アホ、先にソレを言わんかい!
26. 先にソレを言わんかい!
うかうかすると踏み外しそうになる狭い階段を、足音を忍ばせて登った。敵地に乗り込む心地だ。登り切った最高所の踊り場で一呼吸置いて息を整えたら、目の前は鉄製の重そうな扉である。緊張の一瞬。意を決して、さっと押し開らいた処、こっちの気魄を感じたか、照明の足りない薄暗い室内に数人の黒い影が素早く動いた。
油断していた処へ踏み込まれたから、全員がハッと身構えたのが分かった。他に出口は無く入口はこっちが押さえてあるから、袋の鼠である。空気に緊張が走る中、一番入り口近くに座っていた三十五・六の男ーーー、順位から言うと仲間内で最下位の手下らしいのがこっちへ振り向くや、射るように鋭い声を浴びせて来た:
「合い言葉は!?」
間髪を入れず、こっちも切り返した:
「ヒロヨシ!42!」 関係無かったが、勢いがついて名前の外に年齢も口から出た。
彼こそが小型トラックに乗って、昼間「オッス!」の呪文で門番をたばかっていた、「顔パス」の男であった。
高所にある事務所まで、見知らぬ人間が突然舞い込むなんて会社には前例が無かった。それだけで充分不審者と見られたが、額に油汗を滲ませ思いつめた表情でにじり寄る筆者の挙動を見て、ただ者でないと判ったらしい。三十五・六の男はコマ付きの椅子に座ったまま、こっちを見上げながら後ずさりした。緊張で顔が強わ張っていた。
男を見下ろしながら、こっちは先ず害意の無いのを身振りで示した。けれども、無視したり放置すれば面倒な事になるぞと、目配せで分らせた。賢明にして用心深い男は傍の椅子をこっちに勧めて、意外にも丁寧に話を聞いてくれる風を示した。譲歩と平和条約の締結である。
ボルトを締結する機械のカタログを示して、筆者は聞くも涙の身の上話を語り、男が毎日出入りしている造船所の構内で、PRに回りたいのだと述べた。注文が取れたらS工業を通して販売し、ニ割のマージンをあげるからと持ちかけた。二割をやるなんて天国みたいに破格な条件だ。
最初、男は鼻の先でふんふん言いながら気の無さそうに聞いていた。が、「ワンセット数百万円」と聞くや、腰を抜かした。驚愕した男は直ぐには二の句が次げず、無音で口をパクパクさせてから、取り敢えず大阪弁で言い放った:
「アホ! 先にソレを言わんかい、ソレを! そら、アカンわ、アンタ! アカンでえ! アカン!アカン!」
男は計四回の「アカン」以外に、日本語を知らなかった。
※大阪弁 アホ(=標準語で、バカ)
アカン(だめ)
アンタ(あなた)
価格が精々十万円程度のものと、男は踏んでいたのだ。「忙しいのに、こんな人間の出鱈目話を聞いてられるかい!」と男の顔に書いてあった。体よく筆者を追い返す前に、A重工がどんなにドケチな会社か、男はこんこんと言い聞かせた。終に声を荒げた: 「あのなあ、アンタは世間を知らんようやが、ウチの納める 「トンたった5万円」の鉄材を、あのA重工の会社がどれ程手酷く値切るか、アンタ知ってんのか!?」
事務所の照明が近眼になるほどこんなに薄暗いのも、建物が闇社会のアジトみたいにボロイのも、何もかもA重工が値切るせいや、と言わぬばかりである。
重さが精々数キロの、ボルトを締める工具に、何処ぞのバカがそんな数百万の大金を払いたいものか!トン五万円と比べてみろ、と男の顔に「ありあり」と楷書で書いてある。筆者もつくづく申し訳なく感じた。トン五万円の千倍だから。やっぱり誰が考えても、そんな高いものが売れる筈はないとーーーこっちも相手へ協力的に考えた。
けれども、相手のありありした表情に筆者は気付かぬ振りをした。外に、自分の生きる道が無かったからである。トン五万円と言い聞かせても、後へ引かないこっちの様子に諦めたのか、男は深く吐息をついた:
「アンタの顔は、まるで人殺しみたいやな。まあ兎に角、肩の力を抜きなさい。明日、昼の一時半にA重工の通用門の前に来なさいや。大きなボルトの有りそうな処へ連れて行ったげるさかい、気の済むようにやってみなはれ。それで、アンタもワシの言う事に納得が行くやろ!」
筆者の人生に 「運命の星の輝く時」(S・ツワイク)の二番手があるとすれば、この時がそうであったろう。 販売方程式を解くカギに、初めて手を触れた瞬間である。カギを貸してくれた男の名を、安井寛明(35歳)といい、筆者より七つ下であった。




