34
その日は、見事な晴天に恵まれた。
春の柔らかな日差し。
そよと吹く風は、冬の冷たさを完全に拭い切り、そして、まだ夏の暑さを含んではいない。
そんな完璧な天候の下、ホタルはお針子が縫いあげたウエディングドレスを身に付けていた。
ドレス工房の女店主が宣言した通り、これもまた天気に負けず劣らず完璧な出来栄えだ。
花嫁の純潔を現すための純白。
昨今の流行りだという細身のフォルムは、ホタルの細い身を際立たせながら、最近はとみに女性らしさを増した流麗な輪郭を描き出している。
首も肩も生地で覆う肌を露出しないデザインは伝統に則ったものだ。
これを解いて、花嫁の肌を晒し、触れることが許されるのは、その夫となった者のみ。
ドレス合わせに一度だけ同席したシキが『紐やらボタンやらが多くて脱がしにくそうだな』と呟いて、女性陣から白い目で睨まれていたのを思い出す。
だが、果たしてシキはこのドレスを紐解くことができるのだろうか。
それが危うい状況だ。
この完璧なまでの婚礼の良き日。
当の新郎は未だ戻らない。
「シキは帰ってくるのかしら」
この方は、本当に華やかな装いがよくお似合いになる。
彩り鮮やかなドレスに身を包んだアイリは、まだ来ぬ夏の日差しのように眩しい。
そして、言葉もまた夏の灼熱のように容赦がないのだ。
「ねえ、本当に、タキを身代わりにしちゃう!?」
かなり怒気を含んでいるそれは、ホタルに向かって言ってはいるものの、実際は傍らにいる夫へのもの。
ホタルは苦笑いを浮かべつつ、首を振るった。
さすがにタキを身代わりにするのはどうかと思う。
それは世間を、そして、神様を欺くことになるだろう。
それなら、まだ、公爵を代理にした方が世間的に道理が通る。
遠方からの花嫁を迎えに行った新郎の親族が、その地で代理として式を上げることはままある話しだ。
「……アイリ」
華やかな妻の隣で、ホタルの想い人にそっくりな方が大きなため息をついた。
この2、3日、タキは顔色がいたく悪い。
シキに遠征を命じた身を、アイリと母親に左右からチクチクと非難されているのだ。
それはやんわりとした甘い焼き菓子の中から、鋭い針が飛び出る辛辣さで、当事者のホタルが同情を禁じ得ない程に厳しい。
「戻ってくる筈なんですがねえ」
もう一度、大きなため息。
ホタルは開かれた窓から空を見上げた。
雲ひとつない空。
そこに何かの影一つ過ぎることはない。
耳には何も届かない。
いつからか、すっかり小心者になってしまったホタルは、シキが不在の間、その声を聞くことがまったくできなくなってしまったのだ。
ただ、必ず、戻ってくる。
そう信じて待つばかりの日々。
今も、そう。
きっと戻ってくると信じて。
こうして花嫁の衣装に身を包んで待っている。
「カイ様がご到着です」
ボタンの声に、ホタルははっとして身を正した。
今回の結婚式では、とにかくホタルにとってはもったいないことばかり。
中でも、とびきりなのがこれだ。
「……本気でいらっしゃったのですね」
現れた人に、思わず呟く。
信じられないことに。
恐れ多いことに。
花嫁の付き添いは、元の主である方の夫が名乗りを上げて下さった。
最初に、その話を聞いた時は耳を疑った。
元の主、といえばサクラ様。
その夫、といえばカイ様。
カイ様といえば。
大帝国キリングシーク皇帝の弟で。
漆黒の軍神として名を馳せる御方で。
現皇帝がご即位された際に、帝位継承権を放棄されたとはいえ、その威光は今だ皇帝を凌がんばかり。
そんな方が、寵妃の幼馴染の侍女だからって。
嫁ぎ先が、キリングシーク指折りの有力貴族だからって。
付き添いをかってでて下さるなど、前代未聞だ。
花嫁の付き添いといえば、通常は実家から嫁入り先までの道のりに同行し、新郎の元に新婦を届けるというのがその役目だが、実質は婚姻以降の後見を意味していることが多い。
花嫁の実家に力があればその父親、もしくは懇意の有力な貴族に頼むことが大半だ。
ホタルの付き添いについては、オードルの伯爵が妥当だろうと関係者は思っていたのだが。
思いがけず、カイ自らがそれに手を上げたのだ。
ホタルとしては謹んでご辞退申し上げたいところではあったが、誰一人として反意を示せる者がなく、気がつけば決定事項となっていた。
何の後ろ盾のない一介の侍女であるホタルが、公爵家に輿入れすることに、これで誰も何も言えないだろうと、マアサが安堵の涙を浮かべていたから、多分これは本当にすごいことなのだろう。
もっともシキは、これを聞いて、感謝を口にしつつも、少し嫌そうだった。
『カイ様の背後にはサクラ様がいるだろう』
だそうだ。
どうにも、サクラへの拘りを捨てきれないシキに少々呆れて。
でも、シキのサクラへの警戒心は、ホタルのサクラへの敬愛に比例しているのだと苦笑い。
「きれいにしてもらったな」
ホタルの前に立ったカイが、微笑んで褒めてくれる。
しかしながら、ホタルにしてみれば。
いえいえ、そういうカイ様こそ、だ。
その存在の象徴でもある黒の上衣は相変わらずではあるが、その上には皇族のみが身につけることのできる深い紫のローブを身につけている。
たっぷりとドレープの流れる胸元には金の組紐が優雅に絡み、肩の留め金にはサクラの瞳に似た彩りの鮮やかな緑の宝石があしらわれている。
こんなふうに皇族然とした姿をする軍神など、そうそう目にすることはない。
これが、ホタルのため、ホタルの後見が皇族であることを示すための装いかと思うと緊張で足が震えてくるようだ。
しかも、シキは未だ現れず。
なんか、やらかしてしまったらどうしよう。
急激に不安がホタルに広がる。
「すごいお花ねえ」
そんなホタルの不安をポワンと消し去るのんびりとした声が聞こえ、カイの背後からサクラがひょっこりと顔を出す。
驚いた表情で部屋を見回し。
「ジンから?」
尋ねてくる人に、ホタルは大きく頷いた。
花嫁の控室としても使われているホタルの部屋は、溢れんばかりの花に満ち溢れている。
身分のある方々が揃う場には、恐れ多くて行けようもないと祖父は今日は来ていない。
その代りというように、今朝方、この花達が届けられた。
門出を祝う明るい色調のものばかり。
本当なら、花嫁姿を誰よりも見て欲しい人だ。
ホタルを育ててくれた人。
血の繋がりがない後ろめたさから、心から甘えたことは少ないけれど。
でも、いつだって祖父は、その手を大きく広げてホタルに場所を与えてくれていた。
今この時も、公の場に顔は出せないと言いながらも、こうしてでき得る限りの心を見せてくれるのだ。
そして、それらの花の幾つかは、ホタルの装いを手掛けた心優しい侍女の心遣いで、華やかに結い上げられた髪にも添えられている。
まだ、式が始まってもいないのに、花々を眺めるサクラの傍らに祖父の姿を見つけた気がして、鼻の奥がツンとなった。
「泣くとお化粧が取れますからね」
いち早く気がついたサクラがそう言う。
誰かの口調を真似たようなそれ。
「くれぐれもお式の途中で号泣なさったりしませんように。堪えて下さいまし」
サクラは微笑み、人差し指を立てて、それでホタルのおでこを突く。
「……って、私もマアサに注意されてきたの。ホタルが泣いたら、絶対つられて泣いてしまうから……堪えてね」
そんなこと言われたら、よけい泣いてしまいそうです。
「そうだな……ドレスや髪が乱れるからと今朝からキスの一つもさせてもらえない俺のためにも、なんとか堪えて欲しいものだな」
サクラの横に立つ、カイの珍しい戯言にホタルの涙が引っ込む。
どんな状況でも、威力がある軍神の一言だ。
「私が禁じたんではありませんもの……」
頬を染めながら言うサクラの今日の装いは、こちらも皇族に連なる方として紫をローブを身につけている。
カイの身につけているものより色は随分と薄く柔らかな雰囲気を醸し出してはいるが、彩る金の組紐は同じもののようで、結いあげた髪や耳を飾る宝石もまた、カイの肩にあるものと同じだろう。
その姿はどこからどう見ても、軍神の寵妃だった。
幼い頃からホタルと共に在った小さな主。
姉妹のような。
親友のような。
でも、もう違う。
そして、ホタルも変わるのだ。
「サクラ様、すっごく緊張してきましたあ」
思わず、泣き言が出る。
サクラは、きょとんと目を瞬かせた。
その様は、初めて出会った頃のよう。
そして。
「……転びそうになっても、ちゃんとカイ様が支えてくれるから」
無造作に、椅子に座るホタルの前にしゃがみ込む様も。
あれ、と思う。
先ほど見た妃殿下は見間違いかと思うほど。
「ドレスが乱れないように、カイ様をも遠ざけていらっしゃったのではないですか?」
つい、昔の侍女の口調で言えば。
サクラは破顔する。
「ジンもオードル家から祈ってくれている」
サクラの言葉に応えるように、窓から吹き込むそよ風に花が揺れた。
「皆がホタルの幸せを祈ってる」
サクラは立ちあがった。
「大丈夫」
いつか、幼い少女が耳を塞いで『大丈夫』と言った時のように。
ホタルの中に大丈夫が広がっていく。
ホタルは頷いて立ちあがった。
差し出されるのはカイの手。
ホタルはそれをしばし眺めた。
皇族の方の手の平はもっと優雅なのかと思っていたけれど。
この方の手は、シキの手と同じくらい……もしかしたら、それ以上に筋張り硬そうだった。
「カイ様と腕を組んで歩くのが……多分、今日一番の緊張の瞬間だと思います」
言いながら、差し出された手の平に自ら手を乗せる。
カイが慣れた動作で、そのホタルの手を肘へと添えさせた。
「それは困ったな。花嫁の付き添いの特権は……花婿に手渡す時にキスできることではなかったか?」
それは、平民の慣習ではないでしょうか!?
確かに耳にする慣習ではあるが、先ほどボタンから聞いたお式の流れの中に、そんなのはなかった。
ぎょっとするホタルをよそに、サクラは反対側のカイの腕にするりと手を添えて楽しげに呟いた。
「でね……シキ様が戻られなかったら、そのままカイ様と一緒に帰りましょうね」
結婚式は、スタートン家の庭で行われる。
春の花が咲き誇る中、祭壇が設えられておりそこに司祭が立っている。
公爵家の結婚式ということでそれなりの立会人が招かれてはいたが、あまり派手派手しくはしたくないというシキの意向は、ここは反映されている。
そして、本来であれば、新郎が立っている場所には公爵がいた。
やはり、無難にこうなるのだろう。
予想通りの状況で、ホタルに動揺はない。
ちらりとカイを挟んだ向こう側にいるサクラに目を向ければ、薄いベール越しに見えるはその人はホタルの大好きな微笑みを確かに浮かべている。
「このまま、ラジルに攫うか?」
頭上から聞こえてくるカイの口調は、少々笑いを含んでいた。
「2度目だからな……兄上には少々説教を食らうかもしれんが」
小さな笑いを零したのはサクラだ。
そして、ホタルに全てを任せるというように、カイの腕を離して公爵家の元に歩いて行く。
ベールに覆われた表情は見えないだろうから、ホタルは小さく、でも、はっきりと首を振った。
だって。
「……本当は結婚式なんて良いのです」
そう、本当は結婚式なんて、しなくたって良いのだ。
もう、何度も想いを確かめ合って。
幾度と誓いを立てて。
迷いなんて、何もないから。
司祭様のありがたい説法なんて聞かなくても。
何よりも大事なことを、もう十分に知っている。見失ったりしない。
白いドレスを来て、シキの元へと歩きたい夢は少しばかりあったけれど。
「そうだな」
カイが同意し、歩き出す。
シンと静まりかえる中を、純白の花嫁は、漆黒の軍神に連れられて進んでいく。
緊張で、何も聞こえないかと思われた耳に、不意に小さな音が届く。
足が止まる。
気がついたカイがすぐに留まり、頭上を見上げた。
それに倣うように、そこにいる全ての者達が空を仰ぐ。
「……来たな」
カイの呟き、そして、不意に青空に数個の黒点が現れる。
数匹の翼竜。
大きく翼を広げた神獣とも言われるその姿に、大きなどよめきが庭に広がる。
その内の一頭が地上に降り立ち、その背から一人の男が飛び降りた。
身につけているのは到底身分ある者とも、今日の新郎とも思えない薄汚れたマントではある。
「間にあったかな?」
だが、呟く声を聞き間違える筈がない。
カイが公爵に向かっていた進路を変えて、翼竜を労う男に近付いて行く。
公爵が少々残念そうに、だが、嬉しそうに肩を竦める姿がホタルの視界の片隅に映った。
「連れて帰るところだったぞ」
無人の翼竜が、ふわりと空へ舞い上がる。
皆がそれを見送る中、ホタルはただまっすぐにその人を見ていた。
「冗談でしょう。結構、頑張ってきましたよ。でも、報告はイトから聞いて下さい」
シキはそう言って、マントを外した。
少しばかり薄汚れてはいても、貴公子然とした笑みに翳りはない。
そうして、頭上に何かを合図する。
途端に、空を旋回していた数匹の竜から何かが降ってくる。
それは、色とりどりの花々だった。
身近に咲くものから、見たこともない彩りのものまで。
多分、各地方から集い集まった者達なのだろう。
荒くれどもらしからぬ華やかな祝いに、庭にいた人々から感嘆の吐息が零れる。
「……降りてくる気はないか」
シキが天空に戻した無人の竜に、他の竜に乗っていたイトが飛び移るのが見えた。
そして、すぐにも方角を変えて飛んでいく。
他の竜達もそれに倣うように、あっという間に四方に散っていった。
「ないでしょう……イトだって、さっさと報告を済ませて、帰りたいでしょうから」
カイは肩を竦めた。
そして、ホタルの手を取り、その甲に唇を落とした。
呆然とシキを見つめるばかりだったホタルは、それにまともな反応を返すこともできず。
「さっさと式を終えて来い」
カイの手から、シキの手へと。
ホタルが導かれて。
カイが離れて歩いて行く。
その先には、サクラがいて。
やはり、微笑んでいた。
そして、目の前にシキがいる。
「遅くなって悪かった」
かけられる声。
きちんと仕事は終えられましたか?
怪我はしていませんか?
そんな問い掛けに、笑み一つで答えが返る。
聞こえない耳に、確かに大丈夫だと聞こえる。
だから、ホタルは微笑んだ。
「不安にさせたな?」
不安になることなんて、何もない。
首を振った。
ここに来るまで、いろいろなことがあったから。
でも、今は、何も迷うことなどない。
「お戻りになると信じてました」
だって。
「そう……誓って下さったもの」
ホタルは、侍女ではなく、貴婦人として。
騎士ではなく、夫を迎えるべく、純白のドレスの膝を折り迎え入れる。
「お帰りなさいませ」
私は貴方の無事を祈り続ける。
「ああ……ただいま」
俺は必ず君の元に戻る。
願う。
想う。
お互いに。
お互いを。
そう誓った。
祭壇の前にいた司祭はしばらくシキとホタルを眺めていた。
やがて、微笑みをその皺の深い面に浮かべる。
「……では、誓いの口づけを」
既に誓いは立てられていると。
全てを承知のように。
告げられる司祭の言葉に。
「……話が分かる司祭で助かるな」
言うなり、シキはホタルを抱き寄せ、ベールを剥ぐと口付けた。
わあっと周りに歓声が上がるのを聞きながら、ホタルはシキを抱きしめた。
その想い。
その願い。
貴方とならば。
君とならば。
それはいつだって、必ず叶えられる。
完結です!
少々、当初の予定より長くなってしまいましたが。。。
結婚式まで辿りつけたあ!
お付き合い下さった読者様、ありがとうございました!