六話
これで終わりです。
正しくいられるのは、背負うものが少ない間だけだ。
全校生徒の取り締まり役、抑止。大仰なようでいて、大したものではない。踏み外したところで、余程でなければ社会から、人生から弾き出されるほど大層な肩書きではないのだ。
重いか? 苦しいか?
問われて黙するのは、自覚しているからだった。
「これより、第六十八回桃城学園卒業式を開会致します」
双肩に乗ったほんの僅かな責任は、後輩へと託した。後輩がこの学園でなにをどのように取り締まるのか、それはもう桐枝が考えなくてはならないことではない。その段階は肩書きを譲ったときに過ぎたものだ。
真実身軽になった桐枝はしかし、臨んだ卒業式に送られて学園の門を出たときに今までとは計り知れないほどのものを背負うことになる。
桐枝だけに限った話ではないし、桐枝よりも重いものを背負うことになる生徒もいる。
たとえば、卒業生代表として壇上に上がった千寿。
卒業式間近になれば、もう千寿は以前の影を見せなかったし、周囲は以前のように千寿へ接しなかった。
穏やかで、人当たりが好くて、真面目。
それが桃城学園で最後に刻む千寿の認識にして、後々に同窓生が語る彼の人柄だ。
ふざけたことをやらかして、周囲を巻き込んで、なんやかんや笑顔を振りまいて、桐枝に叱られていた千寿はいない。いなくなる。
千寿の変化をつまらなさそうに、期待外れだというように見る向きは確かにあったけれど、仕方のない事だと諦めじみた感情と共に彼らは千寿から適切な距離をとった。
束の間の自由を謳歌しても、最後に残るのはこんなものだ。何も残らない可能性だ。結末だ。
結局は、逃避でしかなかったのだから、当たり前だった。
卒業式を終えて、少しでも時間を引き伸ばしたいというように卒業生は別れを惜しむ。
桐枝もまた多くの生徒たちから声をかけられたけれど、上手く交わして視線を人混みへと巡らせた。
「藤樫」
後ろから聞こえたのは、もう桐枝を委員長とは呼ばなくなった大鳥の声。
振り返る間もなく耳打ちされたのは、校内にある使われていない教室の一つ。ツーカーの仲である大鳥は訊ねることをしなくとも、表情一つ見ることをしなくとも、桐枝がなにをしたいのか、しようとしているのかを察してくれる。
「お前がうちへ来てくれるのが心底嬉しいわ」
「俺も楽だからな。さっさと行け」
振り向かずとも大鳥が犬猫にするよう手を振っていることくらい桐枝にだって分かるのだ。そういう仲だから。
誰かがまた自分を探しているような声がしたけれど、桐枝は迷いもなくその場から駆け出した。
その足はまるで何かを追いかけているように速く、これくらいできなくてはならなかった日常が確かにあったのだと証明するよう、桐枝は息切れの一つも起こさぬまま大鳥に告げられた教室の前へと着いた。
跳ね返るほどの強さで開けた戸はけたたましい音を立て、中にいたひとが肩を跳ねさせながら振り返る。
「……どうしたんだ? 藤樫」
穏やかに笑う千寿。
「しておきたい話があったんだよ、雅洒髑髏」
「きみでも卒業式にはしんみりした気持ちになるのかな。だとしたら、失礼だけど少しだけ意外だ」
――アンタでもしょんぼりしちゃうのねー? 驚かせてくれたお礼にアタシが慰めてあげましょうか? たっかいわよー? ア・タ・シ。
いつかであれば返ってくるだろう軽口が千寿の口に上ることはない。
「お前について、馬鹿なことを言っていたやつがいたわ。GDグループの社長令息サマが緩い育ちしてるわけねえだろうにな」
「唐突だね……まあ、なにを言われたかは察するよ」
察しはしても謝罪はしない。
もう、なかったことになったから。
求めれば千寿は応じるだろうけれど、あと数時間もしないうちにその謝罪さえもなかったことになるのに、なんの意味があるだろう。そも、桐枝はその謝罪に最初から意味など求めていないし、欲してもいなかった。
「で、話ってなんだい? きみが態々俺を探してまでしたいっていうのは、少し興味があるよ」
「俺の家の情報漏洩が一つ」
「……それは、なんとしても聞いておきたいな」
千寿の実家が経営するGDグループに、桐枝の実家が経営する企業TOGASHIは喰らいつかんと日々猛追している。その家を継ぐ人間が情報漏洩など冗談にしても笑えないが、千寿は聞く態度を取って促した。
「今までうちがどの分野でお前のとこを追いかけていたかはご存知だが、近々新しい部門が設立される」
目を眇めた千寿の前で、桐枝はさらりとGDグループがほぼ独走している分野を専門に扱う部門の設立を告げた。
「俺が本格的に実家へ属する頃には歯車も回り始めているだろう。俺はその歯車を円滑に回し、その効果を増幅させるよう求められる」
「たかが数年でうちに追いつけると思っているのかい」
「必要なことはなんでもするだろうな」
「……はは! きみもまた、この学園で一時の自由へ浸っていたのか……! あの正しかったきみが!」
「悪事に染まり切ると今から断定してんじゃねえよ」
「似たようなものじゃないか。可能性を否定できないんだろう?」
桐枝は曖昧な笑みを浮かべて答えない。
そういえば、こんな笑みを時折浮かべていたな、と思いだした千寿は脱力したい気持ちになった。
「で、本題だが」
「宣戦布告が本題じゃなかったのかい……」
「いや、宣戦布告はある意味これからだ」
怪訝な眼差しを向けてくる千寿に、桐枝は両の手のひらを見せながら誘いかけた。
「――鬼ごっこをしよう」
千寿が目を見開く。
「俺は絶対にもう一度お前を捕まえる。お前の前に立つ。できるものなら逃げ切ってみせろ」
GDグループを率いて立つことになる千寿に必ず追いつくと、桐枝は宣言した。
桐枝を大言壮語の輩と千寿が一笑に付すのは簡単である。そうできるほど、分野における立場、格の違いというものが桐枝と千寿の間には存在した。
だというのに、千寿の口から出てきたのは嘲笑ではなく、震えた声による質問。
「もし、きみが俺を捕まえたら、どうするんだ……?」
「俺は先へ、前へ向かって逃げるだけだ。捕まえられるものなら捕まえてみろ」
「……それじゃ、それじゃあ……ずっと、終わらないじゃないか……」
桐枝に掴まった千寿が、今度は桐枝を追いかける。千寿から捕まることあれば、桐枝は再び千寿を追いかける。
繰り返しだ。
延々と、終わりがない。
「それを、望んでいたんだろう?」
桐枝は千寿が向けてくるのに相応のものを返してきた。
「いま」が終わってほしくないと叫ぶよう願っていた千寿のことを、桐枝は知っている。
叫び散らして、当たり散らして、振り撒かれた千寿の好き勝手に桐枝は相応の態度で当たった。
ならば、終わってほしくないくせに悲鳴すらも飲み込もうとする千寿に桐枝はどうする?
その答えが此処にある。
「……――違うよ」
「あ?」
千寿が首を振り、否定の言葉を口にしながらもひどく幸せそうな顔をした。
「違うけど、それでいい……いいよ、藤樫。その『宣戦布告』確かに受け取った。十年かな、二十年かな。追いつけるものなら追いついてごらんよ」
「上等だ。いつだって追いついてきただろ」
そうだね、と頷いた千寿には桐枝へ対する否定の色などなく、心底から桐枝の宣戦布告を受け入れている。
それさえ分かれば桐枝には十分であり、もうこの学園で思い残すものはなにも存在しない。
「じゃあ、それだけだ」と一言置いて出ていこうとする桐枝を、千寿が呼び止めた。
首だけ振り返らせた桐枝が見つめる先、穏やかさとはかけ離れた挑発するような、好戦的な顔をした千寿が腕を組んでいる。
「待ってはあげないよ」
「当たり前だ」
ふたりは同時に笑い「卒業おめでとう」というありふれた言葉を心から贈り合って、桃城学園を後にした。
「――の業務提携に関しまして担当致します、雅洒髑髏千寿と申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
「藤樫桐枝です。こちらこそよろしくお願い致します」
ある年、頬から円みをなくした男がふたり、それぞれが属する会社の名を背負って挨拶を交わした。
GDグループとTOGASHI、二つの企業が大々的に協力して取り組むのはGDグループが長年独走していた分野に関する研究開発であり、TOGASHIがこの提携に持ち込めるまでにかけた時間は異常ともいえるほど短い。それだけの結果をTOGASHIは叩きだしていたのだ。
担当者として顔を合わせたのは同い年の男同士であり、母校を同じくするもそこに慣れ合いの気配はない。
ただ、先行きを安堵させるに十分な親しみだけは確かに存在した。
「……と、今日はここまでいいでしょう」
「ああ、もうこんな時間ですね。藤樫さんはこの後お時間ありますか?」
「ええ」
「よろしければ、親睦を深めがてら食事でも如何でしょうか?」
「喜んで」
仕事の話から離れたふたりは幾分顔つきを穏やかに変え、並んで店を目指しだす。
近くに隠れ家のような名店があるのだと紹介した千寿に従って歩く道は人通りが少ない。
「――ねえ」
見ている人間もいなくなった頃から愛想笑顔をやめたふたり。沈黙を最初に破ったのは千寿であった。
桐枝は返事をしようとして、ふと足を止めて千寿を凝視する。
数歩先を歩いて立ち止まった千寿は振り返り、もう一度口を開いた。
「ねえ」
先ほどと同じ音。
堅苦しい「よろしいでしょうか」でも、気安さ変わらぬ「なあ」でもなく「ねえ」という声のかけ方。
それはもう、随分前に桃城学園へ千寿が置いていった懐かしい言葉遣い。
「……なんだ?」
今度こそ桐枝は返事をする。
「アタシ、捕まっちゃったわ」
桐枝は曖昧な笑みを浮かべながら、完全に懐かしい口調へ戻った千寿の言葉に耳を傾けた。
もう、すっかりとこどもではなくなった、いられなくなったのに、たかが口調一つでこうもかつての面影がそのままそのひとに被さるだなんんて、桐枝は今まで知りもしなかった。千寿だって、きっと自覚していないだろう。
「アタシね、ずっとずっと終わらなければいいって、あの時にはもう思っていなかったのよ」
「……あ?」
「アンタは随分頑張ってくれたみたいだけど、アタシの求めていたものとは微妙にすれ違っちゃってるわねー。ご苦労様?」
「……この糞が」
凶悪な面構えで吐き捨てる桐枝にころころと笑いながら、千寿は更に言葉を続けようと笑みを止ませる。
これ以上なにを言うつもりだろうかと睨みつければ、千寿は桐枝のそんな表情、眼差しこそが懐かしいのだとばかりに目を細めた。
「少しでよかった。一瞬でもよかった。アタシは……アンタの特別が欲しかったのよ」
思いもよらぬ言葉である。
桐枝はぽかんとして、無意識に、脳を介さず、そのまま口から言葉を零す。
「お前、ばかだろう」
「っそうよね――」
「人生傾けられといて、特別なつもりなかったのか」
痛みを混ぜた声に被せられた言葉に千寿が全ての動きを止める前で、桐枝は盛大なため息を吐いた。
「尽くされて当然の考えがきっちりと根付いていたわけだ。いいか、この糞馬鹿野郎。この先もてめえと延々いることになる俺がはっきりと言ってやる。てめえほど手がかかって、てめえほど面倒臭くて、てめえほど計算上手に俺の回りちょろつくやつが他にいて堪るか」
「なに、よ、それ……」
「お前以外に追いかけてきたやつなんざいねえってことだよ、糞馬鹿。まあ、今度は精々お前から追いかけてくれや」
「なによ……なによそれっ、ちょっと、どういうことよ!」
「言っただろ? 俺は相応のもんを返すだけだ。お前がもういらねえっつうなら、俺ももう鬼ごっこ終了で構わねえよ」
人生を傾けたとまで言ったくせに、桐枝はあっさりと傾けた先を放り出そうとする。
千寿が止めたければ、桐枝も止める。その程度の感情でしかないのだとでもいうように。
それが相手にとってどれだけ認め難いか、許し難いか、腹が立つことか。全部分かった上で桐枝は容易く言い切ってしまえる。
正しかった風紀委員長はもういないのだ。
いるのは質が悪くて狡猾な男。
「冗談じゃないわよ! よくもまあここまでアタシを馬鹿にできたものねえ? ええ、ええ、覚悟なさい、桐枝! この雅洒髑髏千寿様が全身全霊で追いかけてあげるわ。すぐよ、すぐあんたなんか捕まえてやるんだから。そのときになって後悔するがいいわ! アタシによって骨抜きにされたアンタを肴に秘蔵酒開けて笑ってやるわよ、ええ、決定!!」
「はっはー、そいつぁ楽しみだ」
金切り声を上げる千寿に笑いながら並び、桐枝はぽん、と肩を叩く。
「ひとまずは飯にしようぜ?」
「……こんなことなら手作り弁当でも持ってきてやるんだった!」
「胃袋ならむかしに割と握られてるんで、次からよろしく」
「うるせーわよ、バーッカバーッカ!」
喧しく罵ってくる千寿の声を聞き流しながら、桐枝は自分を追い掛け回してくるだろう千寿を想像して口角を上げた。
桐枝は相応のものを返す。
それは、一方的に関係の初期化を強いられたことへの報復にも言えることであった。
必死になればいいと思う。
あの手この手を使えばいいと思う。
なんとしてでも自分を捕まえるのだと、追いかけてくればいい。
桐枝が千寿を追いかけたときのように。
「千寿、早く俺を捕まえろよ」
「当たり前……いま、名前呼んだ?」
「さあな」
すっとぼける桐枝は千寿に「ねえねえ!」と迫られながら、振り回される腕をそのまま好きなようにさせ続ける。
目的の店に入る頃になっても千寿が諦めなかったためふたりは腕を組んでいるかの様体になったが、隠れ家的名店の店主はなにも言わずにふたりを他の客から見つかり難い席へと案内するだけであった。
薄暗い店内の更に誰からも見えないテーブルの下、緩く繋がれたふたりの手。
誰にも知られなければないのと同じ。
なにもなかった過去をそのままに、なにもない現在を続けよう。
束の間の自由、遊びは終わった。
けれども、本気の鬼ごっこは始まったばかりである。




