15 卒業の春Ⅱ④
思った通り鍵は開いていた。
静かにノブを引き、息を詰める感じで尊は扉を開ける。
「タケちゃん?エラい遅かったなぁ。こんな時間まで友達と遊んでたんか?しゃーない子ォやなあ」
おぞましいまでに聞き覚えのある、作ったように優し気な声と口調。
室内にこもる、安っぽいコロンの甘いにおい。
やはり母だ。
軽く目をつぶり、尊はそっとため息をつく。
泥棒と鉢合わせた方がマシだったと、チラと思った。
コタツからヨタヨタした感じで立ち上がり、玄関先まで母は来た。
あきらめた気分で目を開け、尊は、蛍光灯の灯りに照らし出された母の姿をちゃんと見て……ギョッとした。
誰だこの人、が、嘘偽りない気持ちだった。
元々母は色白で細面、華奢な体躯の、年齢の割にほっそりとした人だった。
男が次々寄って来るだけあり、この女は決してブスでないし、化粧映えもするタイプだろう。
だが今、尊の前で作り笑いしているこの女。
『ほっそり』などというレベルではない、あからさまにガリガリだ。
色白というよりも青白い顔には、不健康な陰が揺曳している。
やたらとうるさい柄の派手なワンピースは、おそらくブランドものなのだろうが、ここまで幽霊じみた人が着ているからかどうにも安物くさい。
(この人……こんな感じやったやろうか?)
ここ1~2年まともに顔を合わさなかったから言い切れないが、一気に老け込んだような気がする。有り体に言うのなら、腐臭がしてきそうな不吉ささえ感じる。
「お腹空いたやろ?デパ地下で美味しいモン買うてきたで。あっためて……」
「いや、エエ。ヤッちゃんと晩飯食うてきたし」
断ち切るように言い、尊は靴を脱ぐとまっすぐコタツへ向かう。
母は一瞬、不機嫌そうに顔をしかめたが作り笑いを浮かべた。
「そう。まあ冷蔵庫入れてるし、明日食べよか」
勝手にせえと心でつぶやき、尊は出来るだけ母から目をそらしてテーブルの上に置いていたタバコの箱に手を伸ばす。
火を点けて深々と煙を吸い、ゆっくり吐く。
「……タケちゃん」
何故か感に堪えたような声を上げ、母は、いやに尊の近くに座った。反射的に身をのけ反らせる。距離が近すぎて生理的に気持ち悪い。
母は、のけ反られたのにショックを受けた顔をしたが、気を取り直したように再度作り笑いを浮かべた。
「いや、な、そうやってるとアンタ、おとうちゃんそっくりやなぁって、おかあちゃんびっくりして。アンタ、おとうちゃんの顔も見たことないのに、大きィなるにつれて段々おとうちゃんに似てきて。顔はおかあちゃん似やのに、身体つきとか雰囲気とかがおとうちゃんによう似てきて……」
「……ふうん」
尊としては『ふうん』としか言えない。
自分がどちらかと言えば母親似なのは、ごく幼い頃から尊も知っている。鏡を見れば嫌でもわかる。
何故もっと泰夫に似なかったのだろうと思ったことも、度々ある。
それを、今になって『雰囲気がおとうちゃんに似ている』と言われても、ピンとくるこない以前の話だ。
生まれる前に死んでしまった親父など、歴史の教科書に出てくる偉人とさほど違いはない。
泰夫が時々話してくれる『清尊さん』の話が、林が尊について話すならこんな感じかなと思わせるような、耳がこそばゆくなるタイプの賛美した内容なので、余計偉人めいた印象がある。
尊の素っ気ない態度が不満なのか、母がだんだん不機嫌になってきたが、尊の知ったことではない。
今まで自分がしてきたことを思えば、いくら息子でもニコニコ機嫌よく迎えてもらえないことくらい、わかりそうなものであろう。
(あー、でも。このおばちゃんでは無理か)
都合の悪いことは鶏並みに素早く忘れる、始末に負えない馬鹿だ。
いや鶏に失礼や、鶏の方がよっぽど可愛げがあるよなと、ため息をタバコの煙にまぎらせて吐き、尊はぼんやりと前を見ていた。
今日は、母にしては妙に我慢強い。
普段ならそろそろ、泣き声を立てて素っ気ない尊の態度を責める頃合いだが、彼女は強引に気を取り直し、再び笑むとこう言った。
「今日、アンタの卒業式やったんよなあ。お昼頃に思い出して、私、ものすごい後悔してん。今までさんざんほったらかしてて、せめて卒業式くらいは出たげなアカンなって思ってたのに。ここ最近仕事が立て込んでしもて、つい、うかっと忘れてしもててん。ホンマにごめんな」
「エエよ別に」
(はあん、それで妙に神妙やったんか)
さすがに息子の卒業式をころっと忘れていたとなると、鶏程度の記憶力しかない御目出度いおばちゃんでも、罪悪感を持つだろう。
「卒業式みたいなン、本人のケジメの為にあるモンや。ツレなんか、アホらしいからって欠席しよったくらいや。そんな大袈裟に考えるようなモンやない」
そう言うと、母は目に見えて機嫌を直した。
尊が許してくれたと思ったのだろう、御目出度いオツムだ。
許す許さない以前、尊は母と極力関わりたくないだけなのだが、そんな微妙な機微を察するような女ではない。
「中学卒業したら、大工さんの棟梁のトコへ弟子入りするんやよね。アンタのおとうちゃんも大工さんやってんで、やっぱり血は争えんなぁ。せやけど、棟梁のウチで住み込みで勤めるんやって?今日日にしては古風なやり方やねえ、別に通いでもかまへんのに」
「ナニ言うてんねん、通いなんて無理やで。四国にある工房やし」
尊が言うと、母は真ん丸に目を見開き
「四国?」
と、素っ頓狂な声を上げた。
「前から言うてたやろ?ナンやねん、今初めて聞いたような声出して」
「そんな話、聞いてへん!」
うろたえたようにそう言う母へ、尊はあきれる。
「聞いてへん、なんてことあるかい。俺も二、三回は言うた覚えあるし、ヤッちゃんからも一、二回……」
「聞いてへん、そんな話聞いてへん!」
頑なにそう言ってうろたえる母に、さすがに尊もムカムカしてきた。
「聞いてへんって。単にアンタが、右から左へ聞き流してただけやろ?俺は四国にある宮大工の棟梁へ弟子入りする、三月いっぱいは小波におるけどそれ以降はアッチへ行くって。修行やから、簡単にコッチへは帰ってこられへんってことも……」
「ウソや!そんな話、私は今初めて聞いたで!」
母は目を怒らせて叫ぶ。
通報されないか心配になるレベルの金切り声だ。
「大工の親方なんか、大阪にいくらでもおるやろ!ナンでわざわざそんな遠いトコで勤めやなアカンのん!今からでもエエ、そんな話断わって、大阪で仕事探しィや!チューガク出たばっかりの子供が、そんな親元離れたトコで勤めるなんて非常識や!」
尊の中で、何かがブチッと音を立てた。




