一話 灰が振る夜
灰が降り続く終末世界。
記憶に欠落がある少年グロウ、唯一の家族である病弱な妹ルーチェと崩壊した町に暮らしていた。
だが時折、知らないはずの景色が胸を締めつける。
触れたことのない温もり。
聞いたことのない声。
そして、“忘れてはいけなかった誰か”の記憶。
世界を蝕む侵食。
人体実験の痕跡。
自分の中に眠る、もう一人の自分。
失った記憶の先でグロウが辿り着くのは、救いか、それとも喪失か。
これは、
名前より大切な存在を忘れてしまった少年の物語。
『宵殻都市アーテル』
雨ではなかった。
空から降っているのは、灰だった。
燃え尽きた何かの残骸みたいに、細かな白が夜の都市へ降り積もっていく。
その灰は、人の髪にも、睫毛にも、古びた看板にも静かに積もる。
誰も払わない。
払っても意味がないからだ。
アーテルでは、毎日空が死んでいた。
都市を囲むように建てられた巨大塔群《肺楼》は、夜になると低い唸り声を上げる。
まるで街そのものが眠れず、苦しんでいるみたいな音だった。
肺楼は地下深層から“霧”を吸い上げる。
《原霧》。(げんむ)
人類文明を支える未知物質。
燃料にもなる。
医療にもなる。
記憶保存にも使える。
けれど同時に、人を壊した。
長く原霧に触れた者は、少しずつ感情を失っていく。
怒り。
喜び。
愛情。
最後には、自分が誰だったのかすら曖昧になる。
それでも人類は、原霧をやめられなかった。
やめた瞬間、この都市は止まるからだ。
光も。
食料供給も。
人工心肺も。
全部。
だから今日も肺楼は鳴く。
誰かの命を吸っているみたいに。
「……また増えてる」
少年が呟いた。
名は、グロウ。
十八歳。
黒髪。
痩せた身体。
眠れていない目。
彼は古い集合住宅の屋上から、都市中央を見下ろしていた。
遠くで肺楼が蒼白く脈動している。
その光景を見ながら、グロウは無意識に首元へ触れた。
包帯の下。
そこには黒い痣がある。
霧蝕。
原霧中毒の初期症状。
もう治らない。
だが彼にとっては、自分の命なんてどうでもよかった。
問題は一つだけだった。
「お兄ちゃん……寒い……」
背後。
薄い毛布の中で、小さな少女が震えていた。
ルーチェ。
グロウの妹。
十六歳。
雪みたいに白い髪。
呼吸は浅く、細い。
彼女もまた、霧蝕に侵されていた。
しかも、かなり深く。
グロウは屋上を降り、妹の隣へ座る。
錆びたヒーターは動かない。
スープも、もう残り少ない。
けれどルーチェは笑った。
ルーチェ「今日は灰、少ないね」
グロウ「……そうか?」
ルーチェ「うん。昨日はもっと苦しかったから」
グロウは返事をしなかった。
嘘だ。
今日はむしろ酷い。
ルーチェは苦しそうに呼吸している。
それなのに彼女は、兄を安心させるためだけに笑っている。
昔からそうだった。
泣きたい時ほど笑う子だった。
沈黙。
窓の外で、送電線が風に揺れている。
遠くでサイレン。
誰かがまた倒れたのだろう。
この街では珍しくもない。
グロウはふと、机の上の紙切れを見る。
古びた依頼書。
《旧層区画“第七沈下街”にて、未登録遺物を確認》
報酬額は大きい。
危険区域だ。
帰ってこない探索者も多い。
だが行くしかない。
ルーチェの薬代がいる。
それに最近、彼女の咳に血が混じり始めた。
時間がない。
「……お兄ちゃん」
ルーチェが小さく呼ぶ。
グロウ「なんだ」
ルーチェ「もし私が先に死んだらさ」
グロウの表情が止まった。
ルーチェは天井を見たまま続ける。
ルーチェ「ちゃんと、ご飯食べるんだよ」
グロウ「……」
ルーチェ「あと、知らない人にすぐ怒っちゃ駄目」
グロウ「……」
ルーチェ「お兄ちゃん、不器用だから」
グロウは立ち上がった。
窓際へ行く。
顔を見せないように。
怒っているわけではなかった。
ただ。
今、振り返ったら。
たぶん泣く。
グロウ「寝ろ」
短く言う。
ルーチェは少しだけ笑った。
「うん」
その笑顔が。
ひどく弱々しく見えた。
深夜。
グロウは一人で外へ出た。
アーテルの夜は青黒い。
ネオンではなく、肺楼の光が街を照らしているからだ。
まるで深海だった。
人々は皆、俯いて歩く。
感情を落としてしまったみたいに。
屋台から漂う焦げた油の匂い。
蒸気。
濡れた鉄の臭い。
その全部が、この都市の血液みたいだった。
旧地下鉄へ向かう途中。
グロウは奇妙な少女と出会う。
白い花を売っている少女だった。
こんな街には似合わない花。
灰の世界に、そこだけ色がある。
少女はフードを被っていた。
年齢は同じくらいだろうか。
薄い琥珀色の目だけが見える。
???「買う?」
唐突だった。
グロウは立ち止まる。
「……花なんか食えない」
???「でも、死ぬ時には欲しくなる」
少女は静かに言った。
不思議な声だった。
優しいのに、どこか諦めている。
グロウ「お前、変わってるな」
???「よく言われる」
グロウ「こんな場所で花なんか売って」
???「好きだから」
彼女は灰空を見上げた。
???「綺麗なものって、滅びる前が一番綺麗だから」
グロウは眉をひそめる。
縁起でもない言葉だった。
だが少女は少し笑った。
???「君、優しい顔するね」
グロウ「してない」
???「してるよ」
グロウ「気のせいだ」
少女はくすっと笑った。
その瞬間だけ。
この死んだ街の音が、少し遠くなった気がした。
だが。
次の瞬間。
都市中に警報が鳴り響く。
肺楼の光が赤へ変わる。
空気が震える。
人々がざわめく。
誰かが叫んだ。
「侵食体だ!!」
地下鉄入口の闇から、“それ”は現れた。
人の形をしていた。
だが顔がなかった。
黒い泥のような肉塊が脈動し、腕だけが異様に長い。
そして。
その怪物は、まっすぐ花売りの少女を見ていた。
まるで。
彼女を知っているみたいに。
少女の表情から、初めて笑みが消えた。
小さく呟く。
???「……また、来た」
グロウは気づく。
その声は恐怖ではない。
もっと別の感情だった。
諦め。
あるいは。
“何度も経験してきた者”の声音。
怪物が咆哮を上げる。
空気が裂ける。
人々が逃げ惑う。
その中で。
少女だけが、静かにグロウを見た。
そして言う。
???「ねえ」
???「君、人を殺したことある?」
グロウの呼吸が止まる。
怪物の咆哮。
赤い警報灯。
灰の降る街。
その中心で、少女はまるで昔話をするみたいに微笑んでいた。
???「これから、いっぱいするよ」
つづく




