29 伝えていいんだね
夜、『ありす』に行くのは初めてだった。
遅くまで開いているという話は凛から聞いていたが、店は確かに
煌々と明かりを灯していた。
「爽君は、来ているかどうかわからないぞ。」
「いいよ。凛が、おまかせディナーが美味しいって自慢してたんだ。」
よく考えると、志筑兄弟については、恭平もほとんど知らないのだ。
わかっていることと言えば、兄が薬剤師で、弟が大学生であること。
兄が、バイクを持っていること。
『ありす』の近所に住んでいて、弟の方が、バイトのない時は、しょっちゅう食事に来ているという事ぐらいだった。
3台しか置けない駐車場には、恭平の車以外に止めている車はなく、もちろん、巧のドラッグスターの姿も無かった。
ドアを開けると、カランカランと音がした。
夜だからか、そのベルの音がやけに響く。
こじんまりした喫茶店の中には、やはり、志筑兄弟の姿はない。
志筑爽の定位置らしい、入って右の奥のテーブルには誰もいない。
ドアからは反対側になる左のテーブルの奥には、以前、見かけたことのある背の高いサラリーマンとOLがいるだけだった。
凛の母親であるママに、何時まで開いているのかと尋ねると、
「お客さんがいるまでは、あけてるんです。」
と、笑った。
もともと、わかりにくい辺鄙な場所にある。
「爽君は、今日は来たんですか?」
ママに聞くと、
「今日は、ランチに来たんですよ。夜は、多分バイトの日だと思うけど、でも…帰りに寄るかもしれませんよ。」
と、意味ありげに笑った。
「?」
会えるのではないかと期待していた恭平は、少しがっかりしたが、渉は、懐かしそうに、喫茶店を見渡していた。
ここから、全てが変わったのだ。
あれから半年もたっているのが信じられない。
「ここで、俺、バカみたいに泣いたんだ。」
少し気恥ずかしそうに渉は笑った。
「色々あったな。」
「先生には、本当にお世話になりました。」
ペコリと、渉は、頭をさげた。
「ほんとに素直になったな。」
「人が折角感謝しているのに。」
「いや、俺も勉強になった。教師生活1年目で、お前に出会って良かったよ。」
「俺が超問題児だったから?」
「いや、すごくいい奴だったから。」
「何だよ、いったい。」
恭平と渉との間に、こんな穏やかな空気が流れるなんて、一学期には、思ってもみないことだった。
おまかせディナーは、ワンプレートだったが、期待以上のものが出てきた。
爽が、バイトのない時は、毎日、ここで夕食を食べると言った理由がよくわかる。
凛が言うには、凛の母親の唯一の趣味が料理だったとかで、料理に関しては自慢できると自慢していた。
そして、食後の珈琲を飲み干したところで、カランカランとドアにかけられたベルが鳴った。
ドアに向かって座っていた渉が、見つけたのは、爽だった。
何となく、会える気がしていたのだ。
「爽さん。」
爽は、目を丸くして、恭平たちのテーブルのそばにやって来た。
「恭平さん、榛名君、お久しぶりです。」
「食事?」
と、恭平が聞くと、ママが、カウンターから声をかけた。
「これでしょ。」
取り出したのは、教科書のようだった。
「ああ、それ。すみません。」
どうやら、ランチに来た時に、忘れて帰ったもののようだった。
「爽君でも、忘れものするんだな。」
恭平が、意外だと言うと、
「ここは、あまりに居心地がいいもんだから、緊張感なくて、しょっちゅう忘れています。」
「へえ。」
そう言えば、チャネリングしていない時の、爽の普段の様子は、想像がつかなかった。
爽について、信頼できると思うと渉には断言したものの、実際のところ、普段の爽の姿を恭平は知らないのだ。
「珈琲でも飲まないか?」
と聞いてみると
「明日、試験なんで…。」
と、ママから受けとった教科書を掲げてみせた。
「そうか。」
志筑兄弟に、会えたらいいなと思ってはいたが、会って何をしたいわけでもなかった。
それは、渉も同様で、爽に会えただけで、満足しているようだった。
「じゃあ、俺達も、帰るか。」
「はい。」
恭平が、支払いを済ませるまで、爽も一緒に待っていた。
3人で『ありす』を出て、
「じゃあ、また。」
と、駐車場で、爽と別れようとすると、爽が、軽く微笑みながら、つぶやいた。
「伝えていいんだね。」




