1.5倍の差
31. 1.5倍の差
親分も「情報を呉れる」のに熱心になったのは、一つは商品が高額だったせいでもある。これは重要なポイント。一セットの受注であっても、数百万円が親分の月間売り上げとして転がり込む。S工業も少なくないマージン(=手数料)が儲かる。自分の営業成績が嵩上げされて、親分は自社内でぐんと目立つ存在となった。
親分と言えども、社内で上役の覚えがめでたくなるのは大歓迎。安い物を売っていたのでは、こうは行かない。トン5万円を2トン余分に売っても、たった10万円のプラスでしかない。因みに親分は一年半後に係長へと出世したが、これはきっと私のお蔭に違いない。
この様子を観察して、私はピタゴラスの販売方程式の第四定理を発掘した:
「同じ手間を掛けるなら、高額な商品を売れ! 安物はやるな」
これは後年会社を設立してからも、「安物は扱わない」・「売るのが難しいもの」を敢えて選んで売る、という経営の基本哲理として今も生きている。儲けが仮に一割とするなら、100万円の製品なら十万円儲かるが、一万円のものなら、たった千円しか儲からないのを見ても分かる。千円なんて一回ランチをすれば終わりだから、この理屈は分かって貰えると思う。
さて、この後は簡単。先の「A重工+安井親分」のケースを、他の巨大工場でも応用して行けばよく、そうしたからである。
今度は別の大手B重工の通用門の前に立った。托鉢僧ならお鉢が必要だが、筆者の場合は双眼鏡。同じように一日に何度も出入りする吉岡興業というヤーさんみたいな社名の付いた車を発見した。運転手は目をパチパチさせるチック症状の男で、赤田亮介(仮名)。矢張り親分の風格があったから、直ぐに仲良くなって、1ケ月掛けてB重工の構内を一緒に巡回した。
その次は、大手C製鋼所、大手D製作所ーーーと次々にそっくり同じ「双眼鏡・親分・子分」の手法を応用して、これが販売方程式を解く「定理」として定着して行った。 筆者は一度も自分で(苦手な)「電話を掛けて・アポ取り」をやった事が無かった。
筆者は、安井親分やチック症状の赤田親分や他の販売店の親分らの、言わば「気の利く執事」、或いは「召使い」として行動し続けた。親分達は筆者を重宝し、(手下として)気安く使った。 何せ自分たちの営業報告書まで、代りに書いてくれるのだから便利・便利!願ったりかなったりであった。
ただで筆者を利用する親分達がずるいのか、それとも「本当にずるい」のは筆者だったろうか、と思う。なぜなら、「熊手でかき集める」ようにして大量の販売見込み情報を入手したのは、結果的に筆者だったから。
会社の他の同僚営業マン達は、筆者とは違って自分で電話をするのが苦にならないタチ。だから直接アポ取りをやっていた。一本釣りのやり方で、客へ電話して売り込みをやり情報を得ていた。けれども、如何に一本釣りの名人であっても、「熊手でかき集める」トロール漁法に敵う訳が無い。筆者の手持ち情報量は絶えず同僚の十倍以上で、手帳は訪問予定のスケジュールで真っ黒であった。
冒頭で述べた通り、「情報の多い素人が、情報の少ない玄人に勝つ」の事態が起きた: 図書館を出てから十ケ月程も過ぎて、気が付くと六~七名の同僚の中で、二位のセールスマンに1.5倍の差を付けて、筆者はトップに立っていた。驚くべし! 確かに自分で驚いた。