第1話 新米下士官の初任務は山登り
上着もなしに登山をする奴は馬鹿だ。
鎧を着て登山する奴はもっと馬鹿だ。
そして今の僕は、そのもっと馬鹿な側だった。
息が白く凍る。
肌を刺す冷気の中、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。
絶え間なく吹き付ける突風と、ごつごつした岩場が歩みを鈍らせる。
着任後、初めての任務がこれかよとは思うが、新米下士官に任務拒否などできるはずもなかった。
つまり、山頂付近に潜む竜の討伐任務は最悪ってことだ。
初任務ということで、軍支給の装備をきっちり着込んでいる。
だが、竜の寝床に着いてから装備してもいいんじゃないかと思うくらいには辛い。
ベテラン兵はその辺をわかっているらしく、頭や胸だけに装備を絞っていた。
僕は部隊長が怖くて真似できない。
兜を脱いで汗をぬぐう。
北風にさらされた素肌が、あっという間に体温を失っていく。
慌てて兜をかぶり直した。
これだけ風が強いと、汗もすぐに引いてしまう。
鎧も脱ぐことができれば、どれだけ気持ちいいだろう。
こんな格好でまともに登山できるわけがない。
誰でもそう思うだろう。
僕もそう思う。
だが、僕たちは軍隊で、僕は軍人だ。
軍人でなければ、とっくにこんな窮屈な装備は脱ぎ捨てて家に帰っている。
これが任務なのだから仕方がない。
険しい山道を延々と登らされ、その先で竜と殺し合う。
重い装備とたくさんの『仕方ない』を抱え、僕は歩を進める。
それが、白竜討伐隊に配属された下士官としての任務だった。
◆◆◆
それにしても、白竜が気になる。
竜の中では弱い方らしいが、僕は竜どころか魔物と戦ったこともない。
士官学校での戦闘訓練ぐらいしか経験がないのだ。
実戦経験がないというのはよくないことだ。
そのせいで、経験を積むためこんな任務に派遣されるはめになった。
歩くうちにずれた兜をかぶりなおす。
近くを悠々と歩くヘンドリックの姿を見て、少しへこむ。
それでも、先達がいるというのはいいものだ。
彼はこちらに気づき、笑みを浮かべた。
にっこり、というよりはへへっという感じの愛想笑いだ。
まあ、彼の振る舞いに思うところはあるが、こうやって気を使われると、悪い気はしない。
ヘンドリックは、僕付きになった古参兵だった。
髪の薄い細身のおっさんだ。
兜をかぶり続けると、僕の自慢の茶髪も、いずれああなるのだろうか。
……いや、彼は僕より二回りは年上だ。
まだ心配するような歳じゃない。
そんなことより、ちゃんと装備をつけろと言うべきなのだろうが、口には出せなかった。
正論は黙っておくほうがいい。
険悪になると後が怖い。
戦闘中に後ろから刺されたら、死ぬかもしれない。
想像するだけで恐ろしい。
僕は臆病だ。
「アラン様は、竜が怖くありませんか?」
……唐突だな。
僕は苦笑しながら答えた。
「そうだな。怖くないと言えば嘘になる」
「私は怖いです」
「正直だね」
しばらく雑談していると、後ろから重い足音が近づいてきた。
バルザックだった。
妙に険しい顔をしていた。
バルザックが僕の横に並び、見下ろしてくる。
背が高いせいだとはわかっているが圧を感じた。
怒っているのかはわからないが、機嫌はよくなさそうだ。
答えを求めてヘンドリックを見るが、彼は視線を外した。
バルザックは難しい顔で僕を睨んでいる。
鎧越しでも分かるほど体格がいい。
僕よりも背が高く、筋骨隆々だ。
他の兵とは違い、装備をきっちり着込んでいる。
僕のように部隊長を恐れてそうしているわけではないだろう。
ヘンドリックとは同郷らしいが、空気はまるで違う。
バルザックは上級兵だ。
前線で戦うというより、部隊を動かすための“中核”に近い立ち位置だろう。
古参の下級兵であるヘンドリックとは、役割そのものが違う。
階級は僕の方が上だが、年齢も経験もあちらが上だ。
正直、どう扱えばいいのかまだ掴めていない。
どうしたものかと思案していると、バルザックが口を開いた。
「アラン様。下級兵と親しくしすぎるのは感心しませんな」
「そういうものかな?」
「規律の問題です。上官が威厳を失えば、いざという時に部下が動きませぬ」
真面目な顔で不満げに言う。
確かに正論だとは思う。
だが、少し厳しすぎる気もした。
これでは人間関係がうまく回らないのではないか。
助けを求めてヘンドリックを見る。
彼は完全に空気と化していた。
上官には逆らえないということか。
「すまない、悪気はなかったんだ。初任務だから緊張をほぐしたくてね」
「それならば私が話し相手を務めましょう」
なるほど。
下級兵と話すのはダメだが、自分と話すなら構わないということか。
あまり好ましいやり方ではないだろうが、ここは黙っておこう。
しかし、彼は自分の提案を素晴らしいものと信じて疑っていない様子だ。
自分に甘く、他人に厳しい。
そして、それを指摘すると不機嫌になる。
僕にとっては話しやすい人物とは言えない。
彼曰く「自分は規律を守らせる側」なのだそうだ。
階級の違いというのは、そういうものらしい。
つまるところ、僕には上官としての気構えもまるで足りていないのだ。
学生気分が抜け切らないひよっこということだろう。
彼と話すのは、上官としての振る舞いを身に付けるいい機会かもしれない。
まあ、今のところは問題なく進んでいる。
小さな衝突はあるが、それはまだ余裕がある証拠だろう。
そう考えると、バルザックの小言も悪くはない。
今はそれでいいかもしれない。
◆◆◆
僕はアラン・オーベルシュタイン。
アランという名前は、この国では有名な勇者と同じ名だ。
縁起を担ぐ親もいるが、不敬だと嫌がる人も多いらしい。
そのせいか意外と同名は少ない。
僕は一発で覚えてもらえるので気に入っている。
騎士爵家の三男として生まれ、勉強だけはできたおかげで士官学校は上位の成績で卒業した。
そのまま軍に下士官として任官され、今に至る。
任官されてすぐ、この任務に放り込まれた。
無茶苦茶な話だが、それでも今のところは生きている。
へばりながらも、なんとか歩いている。
ヘンドリックやバルザックと話ができるようになったのも、ここ数日のことだ。
それまでは右も左も分からず、ただ部隊について歩くだけで精一杯だった。
正直、下士官という肩書きは名ばかりで、現場では経験不足の新人として扱われていた。
今歩いているのは、その名の通り白竜が棲む白竜山の山道だ。
王都を出て、もう二週間は経っている。
途中まではまだ現在位置を把握できていたが、今は頂上へ向かっていることしか分からない。
目印を覚えておく余裕は、とうに消えていた。
はぐれたら終わりだな。
これだけの大所帯だ、周囲を見失うことはないと思いたいが、
魔物の襲撃で崩れれば遭難もあり得る。
とにかく遅れないことだけを心掛けて進む。
そうして今は、ただ黙々と頂上へ向かって歩き続けている。
最初は魔物の襲撃を警戒して気を張っていたが、どうやら魔物すら白竜を恐れて近づかないらしい。
途中からは野生動物の姿すら見かけなくなった。
このまま無事に目的地へ着ければいいのだが、
こんな場所に踏み込んで、生きて帰れる保証などない。
そんな、ある意味能天気な行軍に変化が訪れたのは、それからすぐのことだった。
霧が出始めていた。
視界は急速に悪くなり、歩みも自然と鈍っていく。
魔法で霧を払おうとしたが、うまくいかなかった。
白竜に由来する現象ではないかという意見が出た。
つまり、目的地は近いということだ。
気温はさらに下がり、僕の疲労は限界に近づいていた。
すでに限界だと思っていたが、どうやらまだ先があったらしい。
王都を出たときは、こんなことになるとは思っていなかった。
だが考えてみれば、当たり前だったのかもしれない。
目標は山にいる。だから山へ向かう必要がある。
戦う以上、重装備になるのも当然だ。
……その結果、重装備で山を登る羽目になる。
思わず足元の小さな石に躓きそうになった。
そのとき、ヘンドリックが心配そうに声をかけてきた。
話すと言っても、大したことではない。
自分のことや軍のことを、思いついたまま話しているだけだ。
そこへバルザックが現れ、割り込むように軍人論を語りだす。
規律とは何か、隊列とは何か──一方的な講義のようだった。
聞いているうちに、張り詰めていた肩の力が抜けていた。
士官学校にもいたな、こういう講義をする教師。
学校で学んだことは確かに多い。
だが、実体験とは別物だ。
鎧を着たまま山を登るのがこんなにきついなんて、聞いていない。
聞いていたら、任官しなかったかもしれない。
それに、竜については分かっていることの方が少ない。
竜は魔物の中でも特別な存在だ。
一体の討伐で、国一つに匹敵する富が動く。
小竜でも城が建つらしい。
だからこそ、この任務には通常の兵だけでなく貴重な魔法兵まで駆り出されていた。
国としても、本気で白竜を討つつもりなのだろう。
だが、経験のない任務で失敗が許されないとなれば、その難易度は跳ね上がる。
いや、そもそも竜を倒す経験など積めるものではないのだが。
それでも、失敗は許されない。
何かしらの成果――例えば竜の尻尾でも持ち帰らなければ。
考えるだけで胃が痛い。
胃薬は持ってきていただろうか。
僕が考え込んでいると、ヘンドリックが肘で脇をつついてきた。
バルザックは不機嫌そうにそっぽを向いている。
どうやら、考え込みすぎていたらしい。
僕は気まずさをごまかすように口を開いた。
「すまない、少し考え込んでいたようだ」
「私は構いません。アラン様が退屈しないよう、気を回していただけです」
どうやら彼なりに気を使ってくれていたらしい。
ヘンドリックが気まずそうに視線を逸らす。
「それで、君はこの霧をどう思う?」
「さあ、私には分かりかねます。
しかし、霧などどうでもよろしい。
討つべきは白竜でしょう」
どうやら彼は、任務以外には興味がないらしい。
だが、それでいいのだろうか。
この霧が白竜の罠だとしたら――そう思うのは、気にしすぎなのだろうか。
とはいえ、魔法で掃えない以上、進むしかないことに変わりはない。
分からないことを悩み続けても仕方がない。
それでも、歩きながらあれこれ考えてしまう。
僕は二人の話を聞き逃さないように注意しながら、頭の中で思考を回していた。
こういうマルチタスクは、昔から得意だった。
歩きながら、また白竜のことを考える。
学校で読んだ本には、白竜の心臓――魔石には人を英雄に変える力がある、
などという眉唾物の伝説が載っていた程度だ。
他の竜にはそんな話はない。
つまり、白竜は他の竜とは何かが違うのだろう。
習性も、弱点も、何も分かっていない。
それでも上層部――この場合は王だろう――は、その力を本気で信じている。
その結果が、この白竜討伐隊だ。
そして僕らは今、重い鎧を引きずって山を登っている。
そしてもう一つ確かなのは、その伝説が残っているということは、
かつて白竜を倒した者がいたということだ。
白竜は、人が決して勝てない存在ではない。
それだけが、唯一の希望だった。
黙って歩いていると、ヘンドリックがまた肘でつついてきた。
気づけば、いつの間にかバルザックの姿が見えない。
どうやら僕の気のない返事が気に入らなかったらしい。
まあ、隊列のどこかにはいるだろう。
心配するほどのことでもない。
「何を考えているんですか」
「白竜のことを少しね。何か知ってる?」
「さあ、名前くらいしか。まあ、竜なんですから、でかくて強いんでしょうな」
「まあ、そうだろうね」
結局、出てくるのはそんな答えばかりだ。
僕だって大して変わらない。
「アラン様は?」
「僕も同じだよ。何しろ初任務だからね」
僕は笑ったが、彼は笑わなかった。
「初陣がこれとは、災難ですな」
「本当にな」
風の音だけが続いた。
「ですが、白竜を倒せればドラゴンスレイヤーですな。名誉なことです」
僕は苦笑した。
「君もだ。ドラゴンスレイヤー、ヘンドリック」
ヘンドリックは一瞬目を見開いて、それから笑った。
「そうなれば、一生遊んで暮らせます」
竜を倒し、生き残ればの話だ。
この討伐隊で、生きて山を下りられる者は何人いるのだろう。
◆◆◆
夜になり、休もうとしていたそのとき、猛烈な突風が吹き荒れた。
建てたばかりのテントが、音を立てて吹き飛ぶ。
そして――遠くから、魂を凍らせるような咆哮が響いた。
先遣隊が白竜と遭遇したようだった。
こちらから仕掛ける予定はない。
近づきすぎて気づかれた可能性が高い。
姿を見たわけではない。
だが、ここまで他の魔物を一切見なかった以上、白竜以外には考えられなかった。
誰か一人を狙ったのか、僕ら全体を敵と判断したのか、それすら分からない。
ただ、目についた人間を気まぐれに襲っただけかもしれなかった。
再び突風が吹き荒れた。
辺りを覆っていた霧が流され、視界が一気に開ける。
そして、その先に“それ”はいた。
実際には百メートル以上は離れていたはずだ。
だが、その巨体と威圧感は、まるで目の前に立たれているかのようだった。
月光を浴びて、それは山腹に屹立していた。
本で見たような、巨大な白トカゲではなかった。
流れるような白銀の毛並み。
風に揺れるたてがみは、生きた霧のように揺らめいている。
鋭い黒爪。
筋肉質な四肢。
背中には翼が生え、胴体の倍はありそうな太く長い尻尾が揺れていた。
それだけで、それが“竜”だと分かった。
あの爪がかすっただけで、人など鎧ごと砕け散るだろう。
背中の翼が呼吸するように上下するたび、石や枝が宙を舞った。
まるで、あの存在を中心に空気そのものが渦を巻いているようだった。
その視線が、こちらへ向いた気がした。
薄青色の瞳。
そこにあったのは、獣の暴力ではない。
確かな知性だった。
「これが……白竜」
これが見世物なら思わず見入ってしまいそうだった。
白竜にはそんな幻想的な魅力があった。
我ながら非常時に何を考えているのかとは思う。
だが、恐怖より先に、芸術作品を見たときのような感嘆が胸に浮かんでいた。
──だが次の瞬間、空気が動いた。
尻尾の一振り。
丸太のようなそれは空気を裂き、周囲の木々を薙ぎ倒し、
白竜の近くにあったものをまとめて吹き飛ばした。
倒れる木々。
吹き飛ぶ物資。
兵たちの怒号。
周囲は完全に混乱していた。
そんな中、僕はどう動くかを考えていた。
幸い少しの間、考え事をすることができるくらいには距離があった。
手が震える。
呼吸がうるさい。
だが、不思議と思考だけは静まり返っていた。
恐怖は、感じるより先に通り過ぎていく。
視線は白竜を捉えたまま離れない。
脚が震えている。
だがこれは、寒さでも恐怖でもなかった。
(──ああ、やっとだ)
内側から湧き上がる、熱い衝動。
士官学校で学び、机の上でこねくり回してきた僕の戦術を、
すべてぶつけるべき本物が、目の前にいる。
やっと、自分の出番が来た。
混乱の渦に飲まれつつある戦場の中、
僕は、静かな確信とともに初めて本物の戦場へ踏み込んだ。
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