9 中三の秋④
だからその日も尊は、いつも通りツレたちと部屋に籠ってスケッチをしていた。
外が暗くなり始めた頃だ。
携帯電話の呼び出し音が唐突に、不快なまでの大きな音を鳴り響かせた。
一瞬ギクッとした後、彼は鉛筆を投げ出して立ち上がる。
そして、食器棚の隅の定位置に充電状態で置きっぱなしにしている携帯を取り上げた。
液晶の画面に表示されているのは泰夫の名前。
軽く時計を確認し、胸騒ぎがした。泰夫はまだ仕事中であろう時刻だ。
眉根を寄せ、尊は応答のスイッチを押す。
「……尊君?」
耳に馴染みのない声が、遠慮がちに問いかけてくる。
「はい、そうですけど」
ぶっきらぼうに答えると、電話の向こうで大きく息をつく気配がした。
「突然ごめん。私は津田興発の野崎や」
え?と口の中でつぶやき、尊は電話を握り直す。
『津田興発の野崎』。
泰夫の勤め先の『一番のお偉いさん』で、幼児の頃に世話になった、野崎の屋敷の主の名前だ。
もうひとつ息をつき、野崎翁らしい声はこう続けた。
「実は、君の叔父さんが事故に巻き込まれてしもてな。救急車で運ばれて、今、市立病院の方に……」
そこから先、翁が何を言ったのか尊はきちんと覚えていない。
硬直している尊に声をかけ、事情を聞き出してタクシーを呼んでくれたのは川野であり、うろたえている後輩たちを促してざっと部屋を片付けさせ、家へ帰れと指示したのは田中だ。
……多分。
とにかく周りがバタバタ動いているのはわかっていたが、尊自身は何をしているのかしていたのか、後から考えてもうまく思い出せない。
気付くと部屋着にしているスウェットスーツの上に薄手のジャンバーをはおり、ツレ二人にタクシーの後部座席に押し込まれていた。
田中と川野が有無を言わさず、尊の隣というか後部座席の余った部分へ乗り込んだ。
市立病院まで、と、キビキビした口調で川野がタクシーの運転手へ言っていたのが、不思議と印象に残っている。
頭がふわふわしていて現実感がない。
流れてゆく窓の外をぼんやり見ながら、尊はため息をついた。
(ヤッちゃんが、事故、に)
今手術をしている、とか、仕事で現場を回っていた時に突っ込んできた原付バイクにはねられた、とか、電話の向こうで言っていた野崎翁の言葉が脈絡なく浮かんでくる。
(事故、事故、事故……)
意味を失くしたように、『事故』という単語が頭の中をぐるぐる回る。
宵闇の中で輝く車のライトと道沿いの店舗の照明が、夢のように美しかった。
タクシーはやがて市立病院に着いた。
ツレたちに背を押され、尊は、まろぶような足取りで総合受付へと向かう。
事故でこの病院へ救急搬送された早川泰夫がどうなり、今どこにいるのかを訊きたいだけなのに、尊を始め少年たちはなかなか病院のスタッフにうまく問えず、苛立った。
それでも何とか必要なことを訊き出し、三人は教えられた病棟へ早足で向かう。
リノリウムの床の感触が訳もなく不吉で、背筋が冷える気がした。
手術中、という赤いライトが点灯した扉の前。
少しよれたダークグレーのスーツを着た老人が、硬い表情でうつむき、ベンチシートに座っていた。
老人は気配に顔を上げ、戸惑ったように立ち尽くしている少年たちを認めると、少しだけ目許をゆるめ、軽くうなずいた。
「アレが野崎さん?」
そろっと訊いてくる川野へ尊はうなずき、そろそろと近付いてゆく。
見知らぬ少年二人が尊の後ろから遠慮がちについてくるのに、野崎翁は瞬間的に不審そうに眉を寄せたがすぐ納得したらしく
「君ら、尊君の友だちか?」
と訊いてきた。
はい、と緊張気味に田中と川野が答えると、野崎翁は目許をゆるめた。
「彼が心配でついてきてくれたんか?ありがとうな。尊君と尊君の叔父さんは野崎でちゃんと看るから、当面心配せんでもええで。ボチボチ夜になるし、君らは家へ帰りィ」
せやけど、と田中は言いかけたが川野はそれを制し、はいと素直に答えた。
「お前、携帯、持って来てるよな?」
川野の問いに、尊はうなずく。
「落ち着いたら連絡、くれや。遅なってもエエからな」
そして何か言いたそうな田中の腕を引き、川野はきびすを返した。
「ちょっと待ち」
野崎翁は立ち上がると、田中と川野の前へ行く。
「もう遅いし、君らタクシーで帰り」
そう言って背広の内ポケットから札入れを取り出そうとする野崎翁へ、川野はやや硬い声で切り口上に
「そういうのはエエです。それに、元々タクシーで帰るつもりでしたから、金は持ってます」
と言った。
野崎翁は一瞬動きを止めたが、ふっと柔らかく笑んだ。
「……そうか。ほんなら気ィ付けて帰り。色々わかり次第、連絡するように心掛けるからな」




