「きっとこのまま、ただのお隣さんで終わる」
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
繰り返される耳障りな起床アラームに根負けして、寝ぼけながら枕元を手探りする。
指先の感触を頼りにスマホを掴んで、慣れた仕草でアラームを切った。
むくりと起き上がり、頭を掻く。朝の6時30分を示すスマホをぼーっと見てから、のっそりと起き上がる。
特筆するところのない、平凡な顔立ちの少年だ。少し大人びた雰囲気はあるものの、寝起きの間の抜けた顔ではそれも台無しである。
五月末。梅雨を目前に、一人暮らしも二か月と少しを数えたこの部屋の主――柏木 直也(15)は同世代の平均より高めの身長を更に伸ばして脱力し、洗面台に向かった。
2Kのこの部屋において洗面台とは浴室の中にあるものを指す。洗面所がないことに引っ越し当初少しだけ驚いたのは秘密だ。ユニットバスを見た時はもっと驚いたが。
顔を洗って頭をはっきりさせてから、朝食を作る。卵を二個ボウルに割り入れ、鶏がらスープの素を投入。冷蔵庫のタッパーから刻んだネギを取り出して適当にぶちこみ、軽くみりんを垂らしてから混ぜる。
コンロで温めておいた小さくて四角い卵焼き用のフライパンにボウルの中身を流し込み、頃合いを見てくるりと巻いた。
一人暮らしをするようになってから、鶏がらスープの素は直也の強い味方となった。適当に具とお湯を入れれば汁物になるし、味付けにも使える。塩コショウと一緒にいれれば大抵なんとかなるというのは、料理が得意というわけでもない男子高校生には有難かった。
ポットにお湯を注いでスイッチを押してから、昨日洗って水切りラックに置いたままの皿に卵焼きを乗せる。同じくラックに置いたままだった茶碗にご飯をよそって、卵焼きの皿と一緒に部屋に運んだ。
キッチンにとって返して汁椀にインスタントの味噌汁を開けてから冷蔵庫の中の鮭フレークを取り出す。少し待つとポットが音を立て、お湯が沸いたことを教えてくれる。インスタントの顆粒を溶かして、これもラックに置いたままだった箸で混ぜる。具が開いたところで箸を口に咥え、鮭フレークと一緒に部屋のテーブルに持っていった。
「いただきます」
なんとなく癖で手を合わせ、男子高校生の一人暮らしにしてはマシな朝食を摂る。
部屋の様子もさっぱりとしていて、服や下着が散乱していることもない。カゴには溜まっているものがあるが、毎日洗濯するわけでもないのでそんなものだろう。
15歳の一人部屋には、あまり見えない。少しだけ寂しい気配もした。
さっと食べ終えて食器を流しに持っていく。味は普通、いつも通り。変わり映えがしない味に飽きが来ることもない舌で助かっている。
水につけるだけで、洗うのは帰ってからにする。手早く着替えて鞄の中身を確認して時計を見る。7時30分。いつも通りの時間だ。
財布とスマホをポケットに突っ込み、鞄を担いで靴を履く。寝ぐせを軽く手櫛でならして、ドアを開けた。
朝の気配を感じる間もなく、隣の部屋のドアも開いた。
「じゃ、いってきまーす!」
鈴の音のような、とはこういう声を言うのだろうか。凛と響く澄んだ声が聞こえると同時に、ドアの向こうから綺麗な女性が姿を現した。
大人の女性というにはあどけなく、女の子というには色香がある。肩口まであるナチュラルボブがふわりと風になびき、建物に反射する陽光に照らされて淡いハニーブロンドの髪が煌めく。
美しく整った顔立ちを乗せた頭は直也より明らかに小さく、最初に見た時はこんな人間が現実にいるのかと15歳の少年は衝撃を受けた。
その女性は直也を見るとにこりと相貌を崩し、人好きのする笑みで春風じみた爽やかさを浴びせてきた。
「おはよう、直也くん!」
「……おはようございます、朝陽さん」
真顔で挨拶する直也に、姫野 朝陽(23)は満足感も露わに頷く。
誤解しないで欲しいが、直也は好きで名前を呼んでいるわけではない。朝陽からそう言われたし、その理由にも一理あると思ったからだ。
その理由というのが、
「お姉ちゃん、お弁当忘れてるよ」
静かに耳に届く、降り積もる雪のような響き。
柔らかな声質を持ったその子は、手に四角い包みをもって姉の後を追って出てきた。
腰の上くらいまであるクセのない髪は、光の当たり具合によって白にも金にも銀にも見える。姉と同じく整った顔立ちをしているが、年相応のあどけなさの中に大人びた雰囲気を醸していた。
姉と二人並ぶと、まるでマンガの世界に迷い込んだような錯覚を受ける。美人姉妹とはよく聞く言葉だが、現実に目の前に現れた時の衝撃を直也は今も忘れていない。
少女は直也を視界の端に見つけ、小さく会釈する。直也も会釈し返した。
「あ。ありがと~、ミヤ~!」
「ちなみに、ゴミ出しも忘れてます。今日はお姉ちゃんが当番です」
妹である姫野 深夜(15)に抱き着いてかいぐりかいぐり撫でていた手を止め、朝陽は笑顔のまま固まる。
すっかり頭から抜け落ちていました、と顔にでかでかと書いてある姉に、妹は小さく嘆息した。
「いいよ、私やっておくから。お仕事頑張ってね」
「ミヤ~! お姉ちゃん、ミヤがいなかったら生きていけないよ~!」
感極まったように抱き着く姉の腕をぽんぽんと叩き、「はいはい」と軽く返す妹。
美人姉妹の触れ合いを呆然と見ながら、どのタイミングで「それじゃあ」と歩き出すべきか直也は測りあぐねていた。
「直也くんはゴミ出しいいの? 学校はまだ余裕あるでしょ?」
唐突にこちらに話を振ってきた朝陽に、動揺を顔に出さないようにしながら小さく首を横に振った。
「いいです。まだそんなに溜まってないので」
「男の子だね~。でも、生ごみあるならすぐ捨てた方がいいよ。今はまだなんとかなるかもしれないけど、夏になるとすーぐコバエが湧くんだから!」
嫌な思い出を振り返るように眉をしかめて力説され、はぁ、と直也は力ない肯定を返す。
「一人暮らしでしょ? 夏は本当に気を付けないと。何か困ったことがあれば言ってね? お隣のよしみだし、ミヤのクラスメイトのよしみだし!」
ウィンクがこれほど似合う人を、直也は朝陽以外に見たことがなかった。
そして、これが直也が彼女を名前で呼ぶ理由である。
いや、ウィンクではない。朝陽の妹の深夜とは、同じ学校のクラスメイトなのだ。その証拠に、エプロンの下に着ている制服はどう見ても直也のものと同じデザインである。
同い年の、しかもクラスメイトの美少女を呼び捨てにする度胸は直也のどこを探しても出て来ない。自然と名字で呼ぶことになる。が、そうすると『姫野さん』が二人存在してしまう。
それを解決するための手段として朝陽が申し出たのが、『名前で呼ぶこと』だった。
当然ながら、直也には美人のお姉さんを呼び捨てにする度胸もない。『姫野さんのお姉さん』でいいじゃないかと思う。が、滅多にお目にかかれない美貌に笑みを浮かべて「ミヤと私、どっちを名前で呼びたい?」などと言われては凡夫たる少年に選択肢はなかった。
クラスメイトの妹よりは、年上でマンション以外で接する機会のない姉の方がマシだと判断した。苦渋の決断である。
一々『姫野さんのお姉さん』と言うのも面倒だよなと思い直して納得することにはしたが、呼ばずに済ませればいいんじゃないかと未だに薄っすら思ってはいる。だが朝陽がそれを許すとは思えないし、言えば「そういうのは失礼だよ」と眉を顰めるだろう。直也もなんとなくその辺を理解しているので黙っている。
まぁ、いざという時に「あの」とか「おい」とか呼ぶわけにもいかないし。
「何かあれば、お願いします」
今後とも頼ることはありませんという声色で言えば、朝陽は満足そうに頷いた。
憎めない人だ、と思う。その髪色のように、優しくキラキラと眩い。ノリがいい方ではない直也には、少しだけ目に痛い。
「お姉ちゃん、時間大丈夫?」
そっと妹が出した助け舟に、内心で直也は安堵する。いや、姉の為の一言なのだろうけれど、このまま会話を続けるのは厳しいところだったのだ。
腕時計をちらりと見て、朝陽は笑顔で頷く。
「そだね、もう行かなきゃ。ミヤ、お弁当ありがとう! 直也くんも気を付けていってらっしゃい! なんならミヤを送ってってくれてもいいよ?」
「早めに学校行ってやりたいことがありますから」
嘘である。
万が一にでも遅刻しないよう登校したいのはそうだが、別にやりたいことなど何もない。しかし、深夜と一緒に登校するのは勘弁願いたかった。ただでさえクラスに馴染めていないのに、学校で噂の『お姫様』と登校した日には何を言われるか分かったもんじゃない。
今度こそ悪目立ちせず、普通に学校生活を送る為にわざわざ隣の県まで来たのだ。面倒事は御免だった。
「じゃあしょうがないか。ま、何かあったらこっちこそ宜しくね。知ってる男の子が近くにいるっていうのは有難くてさ~」
「……まぁ、何かあったら力になりますよ」
このご時世、美人姉妹の二人暮らしというのは確かに大変な時があるかもしれない。一応隣人として、何か手助けが必要ならば本当に力になるつもりだ。直也とてそこまで社会性を失っていないつもりである。
彼女がこういう『お互い様』な話をするのは、妹の為かもしれないと直也は思う。朝陽が常に一緒にいられればいいが、社会人ともなればそうもいかない。年端も行かない少女を家に置く身として、もしもの時に助けになる異性がいるというのは心強いのだろう。
その少女と同じ年頃の男子をそこまで信頼するのはどうかと思うが、隣人として過ごした二か月弱ほどの時間で危険性がないのを理解してもらった、と思うことにする。
だから、というわけでもないが。面倒事を厭いながらも、姫野姉妹を邪険にすることは直也にはできなかった。
「お姉ちゃん」
「はいはい、行ってきまーす! ミヤも遅刻しないようにね~」
「私もすぐ出るから、大丈夫」
「うん、さすが私の妹。それじゃ、二人とも勉強頑張ってね!」
深夜から受け取った弁当を鞄に詰め、手を振りながら朝陽は小走りに階段を下りて行った。
三階建てのこのマンションには、エレベーターといった便利なものはない。代わりにセキュリティにお金をかけており、オートロック付きエントランスに加え共有部には防犯カメラもついている。引っ越し時にICチップ内蔵キーを渡され、なんだかSFを感じてドキドキしたのは誰にも言っていない直也の秘密だ。
現実的なお家賃とのバランスを考えると、かなりいいマンションだと言えるだろう。
階段を使うのも健康的だと言える。足腰は鍛えておくに越したことはない。
「それじゃ、俺も行くんで」
「はい、また後で」
返事代わりに頷いて、直也も階段に向かう。
また後で、なんて言っても学校で彼女と話すことはほぼない。直也もわざわざ話しかけようとは思わないし、あちらは友人達とのお喋りで手一杯だ。
きっとこのまま、卒業するまでただのお隣さんで終わるのだろう。階段を下りながら、ぼんやりとそう思った。
その考えはすぐに、今日の昼は何を食べようかという思案に取って代わられる。学食などというものはないので、登校がてら途中のコンビニで何か買うか、購買のパンにするかしか選択肢はない。
今月の生活費の残高を思い出しながら、どうするべきか直也は大いに頭を悩ませた。




