「ここに帰ってきたかったから」
空の色が茜から藍へと移り変わる頃。
花火が行われる河川敷の周囲と近くの公園は、もう屋台と人で埋め尽くされていた。
少し離れたところに神社もあって、そちらも屋台が並んでいる。どのみちどこもかしこも人だらけで、この町のどこにいたんだと疑問に思うほどの数だ。
寄り添うように歩く二人――というか深夜――はやたらと注目を浴びたが、最早今更だ。直也も深夜も気にすることなく屋台を冷やかし、わたあめを食べりんご飴を食べ、水風船を掬った。
二人ともあまり騒ぐ方ではないので、どちらかと言えば喧騒を見て楽しむところがあったように思う。
何もせずとも、祭りの空気はそれだけで高揚するものだ。
射的に挑む子供、キャラものの袋に入ったわたあめをねだられる親、友達同士できてわいわいと騒ぐグループに、チョコバナナを食べさせあうカップル。
やきそばのソースの匂いと甘い香りが混ざり合って、祭りは色を増していく。
人の波にのまれないよう気を付けていても、これだけ多いと思う通りにはいかないものだ。
誰かの肩とぶつかり、履き慣れない下駄のせいもあって深夜がよろける。
こけてしまう前に、直也の腕に抱きとめられた。
「ごめんね、ありがとう」
「いや、でもなんとかしないと危ねぇな」
そう言って、彼は手を差し出してきた。
それが何を意味するのか、深夜にだってわかっている。
分かっていて、少しだけ躊躇した。
「ほら、あー……危ないからな」
「うん。ありがとう」
重ねた掌は、祭りの熱気に負けないくらいに熱かった。
離れないよう、ぎゅっと互いに握りしめる。指先がどくんどくんと脈打つ。
掌に流れる血を、これほど意識したことは深夜の人生で一度もなかった。
硬くて大きくて、優しい手。
人とぶつかりそうな時はそっと引いてくれて、立ち止まる時や向きを変える時は握りこんで教えてくれる。
花火が近づくに連れて人が多くなってきて、もう肩も寄せ合っているけれど、それよりも掌の熱さの方が深夜の意識に強く焼き付いた。
夏の夜空が全て藍色に染まり切った頃、花火が始まると放送が流れた。
寄り添ったまま河川敷の方へ移動し、なるべく人がいない方へと足を向ける。
なんとかぎゅうぎゅう詰めからは卒業できたところで足を止め、花火が始まるのを待った。
手はずっと握ったまま。
せめて花火が終わるまでは、このままでいたかった。
「今日はさ、花火を見に来たのもあるんだけど」
「うん」
周囲に聞こえないように、でも隣の深夜には聞こえるように、直也が話し出す。
深夜とて、それは分かっていた。
きっと何か話したいことがあるのだと。その為に祭りに来たのだと。
それが何かは、想像することは止めておいた。
「話しておきたいことがあって」
「うん」
花火はまだ始まらない。
周囲の皆も藍から黒へと染まる空を見上げて、今か今かと待ち望んでいた。
夏の夜に咲く、光る花。
夏休みが終わる合図。
「実家に帰って、親と話したんだ。昔迷惑かけたことを謝って、わがまま言って一人暮らしさせてもらったことに礼を言って。そんで、先払いで三年分謝ってきた」
「先払い?」
「高校の間、ずっとこっちに居させてほしいって。一人暮らしなんて金もかかるし心配もかける。よほどの事情がなけりゃ、家から通う方がいいに決まってる。それでも、こっちで通わせてほしいって」
掌を握る手に力がこもる。
聞いて良いのだろうか、悪いのだろうか。
結局、バイトのことは迷っているうちにタイミングを逃してしまった。
だったら、後悔しても聞いた方が良いに決まってる。
「どうして?」
直也が顔をこちらに向けた。
その目があまりにも真剣で、綺麗な黒曜石みたいで、思わず見惚れてしまった。
「ここに帰ってきたかったから」
花火が上がった。
高く夜を切り裂く笛の音を鳴らし、轟音と共に火の花が咲く。
ぱらぱらと散っていく様まで美しく、しかし残念ながら直也も深夜も見逃してしまった。
残響のような火の粉が、二人の横顔を照らし出す。
「そっか」
「あぁ」
それ以外、何を言えばいいのか分からなかった。
体が熱くて、顔も熱い。夏の熱帯夜だからか、汗まで噴き出しそうだ。
直也はいつもと変わらず見える。自分だけが、こんなに熱くなっている。それがなんだか、やたらと恥ずかしい。
二発目、三発目と次々と花火が上がる。
その綺麗さに見惚れている間は、何も考えずに済んだ。
色とりどりの花が自然の暗幕を背景に咲き誇る。
周りの歓声が環境音として意識に処理され、隣の人の息する音が妙にはっきり聞こえる。
繋いだ手が、きゅっと握られた。
「一つだけ、後悔してることがあって」
隣を見上げる。
彼は眉根を寄せて、口惜しそうに言った。
「朝陽さんにどっちを名前で呼ぶか聞かれた時、姫野の方にしとけばよかった」
反射的に手に力が入って、彼の掌の硬さを指の神経が伝えてきた。
心臓って耳にあったんだっけ。
そう思うくらい鼓動が煩くて、耳元でがなり立てられているようだ。
夏の匂い、祭りの匂い、花火の匂い。
頭がクラクラしてきた。
「姫野って、お姉ちゃんも呼ばれるって言ってたよね」
「あぁ」
そう、確かに前に姉はそう言っていた。
職場では私も姫野と呼ばれるよ、とかなんとか。
今、姉のそんな軽口に心から感謝している。
「いいよ」
「ん?」
彼の顔が傾いて、視線がこちらを捉えた。
花火が上がる。
色彩が彼の顔を半分だけ彩る。
それが妙におかしくて、肩から力が抜けた。
「深夜って呼んで。姫野じゃどっちかわかんないから」
今度は自分の意思で、彼の手を強く握った。
硬くて大きな手。
多分頑張って力を込めても、びくともしないだろう。
そのことに、何故か安心感を覚えてしまう自分がもう良く分からない。
分からなくていいや、と思った。
「分かった」
頷く彼に、クラクラする頭が命令した通りの言葉を口にする。
普段なら絶対言えないこと。
きっと、夏休みが終わるからだ。
――これはきっと、私の夏休みの宿題だったのだ。
「私も、直也って呼んでいい?」
「あぁ」
味も素っ気もなく、彼が頷いた。
胸の奥で、花火が咲いた。
それと同時に、今日一番の大きな花火が空に舞って散っていった。
その鮮烈さを、きっと一生忘れない。
夏が、終わった。
帰り道も、ずっと手を繋いでいた。
マンションに着くまで、ずっと。
第一章、これにて終幕です。
第二章が書きあがるまで、今しばらくお待ちください。




