プロローグ:コンクリートの空の下、張り巡らされた神経の網
#プロローグ: 1991年、朽ち果てたコンクリートの島で、一つの録音テープが回り始める。
長崎県、端島。1991年11月17日。
その音は、コンクリートの壁を叩く潮風の音ではなかった。朽ち果てた階段に佇む鴉の鳴き声でもない。
それは、苔むした床に置かれた古いウォークマンから流れる「ヒスノイズ」――静かな雑音だった。カセットの中では磁気テープが回り、たった一つの楽器による交響曲を録音している。それは、水島アカリの悲痛な叫びだった。
「静かに……アカリ。録音が台無しになる」
エド・クロガネが囁いた。異様に長い指が、妻の頬を優しく撫でた。
アカリは部屋の隅で、東シナ海に浮かぶ月のように青白い顔で横たわっていた。彼女の身体には鎖も手錠もない。しかし、彼女がわずかでも逃げようとすれば、全身が激しい衝撃に襲われた。
「痛い……エド……お願い、やめて……」
「この痛みは証拠だよ、アカリ」
エドは冷たく鋭い瞳で微笑んだ。「僕の血が君に反応している。僕たちが結ばれたあの夜、僕の中に眠る『織り手』を呼び覚ましたのは君だ。今や、僕たちの神経は一つの網として繋がっているんだ」
エドは窓際へ歩み寄り、暗い海を見下ろした。床に刻まれた印のところで、彼は足を止めた。
九・九メートル。
「もし僕がこの一線を越えれば、君の心臓は止まる。僕たちは決して離れない。この島でも、その先の場所でもね」
アカリは夫の背中を見つめた。薄いシャツ越しに、男の皮膚の下で何かが蠢いている。それは、外へ出ようともがく不気味な足のような形をしていた。
1991年。外の世界が経済の荒波に揉まれる中、このコンクリートの島で、アカリの世界は一足先に崩壊していた。彼女は、愛と狂気の境界を失った男の網に囚われていた。
「愛しているよ、アカリ」
エドは静かに言った。その声は、潮風と埃の中に溶けていった。
足元で、端島は沈黙を守り続けている。鋼鉄の紡ぎ手と、その犠牲者の秘密を飲み込む巨大な墓標のように。




