「修羅剣風の始まり始まり」
一点の曇りもなく晴れ渡った空の下、一片の薄桃色の花弁がゆらゆらと地面に落ち往き、風に去らされて足元まで運ばれて来る。
暦上では疾うの昔に春となっていたが酒と団子を持参した花見客が現れたのだから漸くと世間は春めいた感慨を得るに至ったという事なのだろう。
春風が吹いて桜の花を優しく空に舞い上げる。ひらひらと舞い降りた先には艶やかな黒髪があった。
その黒髪の持ち主は、浅葱色の和服に青紫色に染まった袴、腰元に白鞘の刀を差し、上等な絹糸の緒で結んだ草鞋を履いている。中世的な容姿に服から覗き見える白磁の様な白い肌が儚げな印象を周囲に醸し出している。
触れれば消えてしまいそうなその姿は、まるで桜の木下に埋まっているという亡霊の様。
かの人物の名前は藤宗次郎という。
その正体は"修羅"と半年近く前に呼ばれていた東堂桜という形は違えど、世間一般でか弱いとされている女子である。
背筋がしゃんと伸ばして並木道を一人緩やかに歩いていく。
途中、並木道で擦れ違う好奇の視線を浴びても気にする事なく風景を眺めている。
幾度も季節を変えながら観てきた光景だが彼女には決して飽きない貴重な趣味の一つであった。
この趣味のお陰で彼女に多くの出会いと好機を齎されている。
最近の話では海を隔てた先から遙々やって来た"ソマリア王宮騎士団"の一行との出会い。
それによって彼女は一つの面倒事と多くの良き事に巡りあえた。
面倒事も先に向けて必死に勉強してきたイング語が役に立ち、事無きを得たので差し引き無しと言ってもいい。
本当に
「学ぶに無駄はなし」
というのは金言である。
それにベアトリスとの果し合いで得た勝者の権利を思えば、それ以上に勉学を疎かにしなくて良かったと彼女は思った。
あまりの上機嫌により思わず、ふふっと微笑を零せば周りの好奇の視線が強まっていき、流石の彼女も左手で口元を隠し目を伏せる。
今更であるが良くない風に江戸の剣術界で名の知れているので彼女は気配を薄めて道の端に寄って歩き出した。
其処から並木道を歩くこと少し。
精神を落ち着けた効果が出て興奮が薄まったが、逆に感傷的な気分になる。
何時までも途切れない桜の木を見て散っていく花の儚さに自分を重ねてしまう。
自らを振り返るのを好まず、道をただ突き進むのを主義とする彼女は珍しく過去を脳裏に浮かべた。
思い出すのは半年位前。
見事に咲き誇った桜の花弁が一枚残らず散りきって一面が青々とした葉桜になった頃。
あの蒸し暑い夏の早朝。
利き腕一本が赤い血飛沫を上げ、女の命が風に流された光景。
実父であった東堂作次郎の象徴とも言える肘から上を綺麗に斬り落とした己と交差した刹那の瞬間に彼女の乙女を斬り裂いた剣の鬼と呼ばれる男。
誰が如何見ても彼女の勝ちだと信じただろうが当人達は、その決着に別の意味を見出していた。
確かに彼女は剣を握る利き腕を奪い無力化に成功した。
左手でも剣を握れば戦えるだろうが、幾ら化け物と呼ばれる作次郎でも少しでも落ちる実力で彼女とあれ以上戦えない。
再び剣を交わせば彼女に作次郎は斬られる定めにある。作次郎が負けを認めないなら斬るまでだ。
しかし、剣劇は幕を閉じて決着の日の目を得た。
既に刀を白鞘に戻してしまっている。彼女の剣が作次郎に届く事はもう二度とない、という意味でもある。
そもそも此度の果し合いに規則など在りやしない。
偶々、出合ったから切り結んだまでの事、正確に言うと果し合いですらなかった。
故に彼等には自分で定めた己を縛る剣士としての信念に従う。これに背けば剣士ではなくなり、剣士ではないというのは剣に生きる人にとって敗北以外の何物でもない。
彼女にとっての剣士として律している信念に触れるモノが此度の決着に有ってしまった。
"己を斬ろうとする者を斬る。挑発はするが自衛以外は人を斬るのを認めない"それが彼女の信念であり、剣士としての誇りである。
その誇りを破るに至ったのは相手方の作次郎が始めから彼女を斬る気などまるで無かったからであった。
東堂作次郎は死に装束姿であり、襷を掛けて気合も十分。
殺気などの諸々な気質を放っていたのだが、見せ掛けだけの張りぼてのそれを彼女は髪に受けた一太刀から読み取ってしまったのだ。
その姿は正しく死に装束であり、一つの事と引き換えにして斬られに此処で己を待っていたのだと。
風に吹かれて軽くなった後ろ頭を撫でながら彼女は密かに作次郎を馬鹿なものだ、と思った。
自らが憧れて止まない物を既に持っていて、誇るべきそれを己に奪われると分かっていた筈なのに斬られてもあの男は縁を切った目の前の娘を想っていた。正に馬鹿である。愛すべき馬鹿だ。
作次郎は最後の餞として娘を剣士として生きていける様にしようとしたのだ。外の世界で生きていくにしろ、海に出るのを諦めて江戸の剣術界で生きるにしろ、今の世の女の命は軽過ぎる。
だから、剣に全てを捧げるのなら偽ってでも男となり、生きて行けと。
彼女はそれまで男装したりと中途半端に女に生きていて、生まれた性別を恥じるのは間違いだと硬く信じ、これからも女として行こうと誓っていた。髪を長く伸ばすのも誓いを確固たる物にする為。
それを作次郎は見事斬り裂いた。
これにて漸く東堂桜という女子はいなくなったので、男として剣の道に生きよとその剣に意味を込めた。
父としての渾身の一撃。
文字通り全てが詰まっている、たった一度の斬撃に桜は感服するしかなく、彼女は静かに自身の敗北を認めた。
東堂桜となって初めての敗北だ。
背を向けていた体を作次郎に向けて突然に声を張り上げる。
「道行く方、折角の擦れ違った縁であります。どうぞ聞いて頂きましょう。真に嬉しき事に私は元服を迎え成人の儀を此処で終えました!」
血が流れる右腕を圧迫止血しながら振り返らない作次郎の反応を無視しながら矢継ぎ早に宣言する。
「それに伴い改名し、後の名を日本一の山と尊敬する方の幼名を戴き、性を藤、名を宗次郎と称する!」
ぴくりと大きい背中が一瞬反応する。
その名には沢山の意味が込められていたから。
貴方の知る桜は確かに此処で死にました、という返事。
剣の道に準ずる為に男として偽って生きて行きます、という覚悟。
日本一の腕を奪った代償として代わりにあの立派な日の本一の山の様な大きな男になる、という宣誓。
戴いた名を背負い必ず尊敬する貴方の様になる、という声明。
宗次郎となった彼女は黙して静かに返答を待つ。
桜並木の道がひっそりと静まり返り、二人だけの時間が此処にある。
思えば何故にこの場所が果し合いの場となったのか、宗次郎は段々と分かりかけてきた。
忙しい立場に居た作次郎と娘の桜には家族として繋がる場所が無かった。
二人は事実として作次郎が父親であり、桜が娘であっただけの家族でしかなく、剣道場に親子の絆など存在しないからだ。
常に彼等は師弟として繋がっていた。
そんな二人が家族に戻った時間が確かにあった。
思い出すのは一人散歩に出掛けた父を追う己の姿。
ひらひらと落ちてくる薄桃色の花弁を横目に追い駆けた大きく逞しくと憧れた父親の背中。
あの背中が目の前にある。その背が少しぶれた。
「そいつは、めでてぇなぁ」
待ちに待って帰って来た言葉は簡単な祝いの言葉だった。
でも宗次郎にはそれで十分で伝わった。言葉以上に伝わる言葉であった。
頬に雫が伝わる。
大粒の雫がそのまま顎を伝わり、地面に落ちてゆく。
歪んだ視界に血を滴らして去っていく。
あの背中を宗次郎はあの日、桜並木の道に人が現れるまで見詰めていた。
突然に思考が途切れて、回想が終わりを告げる。
急に立ち止まって宗次郎は桜に目もくれず前方を見ていた。
前から白髪を拵えた杖突の男が歩いてくる。
左右の釣り合いが取り辛そうに左手で杖を突いて歩くその姿を宗次郎は見ていた。
東堂桜が真の意味で死に、藤宗次郎が生まれたあの日と変わらず、今の宗次郎は桜並木の道に居る。
託された願いの通りに男と偽り、何ら変わらず其処を歩いている筈だった。
偽っていた筈なのに何時の間にか存在しない者が其処を歩いていたらしい。通りで目立つ筈だ。
宗次郎を強く意識して宗次郎は擦れ違って行こうとした杖突の男に声を掛けた。
「道行く方、折角の擦れ違った縁であります。どうぞ聞いて頂きましょう」
その言葉に杖突の男は何も言わずに背中を見せたまま立ち止まった。
宗次郎は懐かしきその背を眺めながら矢継ぎ早に口にする。
「夢を叶えます。その為にこの地を出て海を渡る事に相成りました」
一方的に見ず知らずの人間には分からない言葉を宗次郎は伝えた。
返ってくる反応を静かに待つ。
やがて杖突の男が歩き出した時に男は口を開いた。
「そいつは、めでてぇなぁ」
ゆっくりと杖を突いて去っていく男の姿を見届けながら宗次郎は誰にも聞こえない小さな声で呟く。
「ありがとう」
踵を返して直ぐに桜並木の道を抜けて宗次郎は自宅へと足を向けた。
■
次の日、宗次郎は待ち合わせの場所となっていた港へ到着した。
周りには大きな黒い船を一目見ようと人集りで溢れている。人の波を掻き分けて前へ前へ進むと待ち人が既に宗次郎を待っていた。
「準備は出来たようだな。ソウジロウ」
一番に声を掛けてきたのは金髪碧眼の少女。
腰元まで届く長い蜂蜜色に光る髪が春風に吹かれ、その度に邪魔そうに後ろへとはらっている。
「べスが待っていてくれた御蔭で万端です」
「そうか! 貴公の為なら私は幾らでも待とう。これからも、いつまでも!!」
嬉しそうにベスと愛称で呼ばれたベアトリス・クリフは笑顔を咲かせた。
無表情のままだが心の内で宗次郎は苦笑する。
あからさまな程の好意は確かに嬉しいのだけれど体が女の身なので素直に喜べない。
色々な意味で報われない二人だ。
そんな他人の目からは仲良く接している様に見える彼女等の姿に赤い短髪の男アルベルト・ガロは嫉妬心から面白くないと顔を先程から顰め続けていた。
彼は主人であるベアトリスに男女の好意を抱いており、従者として報われない日々を送っている。
それを知る坊主頭で筋肉達磨のドミニク・シンカが宥め、髭老人のサルバトーレ・セロは面白気に見ていた。
最後に三騎士の一人であるフレディ・マーティンは先に船内に篭り、出航の準備を整えている。
暫くしてフレディが出航の準備を終えたと言いに船から降りて来て、全員船へと乗り込んだ。
その際にセロが小さな船に乗る為の簡易階段に躓き、海へ落ちたりしたが特に問題なく回収してのだが季節は既に春と言えど肌寒い時期に全身を水に濡らしてセロは後日、風をひいてしまった。
初っ端から問題を起こしたセロに不安を覚えつつ、宗次郎は次第に小さくなっていく故郷の姿を眺めながらこれから行く見知らぬ地へと想いを馳せた。
■
薄暗い部屋の中。
七色に光る色付きの硝子窓に唯一差し込んでくる光が一人の少女の姿を照らし出す。
その少女は深紅の修道服を纏い、光が差し込む方角へと跪いて祈りを捧げている。只管にその願いが天へ届く様に真剣に、真摯に信仰を捧げる。
拷問に近い程に祈りを捧げた後。少女はゆっくりと瞼を開ける。
その際に目が眩むほど強い太陽の光を瞳に受けたが、痛みなどお構いなしに光を受け入れて口を開いた。
「ああぁ、ああぁ、遂に時は訪れました……長き祈りの日々を経たことにより、いと高きあの方は遂にわたくしめに宿命をお与え下さりました」
立ち上がり光を全身に浴びる様に両手広げて、恍惚とした表情を見せる。
「あぁ……神は天に居まし、神は天に居まし」
常人には理解出来そうにない言葉を何かの呪文の様に呟きながら少女は自分の体を力一杯に抱いて、今にも踊り出しそうな程に愉快な気持ちを抑え付ける。
「運命の人よ。わたくしの運命の人。今はお持ち下さい。わたしは直ぐに参ります。この身を直ぐに貴方様へお届けいたしましょう。事前に終えなければなければならない使命が御座います。それを終えれば必ず、必ず……」
「貴方様の下へ……フジソウジロウ様」
未だ海を隔てた向こうに居る青年の名を呼び、少女は瞳を閉じて祈りを捧げる始めた。
謎の伏線。深紅の修道女って一体誰なんだ……?
書いている奴ですらフワフワな彼女ですが一応設定は創っていますので御期待下さい。