔の仕立屋さんに相談すればいいの?」
「それもいいが、お前が能無しに反対されて諦めたものがあったろう。あれはどうだ」
アルシアは目を丸くした。
ノックス家御用達の針子が作ったそのデザインはアルシアは大変気に入ったのだがゴードンの気に召さずにお蔵入りになっていた。もう1年も前のことだ。
「……っ、知ってたの? なんで?」
「俺はずっとお前の首に掛かっていたんだぞ。神聖で力を封じられても見聞きくらいは可能だ」
「そっか……そうなんだ」
心の奥がぽっと温まった。ゴードンの神聖で押さえつけられていても悪魔はアルシアのことをずっと見ていてくれたのだ。アルシアの好きなものがわかるくらいに。
アルシアは悪魔にもたれて胸に頬を擦りつけた。
悪魔は喉を鳴らして尻尾をゆらゆらさせた。
「じゃあ、それがいい」
「わかった。伝えておこう。細部は変わるかもしれんがなア」
「ううん、充分よ。ありがとう」
アルシアは体を捻って悪魔にちゅっとキスをした。だいたい礼を言うと悪魔は口付けをねだってくるもので、いつの間にか言われなくてもキスをするのが習慣になっている。
最初は恥ずかしかったが、慣れるとアルシア自身も心地よく感じるようになった。
アルシアは悪魔の尻尾に指先を絡ませながら尋ねた。
「ねえ、その仕立屋さんってどんな悪魔なの? あなたと同族?」
「いや、違う。そもそも……あいつらは人間の分類で言えば悪魔というよりは魔物だろう」
「魔物と悪魔って仲がいいのね」
「種族にもよるがなア。あいつらと俺たちは持ちつ持たれつの関係だ。衣装を作ってもらう代わりに、俺たちは魔力や海月を払う」
「……海月?」
魔物が魔力を欲しがる、は、まだわかる。……だが、なぜ海月。
「そうだ。海月の発光するのが綺麗で好きだというのと、あのぷるんとした食感が好きなんだそうだ。だがあいつらは海が苦手でな」
「それで持ちつ持たれつなのね。ねえ、魔力はあげても大丈夫なの?」
「普通のことだ、問題ない」
「痛くない? 体調悪くなったりもしない?」
「あア。クク、多少は疲労感が出るがな、アルシアの口付けですぐに治る」
「……もう、本気で心配しているのに」
「嘘ではないぞ」
アルシアは頬を膨らせて、愉快そうに笑う悪魔の胸を押した。けれどもぎゅっと悪魔に抱きしめられて結局それに身をゆだねる。ゆっくりした悪魔の鼓動が心地よい。アルシアは深く息を吐いた。
悪魔がいったいアルシアのなにに惚れたのかは謎だった。アルシアは間違っても絶世の美女ではないし男を癒やすタイプでもない。
だが悪魔に尋ねても「胎児のときから旨そうだった」と物騒な愛の言葉を返されるだけで、結局謎のままである。
アルシアは抱きしめられたまま悪魔の顎のあたりを見上げた。
「その仕立屋さん、どこにいるの?」
「鳥に聞いてみたがこの側の森にいるようだ。健在なようでなによりだ」
悪魔は嬉しそうに言う。
友達なのかしら、とアルシアは思った。
「それで、その人……魔物、どんな姿なの? 似てないんでしょ?」
「俺たちとは段違いだ、あの女はとても美しい」
「……え?」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
「……女? 美しい?」
「神々しいほどに美しい女だ。安易に手を出して穢してはならない、そう思ってしまうようななア」
悪魔の口調は優しく、その仕立屋を想像しているのかうっとりとした顔で宙を眺めている。
アルシアはとっさに悪魔から顔を反らした。
心臓が激しく鳴り始めた。
(私、美しいなんて言われたことない)
こんなにうっとりした顔で悪魔に見つめられたこともあっただろうか。
しかも相手の仕立屋は女だという。それも昔馴染みの。
(……特別な相手なのかな)
冷や水を浴びせかけられたような気分だった。心臓がぎゅっと絞られたようで、アルシアは息をするのも忘れた。
悪魔がアルシアをのぞき込んだ。
「どうした、アルシア。気分が悪いか?」
「……なんでもない」
アルシアが悪魔の視線から逃げるように俯くと、悪魔はぺろりとアルシアの頬を舐めた。
「なんでもないという顔ではないぞ。我慢はしなくていい」
「ほんとになんでもないのよ。ちょっと疲れただけ」
「……そうか。なら休むべきだな」
悪魔はいつも通り、優しい手つきでアルシアを抱き上げた。鋭い爪で傷つけることもなく壊れやすい宝石を扱うかのように丁寧に運ぶ。
いつもならそうされたら幸せに感じるのに、今日はモヤモヤとした思いが心の中に溜まって気分が晴れない。
寝台に寝かせられたアルシアは早々に起き上がって、部屋に新しくやってきた大きな鏡をのぞき込んだ。
鏡の縁にはエメラルドの首飾りと似たような細工が付いていて、市場で見つけたとき、悪魔がこれは良い品だと太鼓判を押した。古くて曇った鏡だったが、悪魔が磨き上げたおかげでそれはピカピカになっている。
鏡に映った自分の顔は、曇っていた。
わかっていたことだがやはり美人ではない。
醜いわけではなかったけれど、「神々しい美しさ」からはほど遠いだろう。
(悪魔が浮気をするとは思わないけれど……)
アルシアはため息をついた。
浮気はしなくても、本当は心がその女の方を向いているのかもしれない。悪魔は彼女を穢したくないと表現した。だから彼女とは結婚せず、アルシアを選んだのではないか……。
あるいは昔、付き合っていたという可能性もある。もしかしたら元妻かもしれない。人間とだって結婚できるのだから魔物とだって結婚できるに違いない。
結局その日、アルシアはあまり眠れなかった。
***
ゴードンが、ローズと舌を絡め合うようなキスをしている。じっくり絡み合った後で、二人は幸せそうに抱き合ってひそひそと囁き始めた。
「ああローズ。お前と結婚できたらよかったのにな。なぜお前が婚約者じゃないんだ」
「ゴードン様あ……大好き、ずっと一緒にいたいわ」
「俺もだ。お前は神々しいまでに美しいな……穢したくない。ずっと私の女神でいておくれ。だから仕方がないんだ、ふがいない俺を許してくれ」
……嫌
「ああ、許しますわ、ゴードン様! でも教えて。私のこと、アルシア様よりも愛してる?」
「もちろんだ! アルシアのことなど欠片も愛していない。私が愛するのはお前だけだ……ああ、あんな醜いアルシアと結婚しなければならないなんて反吐が出る」
「ふふっ、酷い人」
……嫌、やめて……
「そうだなア。アルシアは鈍い女だ、どうせ適当な褒め言葉を言っておけば気づくまい。結婚してからもデートはできるだろうよ」
「きゃあ、嬉しい! 充分に愛してね?」
「あア、もちろんだ」
ゴードンの白い肌はどんどん褐色に染まっていく。口は裂け、歯は鋭くなり、舌がべろりと出て悪魔の姿になっていく。
そんなゴードンか悪魔かわからぬ男に、ローズは愛おしそうに抱きしめられて幸せそうに微笑んでいる。
「馬鹿な女だ。俺が愛するのはローズだけだというのになア」
蔑むような褐色のゴードンの顔に、悪魔の顔が重なった。それは、うっとりした顔でローズを見ている。
ローズと悪魔が熱烈にキスをし始めた。腕を首に絡めて、足を絡ませ合って、息つく間もないくらいのキスを続けている。
ローズが横目でこちらを見た。
ローズは口を離すと、うっとりした顔でほうっとため息をついて、こらちに顔を向けた。
勝ち誇った笑顔で、言う。
「愛されると思った?」
***
「――――っ!! いや!」
「アルシア!?」
アルシアは飛び起きた。悪魔に抱きしめられる。恐慌状態に陥ったアルシアは暴れた。
「いや、やだ! やめて! いや!!」
「アルシア、落ち着け。夢だ、魘されていた」
「……あ……」
窓の外は明るかった。夜寝られなかったせいか、いつの間にか昼寝をしてしまったらしい。
悪魔に指先で頬を拭われて、ようやく自分が泣いていたことに気がついた。
アルシアはとっさに悪魔にしがみついた。
「……やだ、やめてよ」
「なにがだ?」
「行かないで、捨てないでよお……私を嫌いにならないで……」
まだボロボロと涙が出てくる。
アルシアは赤子みたいに泣いた。
悪魔は尻尾の先をへにょりと曲げると、力なくそれを寝台に垂らした。
「アルシア、お前を捨てることも嫌いになることもない。悪魔の夫婦は一心同体だ」
「いや、だよお……他の女の人のところに行かないでよ……お願い……」
「行かない。当たり前だ」
「気持ちの浮気も嫌なの……他に好きな人も作らないで……無理かもしれないけど、でも嫌なの……」
アルシアは泣き止まない。
悪魔はアルシアを抱きしめながら途方に暮れた。
正直なところ、嬉しかった。自分だけがアルシアに執着しているのではなく、アルシアもまた自分を求めているのだとわかったからだ。
だが、なぜアルシアがここまで情緒不安定になっているのかがわからない。
こういうときに人間の娘になにを言うべきなのかもよくわからない。
悪魔は仕方なく、アルシアが泣き疲れるまで抱きしめたまま、アルシアの顔を舐め続けた。
***
約束していた、仕立屋に合う日になった。
悪魔の尻尾の先には土産にする海月が大量に刺さっている。
それを見ると、悪魔の仕立屋への思いの多さを見せつけられたようで、アルシアの気持ちはまたモヤモヤした。
結局、仕立屋と悪魔の関係を問いただす勇気が出ないまま今日を迎えてしまった。
アルシアの気分は晴れぬままだ。悪魔には謝ったが心の中の黒々とした感情はしっかりと残っている。本当のことを言えば、仕立屋に会いたくなかった。
「さあ、森へ行くぞ」
「……家に呼ぶんじゃないの?」
仕立屋は客の家へ来て採寸をするものだ、そう思っていたアルシアは驚いた。
悪魔は首を横に振った。
「あいつはアルシアの部屋に呼びつけるわけにはいかない。こちらから出向くべきだ」
(……大事にしているのね)
アルシアの心にまた一つ、黒い感情が溜まる。
もしかしたらアルシアと悪魔が一緒に暮らしていることを知られたくないのかもしれない。そうとまで考えてしまう。
悪魔はアルシアを抱えた。そして夜の街を屋根から屋根へと飛ぶように駆け、あっという間に森へ着く。
いつもなら心躍るその移動にもアルシアの心は沈んだままだった。
その仕立屋はどれほど美しいのだろうか。きっと月がかすむほどの美しさに違いない。そして悪魔はうっとりとした顔で仕立屋との再開を喜び、アルシアがそこにいることも忘れたような様子で、跪いて仕立屋のつま先にキスをしたり――
アルシアはぎゅっと悪魔の首に抱きついた。
「……ねえ、私のこと、本当に、好き?」
「もちろんだ、愛しているぞ。……アルシア、なにを考えている。なにがあった?」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではない、俺のアルシア。悪魔は嘘をつかない。俺はお前を喰いたい。……だから、ここへ仕立屋に会いに来たんだ」
「……うん。ねえ、私も好きだよ」
「あア。信じているぞ」
アルシアは悪魔を見上げた。
そういえば、アルシアが悪魔に言葉で愛情を伝えたのは初めてだったかもしれない。
「……嘘じゃないよ。人間は嘘つきだけど」
もしかしたら、悪魔は悪魔なりに不安なのかもしれない。
(……私と一緒ね)
そう思うと、少しアルシアの気持ちは落ち着いた。
悪魔はアルシアの頭を撫でて舌でアルシアの唇を舐めた。それから、森の開けた場所に出てアルシアを地面に下ろす。
黒い夜会蝶が、月の光を受けてきらきらと鱗粉を振りまきながらひらひらと舞っている。
「あア、ほら、来たぞ」
アルシアはぎゅっと悪魔の腰に抱きついた。
怖かった。
美しい仕立屋に悪魔が取られてしまうのが。
ガサガサと草木をかき分ける音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、限界まで音が大きくなったかと思うとぴたりと止まった。
悪魔はニイと口を開いて挨拶をした。
「俺だ。久しぶりだなア?」
ひときわ大きな音がして、突如、二人の目の前に仕立屋は現れた。
アルシアはぽっかりと口を開けた。
悪魔はうっとりした顔でアルシアの足首に尻尾を巻き付けた。
「ほら、神々しいだろう?」
確かに、美しいなんてものではなかった。
闇にいてもわかる、自ら発光しているかのような神のような生き物だった。信じられないくらいの美しさ。
……だけど。
「う、そ」
アルシアは地面にぺたりと座り込んだ。
嫉妬心など遙か彼方に消し飛んだ。目眩がして、倒れそうになる。
悪魔が心配そうに抱き上げてくれたが、もはやアルシアの意識は完全にどこかへ飛んでいた。
その仕立屋は、アルシアの寝台よりも遙かに大きな、真っ白な大蜘蛛だった。
新作『ネクロマンサーと太陽娘』( http://ncode.syosetu.com/n5933eg/)、ただいま連載中です。そちらもどうぞよろしくお願いします。